労働の原動力について
シェーカーの人々は勤勉かつ意欲的な労働者として知られます。
丁寧な仕事をする職人集団のものづくりとしてシェーカースタイルのアイテムは今なお、人を惹きつけるものでもあります。
その労働、仕事の原動力について書いていきます。
これまでにも触れてきた通り、シェーカーの人々は積極的に分業の制度や電気、機械を導入し、自分たちの労働環境を快適にするよう努めました。
そこには労働が苦行、修行のような類の物ではなく、神との繋がりを見出す神聖な行為であると考えていたことが大きく関係しています。
シェーカーの人々にとっての「善い在り方」の直接的な行為として労働が位置していたとも言えます。
その実、彼らは生活の中のほとんどの時間を労働に捧げていました。
私有財産を放棄することを望まれる共産制を掲げるシェーカーコミュニティーにおいて、自分の子孫に財産を残すことや賃労働という労働における個人的な原動力は拒否されています。
それ以前に独身主義を貫徹するシェーカーにおいて、子孫自体が拒絶されているとも考えられます。
またキリスト教千年王国の思想を根拠に、すでに楽園であるシェーカーコミュニティーにおいて、来世での救済や贖罪としての労働も相応しくないと考えられます。
あくまで資本主義的な労働と財との繋がりでも、救済措置でもなく、労働と神との繋がり、信仰的に純粋な「労働」自体の視点が彼らの働く原動力の一つであったことが窺えます。
『何のために働くのか?』という問いに対して、
労働の目的か手段についてよりも、労働自体が原動力であり目的であるという考え方とも言えるかもしれません。
現代に暮らす私たちが考えがちな「何のために働くのか」といった問いに対して、シェーカーの根源的な考え方は非常に興味深いものに思います。
一般的に彼らの労働やものづくりを評する誠実、勤勉、節制といった言葉は、シェーカーにだけ特別なものというよりも、根源となるキリスト教、プロテスタントの基本的な倫理観とも言えます。
そういった道徳の土台に彼らの特徴である共産的な集団生活が関わることによって、シェーカーの労働やものづくりはより独自性を帯びています。
北米の開拓期に、集団を形成し共産を選んだシェーカーの人々は比較的早いうちから経済的な安定を獲得しています。
自分たちで畑を耕し、家を建て、家具を揃え、分担して仕事をこなす自給自足集団として成長する中で、生産効率の向上、コミュニティーの成員の増加、その間も倹約と節制により、経験や環境を含めた集団としての財産を蓄積していくことができました。
これらの衣食住に悩まずに済む、ある種の保障された暮らしによって、教徒の多くは同時代の人々が「生きるために働く、働かなければならなかった」状況から離れ、余裕をもって「労働」に取り組むことができたようです。
この経済的な安心感と前述の宗教的な「善さ」に対する信仰心が彼らの労働に対する真摯さと没入を生んでいるのかもしません。
もちろん、これほど労働に比重を置くシェーカーコミュニティー自体には、この集団に所属するために、周囲から認められるために働かなければならないといった強制感の空気もあったことも否定できません。
しかし集団の切迫した経済状況やコミュニティーの成員不足が続けば、彼らの信仰の上での純粋な「労働」にも無理が生じてしまうということがあり得ます。
実際に、19世紀中頃から、アメリカ産業が隆盛を迎えるにあたり、シェーカーの暮らしにも大きな経済的なプレッシャーが加わり、資本主義の波に飲まれ教徒は減少し、コミュニティーを支えていた家具販売についても経営難へ向かっていきます。
最終的にその波の中で彼らにとって労働が「善い在り方」から逸脱していったのかどうか、は私にはわかりませんが、財と切り離された「労働」を彼らが目指す限り、資本主義社会で生きていくことは大変困難なことであったでしょう。
労働による報酬や成果とは離れ、労働そのものを見つめること、もしくはその葛藤がシェーカーのものづくりには表れているのかもしれません。