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手とずかん

 じいちゃんの家に遊びに行くのが好きだった。昼間には温水プールやボウリングに連れて行ってくれるし、夜はご飯を食べた後に教えてくれた花札やオセロなんかをして遊んでくれる。そして寝るときにはきょうだい3人分のマットレスと布団を几帳面に敷き詰めてくれて、当時はもうビデオテープが主流だったのに、LD(30センチくらいあるDVDみたなもの)でハイジやディズニーのアニメを流してくれた。いつの間にか寝て、次の日の朝、熱い紅茶に角砂糖を3個入れて焼いてくれたパンを食べた。

 好きだったことがたくさんある。苔むした庭。松の葉。石畳。くるくる回して締めるネジ締り錠。漬けもの石。たくさんのサボテン。健康サンダル。「暴力団追放」と書かれたステッカー。散歩で拾ってきたゴルフボール。キッチンの横にある土間に古い冷蔵庫が1台あって、遊びに行くといつもオロナミンCがケースで入っていた。リビングには夏は扇風機が2台か3台が回り、冬はファンヒーターではない石油ストーブが置いてあって、その上でいつもやかんにお湯を沸かしていた。子どもたちを預けに来た母や父に、テレビ台の戸棚から珈琲の粉の入った使い古したダートコーヒーのブリキ缶を取り出し、とりわけ濃い珈琲をストーブの上のやかんのお湯で淹れていた。じいちゃんの切るりんごや桃は、切り方がちょっと変わっていて、小さな果物ナイフで切り分けた後に最後余った芯に近い実をサクッとはいで自分で食べてしまう。甘い物が大好きでよくばあちゃんに怒られていた。

 孫とじいちゃんってどこもこんな感じ?


*  *


 早出の仕事が終わり、昼下がりの新橋駅で山手線の電車を待っていたときに、母から連絡が来た。「じいちゃん具合あんまり良くないみたい。今から面会に行ってくる。血圧は正常らしいけど、何かあったらまた連絡する」とのこと。数年前に骨折で入院した祖父は、入退院を繰り返した後、そこからデイサービスに通うようになり、通うだけでは限界がきて介護施設に預かってもらっていた。コロナのせいでなかなか会えず仕舞いだ。次帰ったら絶対に顔見に行きたいなと思いながら「わかったよ」と返信してちょうど来た電車に乗ったが、上野あたりで母から着信があったので嫌な予感がして降りた。すぐ折り返すと「じいちゃんが亡くなった」と気丈か気丈じゃないのかわからない、少し距離感のある口調で母に言われ、想像もしていなくてとても驚いた。通夜は2日後だったので、会社に休みを取る段取りをして、喪服と簡単な身の回りのものだけ持って次の日の朝家を出た。

 新幹線で何か口に入れたいと思い適当に選んだ鮭のおにぎりを食べながらふと思い出した。祖父の家で好きだったことがたくさんあった。中でも一番好きだったのは、お米の方の、ご飯だった。祖父の家はガス釜でご飯を炊いていて、年末年始にみんなでご飯を食べに行くと大抵すき焼きをしてくれて、それをおかずにいつもつやつやで粒が立っているご飯をたくさんおかわりした。母に「なんでじいちゃんちのご飯っておいしいの?」と聞くと「ガス釜だから」と言われて、なんで電気じゃないの?ガスって危なそうじゃない?としか当時は思わなかったが、ガス釜は強い火力で釜を高温にすることで激しい対流を起こしてひと粒ひと粒をムラなく加熱するから電気釜とは比べものにならないくらいおいしくなるそうだ。
 祖父のおにぎりもうまい。ピクニックやプールに出かけたときにだけ作ってくれる、「おにぎり」というよりは「おむすび」というのが相応しい大きさで、母が作るラップで握ったのりたま味のおにぎりとは全然違って、アルミホイルの包みを開けた瞬間、ぺったりと海苔のくっついたおむすびの頭が見えて磯のいい香りがする。神業としか思えない塩加減の塩おむすびは例のごとく粒が立っていて口の中でほどけていくのだけど、舌触りにしっかりお米の粒を感じる家でも給食でも外食でも食べたことがないものだった。今もそれを超えるものに出会ったことはない。
 そっか、もう食べれないのかあ、と今更ながら新幹線で気づいたときに、食が進まずちょうど手に持っていた、乾いた海苔に挟まれたやけに水分量の多いおにぎりがボロっと崩れてズボンの裾に転がって落ちた。砺波平野の散居村が新幹線の窓から見えていた。

