故郷を失うということ、無常の寂しさ美しさのこと
図書館で「故郷」というタイトルの写真集を借りた。写真が撮られたのは1980年頃。ダム建設により消滅することが決まった岐阜県徳山村の記録だ。撮影をしたのは村で民宿を営んでいた増山たづ子さん。
レンズに写っているのは村の春夏秋冬。山、川、耕された土地、道、友達の木、そして村人たちである。日常風景の多くは畑しごとだったり、日用品の道具や保存食をつくっている様子だ。過酷で苦しいイメージが先行する農村での労働が、楽しそうに行われていたことに驚かされる。
撮影者が親しい村の人間だからだろう。写っている人は一様に笑顔を見せている。照れたように笑っている人もいれば、格好つけたようにポーズしている人もいる。被写体と撮影者の冗談を交えたやり取りが聞こえてくるようだ。
朗らかで楽しげな故郷の写真。それが余計にこちらを寂しい気持ちにさせる。ダム湖になるのは何かの間違いで、この生活がいつまでも続いていくものだと思えてくる。
写真には注釈がついており、どれも写真に劣らず素朴で味わい深かった。
『何十年も私の心の友として色々な事を話しかけ、教えてくれた大事な親友。いつもお前は「私を見よ大水が出れば根を洗われ、大風が吹けば枝を折られても頑張って立っておるぞ」と言って慰めてくれたなぁ』(川岸に立つ友達の木について)
二度と帰れない、存在として消滅してしまうという形で故郷を失う経験をする人は少ない。しかし徳山村ほどに切実でなくとも、あらゆる場所や人は、少しずつ確実に変化していく。
冷たい風に湿った草木の匂いが交じる。初冬の夕べが暮れてゆくなか、地元の街を歩く。大雑把にはあまり変わっていないように見えるが、自分の記憶のなかとのズレを自覚すると寂しくなる。
しかしそんな寂しさのなかに、自分でもよくわからない感覚が袖を引いていることに気づく。枯れ落ちていく葉が美しいように、その美しさのなかに寂しさが潜んでいるように、変わっていってしまうことは、たいていが寂しくて、たいていが美しい。
※『故郷』の写真の一部は、以下のサイトで公開されています