青い、青い空
2023年 7月16日
最後の大きな段ボールを車に積んだ時、大きな粒の汗が頬を伝って首に垂れていくのを直英は感じていた。直英は軍手を外して、濡れた額を拭いながら運転席に乗り込んだ。
「はい、これ。汗すごいけど大丈夫?」
直英の妻の真帆は助手席からスポーツドリンクを差し出しながら言った。直英は「ありがとう」と気無しに返事をして、飲み物を受け取った。
気の早い一部の蝉が見切り発車で鳴き始めたと思ったら、いまやそこかしこで大合唱となっている。あの耳障りな鳴き声が気にならなくなった頃合いが夏の盛りだとすると、まさしくそれは今だ。直英は、他事を考えながらカーナビを弄った。
自分の家が建ったばかりだというのに、直英は近ごろ全くと言っていいほど気分が晴れなかった。それどころか、急に何か虫の居所が悪くなり、不機嫌になったり、妻に憎たらしいことを言ってしまったりすることが増えていた。
「ええっと、目的地は……ああ、調べなくても分かるか。君の実家だものね」
しまった。またやってしまった。あまり気を遣うことなく、ほぼ自然体に近い形で妻に嫌味なことを言ってしまった。直英は急いで無理やり作り笑いをして真帆の方を見た。真帆の表情を見た直英は、自分が過ちを犯していたことを再確認した。真帆は表情を変えずに真っ直ぐ前を見ていたのである。
「直君、嫌な思いをたくさんしているんでしょう?たくさん我慢しているんでしょう?」
答えにくい質問には特に反応せず、すぐに車を出せば良かったのに、直英は左手をカーナビの画面に当てたまま動けずにいた。それは暑さからなのか、疲れからなのか、はたまた妻の話が核心を突くものになる可能性が高いからなのかは分からない。
「直君がウチに婿に来てくれて、こっちの実家に住むことにしてくれたのは感謝しかないけど、相当嫌だったんでしょう?分かるよ、妻だから。でも、もういい加減にして。最近怒ってばっかじゃん。どうしたらいいの?どうしたら元の直君に戻ってくれるの?」
直英が息を潜めるように返事をしないものだから、車内のエンジン音とエアコンの稼働音はやたらと大きく聞こえた。
「ごめん、部屋にスマホ忘れてきたわ」
妻からの問いかけにどのように返事をすべきか答えが見つからなかった直英は、嘘をついてその場から逃げ出す選択をした。
猶予は数分間しかない。これから新生活が始まる若夫婦のそれとは思えぬような空気の車内を抜け出し、得た仮初めの自由は数分間しか持たない。駐車場からアパートの三階まで、階段を上る数分間のうちに冷静にならなくては。直英は頬を両手で三度叩き、自らに喝を入れた。
思えば、このアパートに越してきてから色々なことがあった。二人で決めたこのアパートに住み始める前は、自分が仕事終わりに通い、ベッドを必死で組み立てたこと。この角には観葉植物を置いて、この棚には一輪挿しの花を置いて……と話し合ったこと。入籍をしたこと。子供が産まれたこと。将来について真剣に話し合ったこと。その結果、妻の実家を二世帯住宅として建て直すことになったこと。そして、無事建ったその家に引っ越すこと。
人生の階層がいくつも変わる瞬間を過ごしたこのアパートを去るにも関わらず、自らの心境がこうもあっさりと、どこか他人行儀のような、嬉しくも悲しくも寂しくもない状態であることに直英は少し驚いていた。
真帆が言うように、確かに近頃は苛立ちをコントロールできなくなったことが増えたように感じる。そのような態度や行動が、家庭を上手く回していく上で支障となることを理解していた直英は、その度に真剣に、心の底から落ち込み、反省し、自らを戒め続けていたのである。しかしながら同時に、直英は自らの苛立ちの原因を分析ができずにいた。怒りの原因の深掘りが直英にどのような影響を与えるかを理解していたからである。
直英は、自らの婿入りに端を発したこの諸問題によって湧き起こされた自分自身の感情が幸せな筈の夫婦二人、家族三人の関係を破壊しつつあることをはっきりと自覚していた。そしてそのことに気付いているのは自分だけであると直英は思い込んでいたのである。それがつい先程、いきなり車内で妻に話を切り出されたものだから、直英は慌ててその場から逃げ出してきた。
直英は、汗を拭いながらアパートの三階に向けて階段を上っている。冷静にならなければ。家庭を上手く回していくために、冷静になることを誓ったではないか。直英は、自らを落ち着かせるために、階段を上りながら目線を上げて空を眺めた。壁や柵が額縁のように空を切り取っていた。直英が見上げた空は、入道雲が立ち上る夏の空だった。青い、青い空だった。無限に広くて、一人の人間の悩みなどどうでも良くなってしまう程巨大な空の、ほんの一部を四角く切り取った、澄んだ青で彩られた極めて美しい空だった。
2018年 9月15日
和倉温泉にある海沿いの旅館は最近リニューアルしたばかりで、新しい建物の匂いがした。特にエントランスは一面ガラス張りで、贅を尽くした豪奢なしつらいの空間の中、美しい七尾湾の風景を望むことができる。そのエントランスからほど近い食事処で、直英と真帆は北陸の海の幸を堪能した。夕日が沈んでいく過程の、眼前の静かな海が赤く染まっていく様をゆっくりと眺めながら、二人は将来のことを語った。
