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シェーカーにとっての『共同体』

かつてシェーカーの人々は共同体を形成し、自給自足の集団生活を行い、その宗教ソサイエティーはアメリカの建国期から20世紀半ばまで続きました。

ベンチや大きなテーブル、大容量のキャビネットなど大人数で利用するための家具や建具が、シェーカーの各コミュニティで用意されたのも、彼らが共同生活を営むことに起因しています。


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開拓、建国、南北戦争といった混乱期のアメリカにおいて、シェーカー独自の文化やライフスタイルが醸成された背景には、共同体経営を基盤とした長期の生活環境の安定がありました。


以前にも触れましたが、シェーカーは「キリストの再臨」と「千年王国の実現」を宗教的根拠に共同体を形成しています。彼らにとって千年王国、楽園、「ユートピア」である共同体を実現し、そこで暮らすことが信仰の前提となりました。

シェーカー以外の多くの宗教諸派も18世紀から19世紀にかけてアメリカに渡り、彼らの考える「ユートピア的共同体」を形成しました。アメリカという未開の土地と豊かな自然に向けられた理想郷の可能性は、ヨーロッパの文明的発展とまさに対極にあったことがわかります。

この「ユートピア」についても宗教諸派によりそれぞれの理論や思想、多様な形態が見られますが、特にシェーカーにおける「ユートピア」は財産の共有、外界からの隔離、平等で均質な生活、独身主義の徹底がその特徴として挙げられます。(独身、遁世、共産に合わせ懺悔も挙げられますが、不勉強な領域なのでまたいずれ触れたいと考えます。)

彼らの家具、道具、生活、規律は根本的にシェーカーの考えるユートピア的共同体を実現するためにデザインされ始めたとも言えるかもしれません。


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シェーカーは1800年までに11の共同体を各地に拡げ、次いでアメリカ全体の西部開拓に合わせ1820年頃には19ヶ所に至りました。1840年代には合わせて6000人を超える共同体と成長し、この規模はアメリカ史上でも特筆すべきユートピア共同体として挙げられるほどです。

いずれのシェーカーコミュニティでも、彼らの理想の暮らしを実現するために、厳しい規律の下、集団生活が営まれました。特に素朴な生活や清掃への関心、労働の分担などの細やかな規律は、信仰としての生活規律であると同時に、集団を組織立てる重要な役割を担いました。


信徒の増大は、労働力の強化に直結し、衣食住の安定した生産をもたらしました。最盛期のシェーカーは家具、道具、建築、衣類、靴、食糧、おおよそ当時生きるために必要なものは自分たちで賄うことが可能でした。

その頃の改修者は多様で、神秘的体験や信仰に共感する「信仰的動機」を持った人々と共同体の安定した生活環境に魅力を感じる「経済的動機」を持った人々が混在する状態にあり、共同体の経済的な安定というある種の成功はそれぞれの動機に関わらず、連帯を高め、信仰に対する信頼を強化していきました。

安定した生活環境が整った場所へ人が集まり、人が集まることにより労働力が補充され、より安定した生産を行うことができる。この好循環が初期のシェーカー共同体にはあてはまります。


その後、信徒の高齢化、外部社会の資本主義化による生活や価値観の変化が大きく関わり、彼らが当初目指していたユートピア的共同体の維持が困難となり、衰退を余儀なくされます。

アメリカ大陸内の外部社会では、広大な土地の資源を有し、大量生産のための工場が整備され、海外に向けた資源と製品の輸出で激しい経済成長を見せていた時代、ダーウィンの進化論やプラグマティズムの勃興と、宗教的な世界から科学的な世界へ移り変わり始めた激動の時代でもあります。


そのような1800年代の後半、外部社会との関わりが始まり、対外的な家具販売を行うようになると、それまでの自分たちの道具としての家具は、商品へと変わっていきます。その頃からの家具は共同体での使用ではなく、外部社会での使用を前提としたデザインに変わっていきます。

特に、19世紀末にはそれまでの簡素なスタイルからより装飾的な家具も散見されていきます。教義の権威が弱まった、もしくは、外部社会の需要に応えたとも取ることができる変化の一つです。


元来、共同体の理想の生活を送るために発生した家具や道具のスタイルが、その共同体を維持するための商品となりその形を変えていきます。ある意味では、どちらも、シェーカーという共同体のために作られたと言っても良いのかもしれません。

どの時代であれ、シェーカーは共同体という一つの基準を持ち、意思決定をしていました。この激動の時代の岐路に立ち、この変化と文化の継承との間にある葛藤は、シェーカーの物作りを学ぶ上での醍醐味のようにも感じています。










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