信仰の手段としてのコミュニティー
シェーカーの四大実践原理は、「懺悔」「独身主義」「資産の共有」「世界からの分離」と言われます。その実践の具体的な手段として、彼らは俗世間から離れ、自分達の理想社会を自分達の手で築き上げ、そこで共同生活をする決断をしました。
これはシェーカーの最初の指導者であるアン・リーの時代ではなく、アメリカに渡り、教団と信徒の行く末を委ねられた3代目の指導者であるジョセフ・ミーチャムの判断でした。
コミュニティーの成立は、1787年のマウントレバノン、ウォーターブリットに始まりました。マウントレバノンはシェーカー教団の総本山であり、ウォーターブリットはシェーカーの最初の定住地でした。
その後、1790年代から1794年までに、まさしくマウントレバノンを中心とした波のように、マサチューセッツ州のハンコックを皮切りに、メイン州のグロースター(サバスデイレイク)まで9つのコミュニティーが生まれました。ニューイングランド地方におけるコミュニティー建設の第一波と言えます。このほとんどは、アンリーの存命の時代の布教の旅による改心者たちによるコミュニティーで、既に信徒として自覚している者たちが、具体的に一つの場所に集まり、生活を共にするという方針が示されたことに応じて、コミュニティーとして成立するに至りました。
コミュニティー設立の第二波の舞台は、1800年初頭のアメリカの中西部ケンタッキーとオハイオでした。アメリカ史にも残る第二次大覚醒と言われる回心ムーブメントは、ケンタッキーリバイバルと呼ばれます。この恩恵に与ったのはシェーカーだけでなく、多くのプロテスタント諸派が信者を増やしました。
この時代のマウントレバノンは既に豊富な信徒を抱え、様々な施設も整い、安定した経済と運営体制を確立していました。その例に倣い、マウントレバノンを模範として、中西部でも改宗者の獲得と同時にコミュニティーが作られていくことになります。
中西部ではコミュニティーの居住棟や仕事場などの建築が急がれ、1820年代という非常に早い段階で、シェーカーらしい美しく整備された集落が形成されました。厳しい生活を求められる開拓前線である中西部でシェーカーの暮らしは、羨望の的であったかもしれません。豊かで安定したコミュニティーでの生活を求めて改宗する者も珍しくありませんでした。
特に、中西部躍進の中心地となったとユニオンビレッジは、1810年代終わりに信徒数のピークを迎えるほどの急激な成長が見られ、おおよそほとんどのコミュニティーが1820年代からの数十年間に黄金期を迎えます。
第一波と第二波との大きな違いは、シェーカーへの改宗とコミュニティーへの参加がイコールとなっていることです。ニューイングランド時代の布教の時点では、コミュニティーでの共同生活の具体的なビジョンは示されておらず、改宗者は時折、周辺で開催される礼拝や集会に参加するような形式でした。
現在、シェーカーのコミュニティーは短命のものも含めると25のコミュニティーの場所と名前が明らかとなっています。フロリダやジョージアといった少し離れた場所にも、熱心な信徒が生まれ、コミュニティーを作る動きがありました。しかし、中西部への拡大以降、離れた場所で改宗を求められた場合、信徒として相応しい生活(コミュニティーでの共同生活)を求めるシェーカーの信仰のあり方にあって、信徒はその場から離れるか、その土地に新たなコミュニティーを作るかという二択を選ぶ必要がありました。そして、新たなコミュニティーの建設は決して容易ではありませんでした。
1822年のノースユニオンを最後に、その地に根付き、長く続くようなコミュニティーが生まれることはありませんでした。
シェーカーのコミュニティーという制度は一見、大きな信徒たちの受け皿にも見えますが、シェーカーの人々の教義実践のために選択した手段であり、同時にシェーカーの改宗の困難さの表れでもあります。