「直君、こんなに良いところに連れてきてくれてありがとう。料理も美味しいし、眺めも最高だし」
甘エビやノドグロが盛り付けられたお造りをあと少しで平らげるところで、真帆が話しかけた。
「こちらこそありがとう。君と付き合わなかったらここには来なかったかもしれない」
「北陸と言えば海鮮のイメージだけど、本当に美味しいんだね。びっくりした。直君の地元は素敵なところだね」
「そういえば昼も海鮮丼だったな。魚ばかりでごめんね。もうたくさんって感じ?」
「ううん。お魚大好きだから。それに美味しいから飽きないよ」
そう言った真帆の前には、穴子の天麩羅が置かれた。二人は目を合わせて笑った。
「前少し話したけど、真帆は一人っ子でしょう?僕は長男だから、もしこの先一緒になるとすると、どうなっていくのかな。名字の話だけど」
「こっちの親には少し話したけど、あんまり気にしなくてもいいと思う。私が一人っ子の時点である程度覚悟はできていたと思うし。私自身も別に気にしないよ」
「そっか。僕自身もどっちでもいいかな。もし仮に僕の名字が奥田から何かに変わることになっても、たかが名字でしょ。名字は単なる符号に過ぎないと思う」
直英は長男である自分が名字を繋いでいくものであると思っていた。跡取りこそが長男の責務であり、長男に生まれた宿命であると。直接両親や親族から教え込まれた訳ではないが、それは二十数年を生きてきた中で緩やかかつ根深く醸成された直英の無意識そのものであり、そうあるべきであると疑うこともなく思っていた。たまたま恋に落ちた女性が一人っ子で、たまたまお互いのタイミングが重なり結婚の話が現実味を帯びてきたことで、たまたま無意識下にあった責務と宿命(と思い込んでいるもの)を意識することになった直英は、自らの無意識にこれほど古臭い考えが存在していた事実に少しだけ動揺を覚えていた。
古臭い考え。自らの根底にあるものを、果たしてそのような簡単な言葉で片付けてしまって良いのだろうか。直英は穴子を突きながら考えた。思いがけず自覚することになった自らの無意識は、どのようにして醸成されていったのか。単に己の思考が短絡的で、浅慮で、軽薄なだけで、まさに「なんとなく」長男が跡を取るものであると思い込んでいるだけではないのか。いいや違う。この古臭い考えは単なる結果に過ぎず、この思考に至る原因となる要素があるに違いない。その原因とは自らの経験なのか、性格なのか、環境なのか、何がそうさせているのかは直英には分からなかった。
ふと目を上げると、真帆と目が合った。彼女の大きな瞳は、一点の濁りもなく澄んでいた。見惚れてしまう程の黒い瞳を、直英はぼんやりと眺めてしまっていた。
まあ、いいや。名字なんて単なる符号に過ぎないのだから。どっちだって良い。もし仮に自分の名字が変わることになったとしても何の問題もありはしない。この美しい瞳をした女性と連れ合いになるのだから。自分という人間は符号が少し変わったところで自分のままであるに違いないから。そして、彼女も同じことを考えているに違いないから。
二人の前には、デザートのケーキがことりと置かれた。
「真帆」
直英は、巾着袋の中に忍ばせていたサテンのリボンで包装された箱を取り出した。吸い込まれそうなほど美しい色合いの、少しだけ緑がかった水色の箱だ。真帆の清らかな瞳が潤むのを確認した直英は、嬉しくなって七尾湾の果ての落日を見遣った。
普段は静かで穏やかな内海は、今は少しだけ波立っていた。
2018年11月10日
中田屋のきんつばが入った紙袋を握り締めて、直英は緊張した面持ちで玄関に立っていた。
「直君、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
愛知県田原市出身の真帆の実家は、伊良湖岬という美しい浜から車で20分ほどのところにある。
渥美半島の先端にある伊良湖岬には、大きな白亜の灯台が凛と建っており、太平洋を望む。堂々たる構えで海と街を見守る灯台は街のシンボルとなっており、休日は多くの観光客で賑わうそうだ。
直英と真帆はその灯台の周りをぐるりと歩き回り、それから都合の良い頃合いになるまでベンチに腰かけて時間を潰した。ただでさえ緊張をしているというのに、観光客は皆動きやすい恰好で来ているものだから、一人だけスーツ姿をしているという恥ずかしさも相まって直英は気が動転してしまっており、真帆とその時どのような会話をしたか何一つとして覚えていない。
「緊張はするよ。恥ずかしながらかなり緊張してる」
「そんな大した話もしないんだし、今日は挨拶だけだから大丈夫よ」
「名字の話はしないんだよね?」
「うん、多分」
和倉温泉でプロポーズをしてから、二人でこの問題については何度か話し合った。
二人の中では名字がどうなろうと大した問題ではなく、あまり大きな要素ではないという認識がなんとなく一致していることが分かり、直英は少しだけ懸念が解消されていく感覚を覚えていた。
