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ギャラリーレポート 渋谷公園通りギャラリー Museum of Mom's Art ニッポン国おかんアート村

ブログの再掲です 遊びに来てね


渋谷公園通りギャラリーに行ってきたので感想。
美術館レポート 2022/1/4
渋谷公園通りギャラリー
https://inclusion-art.jp/exhibition/

渋谷公園通りギャラリーは滅茶苦茶信用できるギャラリーなので、毎回新しい展示が行われたときは必ず見に行くようにしている。
今回はおかんアートということで、告知を見たときはどういうことだとは思ったものの、国会図書館に行った帰りに寄ってみることにした。

知り合いが先に見学しており、展示の感想を聞いたうえで行ったので、ある一定のバイアスはかかっていたかもしれない。つまり、無知の状態ではなく、展示やキュレーションについて一定の知識を植え付けられた状態で見に行ったということである。
それはどのようなものか。実家で母親が不要なチラシや布切れなどで意味もなく作るオブジェや日用品は、そのまま「おかんアート」として芸術的な評価することができるのだというメッセージである。芸術品とは自分の手の届かない天才が作り上げた美の終着点、という感覚を持っている人にとってこの事実は衝撃だろう。何の変哲もない日常の中にアートが潜んでいると告げられるのだから。渋谷公園ギャラリーではいかにも美しい、観覧客に対し接待するような美術品が展示されていたことは僕の知る限りない。常に問いかけを行ってくる展示にあふれているので僕はここを信用しているのだ。

さて、見終わった。僕は来る前に植え付けられたメッセージに遜色ないな、なるほどと思うと同時に、これを作った「おかん」たちは滅茶苦茶寂しいのではないか、といった感想を受けた。

先ほど言った芸術品の定義に関して、今回のおかんアートは「芸術品とは自分の手の届かない天才が作り上げた美の終着点」ではない形のアートだと言えるだろう。おかんらは他者に評価されるために作品を制作しているわけではない。驚くべきことに、作品を完成させることそのものにも価値をおいていないようにさえ感じられる。では何のためにやっているのか。ただ作成する時間と場、機会を作るため、それに集約される気がする。壮年期のおかんらは、他者と繋がるための場所と時間のためにおかんアートを作っているのではないか。この文脈におけるアートとはアウトプットの形ではなく媒体なのではないか。井戸端会議に代わるなんらかの会話の場所を探しているのではないか。反復作業により形作られる作品が多いのも、これを裏付けているように思える。

そう考えると、ここに展示されている品々は何を表しているのか。それは、壮年期を迎えた人々(特に結婚女性)の、健気なまでの場づくりの精神ではないか。社会から断絶され、家にいることを強いられた方々の、せめてもの自分と社会に対する折り合いのつけ方ではないのか。そう考えると、目の前のものに対し僕は寂しさを感じずには入れなかった。寂しさと表現すべきものかはわからないが、何か力を感じた。さらに言えば、実家の母親も、自分が子供のころからずっと端切れや自分のはき古したズボンを使ってパッチワークを作っていたのを思い出し、母親もどこか疎外感を感じていたのではないかと思った。彼女がパートに行くようになったのはごく最近のことだ(むろん、それが幸せなのか、寂しさから逃れられる方法なのかはわからないが)。

とにかく、自分は「おかん」たちの寂しさを感じた。
しかし、一つ懸念点が残る。会場では上記に当てはまらない展示物も存在していた。つまり、初めから人に見せるための作品制作を行っているおかんの作品や、チラシをたたんでひたすら紙箱を作っているおじさんの作品などが展示されているのだ。

こちらはアーティーな知人と話すことで納得することができた。今回の展示会はキュレーターとして下町レトロに首っ丈の会と都築響一氏により行われているのだが、疑念が残るエリアは都築響一氏がキュレーションしたエリアだったのだ。

なぜこのようなキュレーションをしたのか。

それはおかんアートを、僕が上に記したような矮小化された定義に落とし込まないために、意図的に範囲を拡大させるためだということだ。都築響一氏がアウトサイダーアート等、光の当たってこなかった対象を発掘するプロであることを考えても、まず間違いはないように感じている。
様々な意味で行ってよかった展示会であった。

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