いじめ撲滅は絵空事
初めまして、福岡県飯塚市庄内町という人口1万人ほどの小さな町に住んでいる小売店店主でございます。
今日はいじめについて、書き残しておこうと思います。
まず初めに、前提として私の体験を書かせていただきます。
子供時代は、小学生のころサッカー部副キャプテン、中学校ではバスケ部3年間補欠、高校時代はサッカー部1年から全試合出場でもちろん3年生ではキャプテンをやっておりました。
その反面、キャンパスでの過ごし方は
小学2年生で交通事故にあい自転車で横断歩道を渡っている側面から車にはねられ左足太ももの骨折で長期入院。
セミの抜け殻を、友達皆で四方八方から石を投げて落とすという遊びの中で正面から抛られた石が私の頭に落下し4針縫ったり活発ではありましたが、5年生のころから徐々に嫌がらせを受けるようになっていき学校と人が嫌いになっていきます。
中学にあがるも、同じメンバーが移動するだけなのでエスカレートするのみ金銭の強要、体育館の陰で蹴られる、体操服を脱がされるなどなど完全に諦めながら日々を過ごします。
夢にまで見た、嫌いな奴らとの決別のきっかけとなる高校への進学。
ほとんど知り合いはおらず、環境は変わったはずなのになぜか私はしっかりいじめっ子にマークされるというミラクルな高校生活となりました。
次ごう8年というあまりにも長すぎるいじめられる側を生きることになりました。
この時の、胸中を語るとあまりに悲しすぎるし皆さんにとって明るく受け取りにくくなるので割愛させていただきます。
そんな私の考えるいじめとは何か。
いじめという課題をどう解決すべきか。
自殺も無くすことは出来ないが、その苦しみを少し受け取って軽してあげることは出来るかもしれない。
などについて、書いておきますので是非お役立ていただけると幸いです。
いじめる側、いじめられる側この二つの目線で考えるしかないのかもしれないが、これがまた間違える大きな原因となっているかもしれないと私は思います。
中学生の2年生くらいになると、だんだん思考というものが働き始めます。もう経験済の痛みも他の人より多くなってましたので、このころからなぜこの人は俺を蹴るのか?それによって何が楽しいのか?満足する日は来るのかなどもはや研究が始めっていました。
今日徹底的にやりたいだけやらせてあげることで明日はもう俺の存在に必要性を感じなくなるならその方が俺にとっても楽なのかもしれない。
痛いけど、痛みというものは慣れることが出来るからそれがばれないようにしておこうとか。今考えたら恐ろしいほど屈折していました。
そうするしか自分が保てなかった。
でも私には、サッカー、バスケといったやりたいことがあった。
だから学校を休むわけにはいかない。
サッカーを世界一愛していました。
サッカーが出来る。
それが唯一の楽しみだったし、喜びでした。
練習をすればするほど上手くなるし、サッカーが好きで試合に出たい奴は沢山いましたが、練習が好きだという人には出会いませんでした。
そんな世の中のおかげで私は一人でめきめきと上達していきました。
何が言いたいかというと、こんな風でいじめられる人の像としてのイメージは一つかもしれないが1万人いれば1万通りという事。
これはいじめていた側も同じで、まったく肯定は出来ないが何かその人自身にはどうしようもないような問題がある場合もきっとあるという事。
ということからこのいじめをどう解決していくかなんですが、
誰かが、社会が、先生が、PTAが無くすためにどうすればいいだろうなんて議論をしている暇があったら、安心して何でも話せるような優しい人に自分がなる事だと思います。
人は好きとか嫌いとか、合う合わないなどあるのでみんながそれぞれの優しさで、自分にできる協力を本気であってあげてほしいです。
弱者・被害者だけでなくいじめの加害側だって罪人になる前にその子の抱える寂しさとか虚しさのようなものを受け入れてあげてくださいよ。
人間が、人間である以上いじめは絶対にこの世の中から無くなることはありません。
だいの大人が、世の中でせっかく財を成した大物が、国と国が争い、戦争をするわけですからばかばかしくて笑えますよね。
そんな生物、人間として生まれ短い一生を遂げるまでのあいだ色々有って良い。でもこいつと出会った。こんな方と出会えた。心から大好きです。そう他人に対しても堂々と言えるくらい人を好きになれる人として残りの人生を謳歌したいと思います。
そんな私と、これからを共に伴走していただく方々へどうぞよろしくお願いいたします。
本当にありがとうございます。
あなたのことが大好きです。
では、また。