問題は互いの両親であった。しっかりと話をしていない現状では両親の考え方は引き出すことが出来ておらず、どのような考えを持っているかは分からなかった。
真帆の話を聞く限りでは真帆自身は名字にそれほどの拘りは持っていないように見受けられ、その親も似たような考え方であろう、と直英は高を括っていた。「一人娘なのでその覚悟はできていました」と言って残念がりながら嫁に出すのだろうと。それが世の常であるから。真帆のご両親は少し嫌な思いをするかもしれないが、それは仕方のないことだ。受け入れてもらうほかない。
真帆がアルミ製の玄関戸を開けた。引き違いの格子戸がガラガラと重い音を立てて開いた。
「ああ、いらっしゃい。お待ちしておりました」
真帆の母が待ち構えていたように居間から出てきた。少しウェーブがかかった髪をした真帆の母は、品の良い紺のブラウスを身に着けていた。
彼女は玄関ホールに膝をついて既に綺麗に揃えられているスリッパに手を添えて、揃え直すような動作をした。
土間で靴を脱ぎ、玄関ホールに上がる間に一段の段差があり、そこにスリッパは置かれていた。
この段差は何かと尋ねると、「式台だ」と返ってきた。
「古い家ですからね。びっくりさせちゃったらごめんなさいね。私達は普段は隣の棟に住んでおりまして。こちらは私達の両親が亡くなる前に住んでおりました」
直英が通された母屋は確かに年季が入っているように見受けられ、梁が良く見える昔ながらの造りをしていた。
「いやいや。大きな家で驚いています。それにこんな広い和室見たことないです」
玄関から入ってすぐ直英の目に飛び込んできたのは大きな和室だった。二十畳は超えるだろうか。畳の数を瞬時に数えることはできなかったが、とにかく巨大な和室は直英を威嚇するのに十分な広さをしていた。どこまでも続いていきそうな畳の先を見ると、これもまた巨大な仏壇が目に入った。直英の背丈を超える大きな仏壇は、全体に黒の漆塗りが施され、三方開きの扉の内側には金箔が大量に貼ってあった。
「真帆から聞いているかもしれませんが、ウチは本家ですので。昔はこの和室に親戚が集まって法事をやっておりました。あの仏壇もねえ。あんなに大きな物この先管理に困るって言うのに父がねえ……」
「はいはい、お母さん、もういいでしょ。直英さんを困らせないで。直君、もう行こう」
会話に割って入った真帆に背中をぐいと押され、直英は居間に向かって歩き出した。見たことのないような大きな仏壇の隣の壁の天井近くには、黒い額縁に入った人の顔の白黒写真が何枚もかかっていた。
「ああ、直英さん、いらっしゃい」
直英が居間に入ると、真帆の父が座って待っていた。今年定年を迎えて退職した真帆の父は、フリーランスとして会社と個人契約を結んで仕事を続けているそうだ。見た目こそ年齢相応の白髪頭ではあるが、まだまだ働く気力はあるらしい。
「お邪魔します。大きくて素敵な家ですね。それに、あんなに立派な仏壇を見たのは初めてです」
「あの仏壇ねえ。私と家内は反対したんですが、父がね。父がまだ生きている時に、本家の仏壇が小ぶりでは恥ずかしいからと言って聞かなくてですね。それであんなに大きな仏壇を買うことになりまして」
「お父さんまで。もう仏壇の話はいいって」
真帆が再び割って入ったところで母が淹れた珈琲を持ってきた。
「さあ、直英さん、座ってください。コーヒーでも飲みましょう」
真帆の父は直英に勧めた。
祖父と祖母が住んでいたこの母屋は、長男である真帆の父が子供の頃から建っていたそうだ。そして真帆の父母が結婚することになった時には、祖父が知り合いの大工に頼んで隣の子世帯の建物を建ててもらった。祖父は地元の寺の檀家の総代を長らく務めており、法事の際には何人も僧侶が家に来る。庭にある2本の大きな桜の木は春になると見事なまでに咲き乱れ、集まった近所の人達に茶菓子を振る舞うために女衆は毎年準備に追われて大変らしい。
「古い家なんだよ。私も嫌々やってるの。お父さん、家の話はもういいでしょ?」
真帆は苦笑いして言った。
「いやいや、直英さんにもウチのことを知っていただかないと」
「お母さんまで。今日はその話をしに来たんじゃないの。ねえ、直君」
突然話を振られたものだから、直英は緊張して言葉に詰まってしまった。
「そうなんです。あのですね、今日はですね、真帆さんとの結婚をご了承いただくために参りました。未熟者ではありますが、楽しい家庭を築くために頑張りたいと思っています」
暫しの静寂が訪れた。真帆の父と母は、緊張しながら話す直英を見守るように聞いていた。時計の秒針が動く音だけが部屋に響いていた。
「そうですか。そうですか。分かりました。まずはお話いただきありがとうございます。こんな娘ですが、直英さんが良ければ是非ともお願いします」
直英は肩の力が抜けていく感覚を覚えていた。握った拳の力を緩めたのも束の間のことで、真帆の父がまだ話を終えていない顔をしていたことに気付いた直英はもう一度手に力を入れ、膝の上に置き直した。