 通夜では、葬儀屋の職員に促されて柩に入れるメッセージを書くタイミングがあった。思わず行きの「おむすび」の回顧に引っ張られて、そのことを書いてしまった。おいしくて大好きだったよ、いつかまた食べさせてね、と。
 祖父は公務員を引退した後に、冠婚葬祭の式場を運営する会社に勤めていたことがあって、祖父の縁もあってかつて在籍したその会社で全部式を執り行った。もう何十年も前のことなのに、職員の中には祖父と面識がある方もいて我々遺族にお声がけしてくださることがあった。
「厳しい方でしたけど、本当によく勉強させていただきました。大変字がおきれいな方で、立て看板なんかの字は全部○○さんが書かれていましたよ」
 確かに祖父の家には筆ペンがたくさんあって、誕生日やお年玉でお金をくれるときは手紙も添えて渡してくれていた。どこかにあるはずだと、式が終わった後、実家の物置に眠っている昔使っていた学習机の引き出しの中をひっくり返してその手紙たちをどうにかこうにか見つけた。
「勉強も頑張って下さいね。じいちゃんにはわかりませんが、自分の好きなものでも買って下さいね」
 これも小指の爪だけ伸ばしている、長方形のスラっとした爪がついた分厚くて優しい指先で書かれたのかなと、その文字をなぞって撫でた。そういえば柩の中で組まれた手をコロナ禍でなかなか会えなかったこともあって久々に目にしたが、ひどく懐かしくて、綺麗で、見入ってしまった。


*  *


 半年後、友人の結婚式でまた実家に帰った。葬式ではばたばたしていて、親族皆疲れていたが、半年も過ぎるとさすがに日常が戻っていた。自分の部屋だった今は誰の部屋でもない部屋で、結婚式のためのネクタイを締めていると、タイミングを見ていたのか母が2階に上がってきて「じいちゃんさ」と話しかけてきた。
「亡くなるどのくらい前かな、半年くらいか、じいちゃんの誕生日のときに何あげたらいいのかなって少し迷って、私何あげたと思う?」
「何かな? わからん」
 母が背に持っている何かを前に差し出した。それは分厚い本で、大きな文字で「にっぽんの図鑑」と書かれていた。「へえ」と答えて受け取ってぱらぱらめくると、小学校中学年くらいが対象の本らしく、日本の歴史や地理、お祭り、伝統芸能、文化をわかりやすくまとめてあるものだった。なるほど全国各地のお城を巡って旅行したじいちゃんなら楽しめただろうなと思ってから、違和感に気づく。
「これ、中古の本かなんかをあげたってこと?」
 よく見ると背表紙の製本の糸がほつれているし、ページをめくったであろう部分も薄茶色く変色している。印刷こそ剥げていなかったが表紙も加工してあるつるつるした手触りがほぼ全面で取れかけていた。
「いや、違うんやって。新品。これ亡くなる半年前にあげてから、ずっと昼も夜もご飯の時も肌身離さず読んでたみたい。内容は多分理解してなかったと思うよ。ボケもきとったし。それでも本好きやったしページをめくる感覚が気に入ったんかな。私、これ施設の人から受け取った時にびっくりして」
「そうか~、でもよかったんじゃない? そんなに気に入ってくれとったんやね」
 母はまた大事そうに自分の寝室にその図鑑を持っていくのに部屋から出て行った。

 図鑑を撫でながら施設の窓から外を眺めるベッドの上の祖父を想像する。秋晴れで空が高い。落水された田んぼの頭の垂れた稲穂が緩やかに風にそよいだ。もうすっかり辺りは黄金色に染まり、遠くではゆっくりとコンバインが動くのが見える。窓は少し開いているのに、喧しいエンジンと切断刃の音は部屋までは聞こえてこない。最近訪問のヘアカットがあったのか、切り揃えられた綺麗な白髪の襟足。青灰色の尾が美しいオナガのつがいが駐車場の柿の木にとまった。それを見て、祖父がまたゆっくりと図鑑を撫でる。爪も白く硬くなってしまって掌の皺も深いが、大きくて綺麗でおむすびを握るのがとてもうまかった温かい手だ。その手に確かに母も、孫たちも育てられた。

 咳払いを一つしてからもう一度ネクタイをほどいて、さっきよりも丁寧にゆっくりと鏡を見ながら結び直した。

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