「それからですね、先ほどからお話をしているようにウチは本家なものですから、この家を継いでいかなければなりません。引いては、この濱本という名字も継いでいかなければならない。直英さんにはその点をお願いしたいというか、分かっていただきたいというか」
「……それはつまりどういうことでしょうか?」
「娘と結婚していただくに当たって、直英さんにはこちら側の姓を名乗っていただく、つまり妻氏婚をしていただきたいということです。そして行く行くは家を継いでいただくことを念頭に置いていただきたいということです。この家を継ぐということはここに住んでいただくということです。真帆から話を聞いた時、この話はいつかしないといけないと思っていました。あやふやのまま話が進んでしまってからこちらの意向を聞かされるよりも、始めにこの話をしておいた方が良いかと思いまして。それでいきなりお話をさせていただきました」
直英は横で正座をして座っている真帆を見た。真帆は目を固く閉じ、口を結んで俯いたまま微動だにしなかった。
「今この場で判断ができませんので、一度持ち帰らせてください。今どのようにお返事したら良いか分からなくて」
「いきなりでびっくりさせてしまったかもしれませんが、こちら側の希望を先に伝えさせていただきました。ご両親とよくお話になってお考えください」
その後は当たり障りのない世間話を適当に話し、きっと全員が1秒でも早くこの時間が終われば良いと思っているに違いないのにも関わらず、中々終わりが来ない悠久とも思える時間を直英は漫然と過ごした。当然ながら何を話したか覚えてなどいなかった。
「またいつでも遊びにいらしてください」
見送りに玄関まで出てきた真帆の両親に声を掛けられた時には、直英は「はあ…」と間抜けな返事しかできなかった。きっと腑抜けたような、阿呆のような顔をしていたに違いない。直英はそう思った。
*
「真帆、どういうことなの」
帰りの車で真帆は終始俯いていた。
「ごめん直君。親からあの話は聞いていたんだけど、まさか今日話すとは思っていなかったの」
「前聞いた時名字はどっちでもいいって言ってたよね。それに家を継ぐってどういうことなの。まさかと思うけどあの家に俺も住んでいかないといけないってこと?二人の話なのになんでそんなことまで決められないといけないのかまだ全然理解できていないんだけど」
直英は努めて冷静に話しをしたつもりだったが、自然と語気が強くなっていった。ついついアクセルを踏み込みすぎたせいで、エンジンから普段聞かない音が聞こえてきて、直英は初めて冷静でなくなっている自分に気付いた。
「最初は私もそう思ってたよ?だけど親にああやって言われちゃうと気持ちが揺らぐじゃん。それに本家の話とか家の話とか知らなかったし。周りの目もあるし。本家なのに途絶えてしまったらどうするんだって。直君と最初話した時と状況が変わっちゃったの」
「真帆の意向はどうなの。親の意向と同じなの?」
答えてくれるなと直英は思った。話をこの先に進めていくのに必ず乗り越えなければならない壁なのに、その壁を見たくないと直英は思った。その壁を見る必要のない人達が掃いて捨てる程いるのに、何故僕が正面からその壁にぶつからないといけなくなったのか。その壁の存在を知ることなく死んでいく人達の方が多いのに、何故僕なんだ。
「……うん。直君と相談なのはもちろんだけど、許されるなら親の意向を尊重したいと思ってる」
事が順調に進むと信じて疑っていなかった直英は、出し抜けに現れた巨大な壁に覆われて視界が陰っていく感覚を覚えていた。その壁を乗り越えて視界が晴れる日が来るのか今の直英には予想もできなかった。双方の意向が衝突するのが自明であるからだ。落とし所のない意向の衝突を着地させる方策を直英は知らない。どちらかの意向を尊重すればどちらかの意向は無視される。双方の意向は明らかに反している。
赤信号で車が止まった時、直英はなんとなく後ろを振り返った。
後部座席には、焦って持ち帰ってきてしまった中田屋の紙袋が置いてあった。
「真帆、間違って持って帰ってきちゃったきんつば、またご両親に渡しておいてね」
直英はこう言うのがやっとだった。
2018年11月17日
「はあ?どういうことなのあんた」
直英の母は一際大きな声を出した。
「いやだから説明した通りだって。いきなりそうやって言われたの」
直英は実家に戻り、早速真帆と真帆の両親の主張を自分の両親に説明していた。
「名字があっちになって、行く行くは住むのも向こうってあんたどういうことか分かってるの?あんた長男よ」
「分かってるけど、とりあえず包み隠さず報告しただけだって」
慣れ親しんだリビングには、重苦しい空気が流れていた。
「お父さんからもなんとか言いなさいよ」
直英の母は、隣で腕を組んで聞いていた父を顎で促した。
「自分たちの感覚だと徐々にそういう話はしていくもんだと思っていたけどねえ。いきなりそういう話になったったんだ?」
「うん」
「あちらが希望を主張するならね、こっちだってそりゃあるよ。直英は長男だしね。愛知県の文化は知らないけれど、こっちだと長男が家を継いでいくのが当たり前の文化だからね。それに家の規模は比較にならないかもしれないけどこっちも本家だよ。条件は一緒のように思えるけど、それをこちらに『折れろ』と言ってきたってことだよね?」
「そんな強い言葉ではなかったけど、向こうの主張はそうだね」
「そうか……」
「あんたはどうしたいの。あんたは」
眉間に深い皺を寄せた母が食ってかかった。
「出来ることなら彼女の意向は尊重したいけど、父さんが言う通り自分も長男が名字を継ぐもんだと思ってたから。それに二人の意向も今話して確認できたからもういいよ。譲らないつもりでいる」
「彼女の意向を尊重したいって」
今度は父が割って入った。
「その彼女の意向って、向こうのご両親の意向そのものということでしょ?女の子の一人っ子の時点でこうなることを分かってたはずでしょ?家を継ぐことを何よりも重視するなら二人目作ればよかったじゃない。今まで何かしら対策できたかもしれないけど何もしてこなかった訳でしょ?それって怠慢そのものだと思わない?その怠慢の結果を何故ウチが背負わなければならないの?俺と母さんやおじいさん、おばあさん、もっと言うと親戚中が当然のように長男である直英にこの家を継いでいってもらえると思っていたのが今急に揺らいでいるんだけど、拒否反応が出るのは理解できるよね?」
「分かってる。分かってる。彼女の親がいきなり思いきり主張してきたのには面食らったけど、譲らないつもりだから」
あの日突然目の前に現れた巨大な壁は、日に日に更に分厚く、一層大きく変化していた。両親の意向を確認した直英の目の前には、乗り越えることなど到底できないと思われる程の途轍もなく大きな障壁が形成されていた。
何度考え直しても、やはり双方の意向は正面から衝突していた。どのように解決すべきか、どこに着地させるべきか直英には分からなかった。一対一の単純な意向の衝突ではないことを理解していたからだ。
自分自身の意向と、真帆の意向や、真帆の両親の意向。それから、自分の両親の意向。自分自身の意向などさほど重要ではない、と直英は思っていた。和倉温泉でのプロポーズ以降、自らの「古臭い考え」の根底にあるものを探ろうと何度も考えたものの、何も思い当たる節がなかったからだ。何も分からなかった以上は、男が自分の名字を名乗り続け女が嫁に来るという形が、世の夫婦の多数が選択する「あるべき姿」であり、当然自分自身もその流れに合わせるべきだという浅慮そのものが自らの意向であると結論付ける他なかったからだ。直英は主体性に欠く自らの意思を呪った。強い意向や拘りがあればそもそも壁自体が形成されなかったのではないか、と。
「こうしたい」「こうあるべき」という自主的、自律的な思考は何故だか直英の脳には存在していなかった。いや、確かに過去は存在していたのかもしれないが、年齢を重ねるうちに岩石の角が取れるようにそれは次第に丸く、小さく萎んでいき、ついには消えて無くなってしまったのではないか。
同時に、直英は自らの意向がもう一つ存在していることを自覚していた。そしてその意向こそが壁をより巨大化させる原因そのものであることにも少しずつ気付き始めていた。
大切な人が増えすぎてしまった。直英は頭を抱えた。
先方の意向を拒否してこちら側の意向を頑なに主張したとする。すると真帆とそのご両親は痛く悲しむだろう。自分自身も負い目を感じながら暮らしていくことになる。今度は先方の主張を受容してこちらが折れるとする。するとどうだろう。直英の両親や祖父や祖母は落胆し、もしかしたら両親は親戚中で笑い者になってしまうかもしれない。真帆の両親は直英の譲歩に胡坐をかいて幸せに暮らしていくのだろうか。
何よりも自分が大切であったら、あるいは、何よりも真帆が大切であったら、この視界を覆う酷く巨大な壁に悩まされることはなかったはずだ。両親の意向はどうなる。祖父母の意向はどうなる。自分を愛してくれる皆の意向はどうなる。自分の大切な人達の意向と、期待と、自分に向けられた名前の付かない思いと。自分の選択がそれら全てを破壊することになってしまう気がして、直英は暫くの間抱えた頭を上げられずにいた。
「あんた、いつまで頭抱えてるのよ。それで答えが出るならずっとそうやって下向いておけばいいわ。まったく。」
直英の母は相変わらず強い口調で煽り立てた。
「うん。うん」
直英は頭を上げずに答えた。
自分の意向がない以上は、相手の意向を重視するか、こちら側の意向を重視するか。つまり、恋人を取るか、自分の両親を取るか。
選ぶことなどできるはずがない。床の木目を見ながら直英は思った。
真帆の意向と両親の意向を両方とも尊重すること。双方が我慢をすることのない選択ができること。それこそが直英自身の意向であった。
直英は改めて主体性に欠く自らの意思を呪った。強く、強く、呪った。
2018年11月24日
「どの点がネックになってるの?そこを解消したら前に進めない?」
名字問題の話し合いをする度に、真帆は決まってこう言った。
妻氏婚をして、彼女の家を継いでいくことを直英が拒否する理由が段階的にいくつかあって、一番支障となっている部分を解決したら前に進めるのではないかと言うのだ。
この会話になる度に、「何故分からない」と直英は心の中で憤慨した。
何故単純に一つ解決したら次に進めると思うのか。何故いくつかの要素が複層的に絡み合っているのだと気付かないのか。何故こちら側が折れることを前提に話を進めるのか。何故一方的に主張しておいてその主張が通るものだと考えているのか。それは傲慢そのものではないか。
その考えを当たり障りなく伝えようとしても、毎回どうにも言語化することができず、直英は「そんな単純な話じゃない、なんとなく全部が嫌なんだよ」と伝えることしかできなかったのである。
「なんとなく嫌って。直君前話した時名字はどっちでもいいよって言ってたじゃない。名字は符号に過ぎないとかって」
「真帆だってそう言ってたでしょ。でも親と話したら考えが変わってたじゃない。僕も同じ状況だよ」
話し合いはいつまで経っても平行線だった。
自分の両親の主張は直英自身も賛同できる内容だった。真帆の葛藤も理解できる範囲のものだった。彼女とて自分と同じように苦労してなんとか話を前に進めるべく繰り返し提案をしてくれている。
直英のやりきれない思いは、次第に真帆の両親に向かっていった。自分たちの怠慢に近いものを、一人娘の真帆に背負わせてはいないか。現状ではほとんど他人である自分に汚らわしい風習や文化を押し付けようとしていないか。
直英は、相手方の主張を「汚らわしい風習や文化」と表現している自分自身に嫌気が差した。恐らく先方からしたら妻氏婚を頑なに拒否するこちら側がそう見えているに違いないのに。あたかも自らが正であるが如く振る舞っている自分がひどく滑稽に思えた。
長男が家を継いでいくという自分や自分の両親にとって当たり前の考えも、その考えに触れる人によってはたちまちそれは「下賤な思想」に変わってしまう。正しい考えなど存在しない。どこでどう折り合いを付けるか。双方での折り合いなのか、片方が折れるだけなのか。その話し合いを進める必要があった。
両手で頭をくしゃくしゃと掻きながら考えていると、直英は自分の両親にも怒りの矛先を向けたくなった。出来ることなら自分の思考に一切の影響を与えて欲しくなかった。自分が「なんとなく長男が家を継いでいくものだ」と考えることのないよう教育して欲しかった。跡継ぎ問題に寛容であって欲しかった。「あんたが幸せならなんでもいいよ」と背中を押して欲しかった。出来ることならば。
両手で頭を抱えてなかなか顔を上げない男と、それを眺める綺麗な瞳の女性。カフェの一角での僕たちの姿は、他の客からは一際異様なものに映っているに違いない。直英は思考の片隅でそう思った。
「直君大丈夫?ごめんね。また悩ませちゃったね」
真帆は心配そうに直英を覗き込んだ。
「いや、大丈夫」
直英は顔を上げて言った。この問題を自分たちだけで解決するのは不可能だと。
「だから、親同士に話してもらおう。僕たちで話すのは伝書鳩になるだけだし」
話せば話す程手に負えなくなっていくこの問題の匙を投げることになる気がしてどうにも気乗りがしなかったが、致し方ない。自分たちの意向だけでは決められない問題なのだから。
真帆はこの提案を了承した。数十分前に頼んだアイスコーヒーのグラスは汗をかき、木のコースターの中に水溜まりを作っていた。
1998年 8月 8日
「直ちゃん、おじいちゃんと行こうか、お祭り」
「うん、行く」
おじいちゃんの家はお店屋さんをやっていて、たくさんのお客さんが来ます。お好み焼きと焼きそば、かき氷が人気です。今日は夏のお祭りの日で、お店にはいつもよりたくさんのお客さんが来ています。おじいちゃんは、ちょっとだけ忙しくない時に、白いエプロンで手をごしごし拭きながら、僕のところに来てくれました。
「おじいちゃん、なんで僕と遊んでくれるの?お客さんいっぱいだよ」
「直ちゃんはねえ。おじいちゃんの大事な初孫だからね」
「はつまごってなに?」
「おじいちゃんにとって初めての孫ってことだよ。一番大事な孫だよ」
「そうなんだ!」
「ねえ!祐ちゃんは?」
祐貴は僕の弟です。祐貴は、おじいちゃんが僕を誘ってくれたのを見て、自分も行きたいと付いてきました。
「祐ちゃんは二番目に大事な孫だ」
おじいちゃんは笑って言いました。祐貴はあんまり分かっていないようでした。
いつもは車が通る道に屋台がたくさん出ていて、いい匂いがしました。僕と祐貴は、おじいちゃんに甘くておいしいベビーカステラとチョコバナナを買ってもらいました。
次に射的をやりました。祐貴は背が低くて届かなかったので、おじいちゃんが代わりにやりました。おじいちゃんは手が長くて、たくさん景品を落としました。おじいちゃんは、小さいラムネを祐貴に、残りの景品を全部僕にくれました。祐貴は「なんで」と泣きましたが、おじいちゃんは祐貴「祐ちゃんは弟なんだから我慢しなさい」と叱っていました。
色々な屋台が出ていて、人もたくさん来ていて僕はわくわくしました。おじいちゃんも楽しそうで、僕にたくさんのお話をしてくれました。おじいちゃんは運動会にも来てくれるし、誕生日には欲しいものをなんでも買ってくれると言いました。祐貴はおじいちゃんからもらったラムネを食べながら、僕たちの後ろをトコトコと付いてくるだけでした。
「今日は暗くなったら花火が上がるでしょ。夕方からまたお店が忙しくなるから二人で遊んでいてね」
おじいちゃんは少し悲しそうに僕に言いました。夏祭りの日はたくさんの人が来てお店がとても忙しくなるので、お父さんとお母さんは二人ともお店のお手伝いをしています。祐貴が「父ちゃんと母ちゃんは」と泣きべそをかくので、僕は「夏祭りの日はみんなおじいちゃんのお店のお手伝いをするんだよ。親戚がみんなで協力するんだよ」と教えてあげました。
「偉いなあ、直ちゃんは。お兄ちゃんだね」
おじいちゃんは僕の頭にポンと手を置きました。
「そうだ、帽子を買ってあげよう」
ちょうど通りかかったところが、おじいちゃんの知り合いの佐伯さんがやっている服屋さんでした。
「佐伯さん、佐伯さん。孫の直英とお祭りに来ててね。この子に似合う帽子を見繕ってくれないか」
おじいちゃんが佐伯さんと話をしている間、僕と祐貴はお店の前にある側溝に石を落としたりして遊んでいました。
しばらくすると、佐伯さんが青い帽子を持って来てくれました。おでこのところに白色のナイキのマークがあるかっこいい帽子です。
「はい、直英君。おじいさんが買ってくれたよ」
「ありがとう!おじいちゃん」
僕は嬉しくなってすぐに帽子を被りました。
「ねえ!祐ちゃんのは?祐ちゃんのやつは?」
おじいちゃんは、僕だけに帽子を買ってくれました。祐貴の帽子はありませんでした。
「祐ちゃんにはまだ早いよ。来年買ってあげるね」
帽子を買ってもらえないことが分かった祐貴は、わあわあと泣き出しました。
おじいちゃんは、困った顔をしながら僕に言いました。
「直ちゃんはお兄ちゃんだから特別だよ。祐ちゃんはまだ分かってないから大丈夫。気にしなくていいよ」
僕は頭がぐるぐるしました。「なんで兄ちゃんだけ。なんで兄ちゃんだけ」と祐貴がひどく泣いている理由が分かっていたからです。でも、おじいちゃんが買ってくれた帽子を祐貴に渡すわけにはいきませんでした。おじいちゃんを悲しませることにもなるからです。おじいちゃんに嫌な思いをさせないようにしながら、祐貴にも悲しい思いをさせないようにするためにはどうしたらいいのか、僕は一生懸命考えました。うんうんと考えるうちに、いつの間にか祐貴は泣き止んでいました。それでも僕はうんうんと考え続けました。お家でも、おじいちゃんの家でも、同じようにうんうんと考えることがいっぱいありました。
「考えれば考えるほど賢くなっていくよ」
前、また分からないことがあって考えごとをしているときに、おじいちゃんはこうやって言いました。
違うよ。僕は頭の中で言いました。どうしたら祐貴がかわいそうじゃなくなるのか考えているだけだよ。
何回考えても、答えは分かりませんでした。
おじいちゃんは「お店が忙しくなるから戻るね」と帰っていきました。おじいちゃんが見えなくなってから、僕は青い帽子を祐貴の頭に被せました。祐貴は、左後ろを歩く僕を振り返って見上げました。
「お兄ちゃん。ありがとう」
祐貴は嬉しそうに言って、帽子をつけたまま走り出しました。
祐貴がどこかに行ってしまわないように、僕は少し追いかけて、それから祐貴の手を握りました。
「祐ちゃん。おじいちゃんにとって僕も祐ちゃんも二人とも大事なんだよ。二人ともおんなじ。一緒なんだよ。分かった?」
2018年12月 1日
直英の実家がある石川県金沢市から現在住んでいる愛知県春日井市まで車で行く方法は二通りある。滋賀県を経由して北陸自動車道を南下する道と、岐阜県を縦断する東海北陸自動車道を利用する方法だ。直英は東海北陸自動車道を利用するルートを好んで選択することが多い。
東海北陸道では冬用タイヤ規制が行われているものの、渋滞なく流れているらしい。FMラジオの道路情報を聞いた直英は安心してハンドルを握っていた。子同士の交渉では最早埒が明かなくなった跡継ぎ問題を家同士の問題として昇華させるべく、直英は実家を訪れていた。もちろんではあるが話し合いは上手くいくはずもなく、直英は浮かない気持ちで帰途についている。
この道を通るのも慣れたもので、直英はカーナビを使わなくてもどの分岐を進めば良いか分かっていた。この道を通るのは何度目だろう。金沢南ICから高速道路に乗った直英は、小矢部砺波JCTに差し掛かり岐阜方面への分岐のためハンドルを少し左に傾けながら思った。
思えば進学先を選択する時、念頭に置いていたのは親への金銭面の影響と実家からの距離だった。東京の名の知れた私立大学にも合格していたのにも関わらず、結局進学先として選んだのは学費と家賃の出費が少なく済みそうで地元から極端に離れていない名古屋にある国立大学だった。
なんとなく長男は地元に戻るものだろうと、就職先も地元本社の企業を中心に選んだ。結果地元金沢に本社がある企業に就職できたものの、回りまわって名古屋の支店に異動になり、その支店の同僚と恋に落ちて結婚することになったのだから人生とは分からないものだ。
親が心配しないようにと配慮を重ねて判断をしてきた進路選択と辻褄の合わない今回の自らの選択を直英は自嘲した。
なんとなく実家に迷惑をかけない方が良いのではないか、なんとなく長男は地元に戻るものではないか。この「なんとなく」が自分自身の本質であると直英は理解しつつあった。この説明のできない「なんとなく」という感覚は、家族や親戚からの愛や期待を一身に受けながら成長していく過程で、緩やかかつ根深く醸成された自らの無意識そのものであり、それはつまり自分自身そのものであった。愛してくれた人を、その愛と等しい熱量で愛し返すこと。無意識レベルで。無意識的に大切な人を尊重し、期待に応えようとする意識こそが直英のアイデンティティであった。
この自己分析が正しいものであると仮定すると、家族以外に大切な人を持たない18歳や22歳の当時の自分の「なんとなく」国立大学に進学する、「なんとなく」地元に帰るという選択は、無意識的ではあるが一本筋の通った自分らしい主体的かつ個性的な判断であったといえる。
そして愛する対象が一人増え、愛する者同士の意向が相反するものであったことにより、どちらかの期待に沿うとどちらかの期待に沿えない状況となった。今回の騒動が決着するということは、「大切な人を最大限尊重する」という自らのアイデンティティが崩壊するということにも気付いた直英は、改めて自嘲した。
長いトンネルに入ると襲ってくる眠気を払うため、直英は実家で両親にこの件を報告した際のことを思い返していた。
*
金沢の実家で、直英は両親に状況の説明をした。双方の意向が明らかに相反していること、子同士の話し合いでは決着が難しいこと、それぞれの両親を含めた双方にとって「しこり」の残らない選択をすることが自分の願いであること。その上で、こちら側が先方に歩み寄る選択をしたらどうかと考えていること。つまり、妻氏婚をして義両親と一緒に住んでいくという選択をする可能性があるということ。
「子どもの運動会とかそういうイベントは優先的に呼ぶしさ、こっちの親を」
直英は説明の最後に取って付けたように言った。
「やっぱなんも分かってないわ、あんたは」
眉間に皺を寄せた母は直英の方を見ずに返事をした。
「長男が養子に行くなんておじいさんおばあさんになんて説明したらいいの。恥ずかしくてとてもじゃないけど言えないわよ」
何かの間違いで「仕方ないねえ」と両親が諦めないかと期待していた直英はひどく落胆した。母の表情を見る限り答えは数週間前と変わっていなかったからだ。
「向こうはこちらの文化を分かった上で言ってるのかな。向こうは名字を継ぐことや両親と一緒に住んで家を守ることが一番大事かもしれないけどこっちは長男が家を継ぐことが何よりも大事なんだよ」
父もこれに加勢した。
「長男が家を継ぐのが大事っていうこっちの文化は分かったけど、向こうも向こうで折れないからどちらかが妥協しないと先に進めないじゃん」
直英は諦め半分で反論した。この話をする度に目の前に巨大な壁があることを自覚する。親と会話をする度に分厚く、巨大になっていくその壁を、直英は成す術もなく見上げることしかできない。
「それは分かるけど、なんでこっちが折れる必要があるの?なんで向こうが折れないことが決まってるの?」
父が食って掛かった。言葉こそ強くないが、父の方がこの件について思うことがあるに違いない。
「自分は折れてもいいかなと思ったけど、親も入るとこうなるでしょ。もうこれは家と家との話だから、親同士で話してもらった方がいいんじゃないかと思うけど」
暫しの沈黙が訪れる。
事実、直英は親同士で話してもらった方が楽だとすら考えていた。「こう決まったから、君たちよろしくね」と指示を出してもらって、それに従えば良いのであればむしろその方が良いと。しかしながら、直英の両親がそれを望まないことも大方予想が付いていた。世間体や体裁を気にする両親のことだから、やたらと主張をする得体の知れない連中と相対してやり合うことを極力避けようとするに違いないし、跡継ぎ問題で揉めた等と噂のされないように自分たちが直接手を下すことはしないはずである。最悪のケースでも「息子が決めたことなので」と保身することができる。
「そもそもあんたはどうしたいの。あんた達の将来のことだから二人で話し合って決めてよ」
そら来た。思った通りだ。直英は表情を変えずに苛々とした。
「大体あんた、長男が向こうの親と一緒に住むなんて、もしそうするなら家は誰が建てるの。お金は当然向こうが出すのよね?それにこっちの老後の面倒は誰が見てくれるの。家とかお墓のお守りは誰がやるの。祐貴なんてあてにならないし、あんたにやってもらいたいけどねウチとしては」
「もし一緒に住むなら資金面は援助してくれると思うよ、きっと。それにこっちの実家には帰れない距離ではないし出来るだけたくさん帰るようにするよ」
「さっきも言ったけどやっぱりあんたは何も分かってないわ。私らはね、毎週おばあさんを買い物に連れて行ったりして面倒を見てるの。名古屋なんかに住んであんたはそれができるの?毎週帰ってくるわけにはいかないでしょ。結局は金に目がくらんだというわけ。あんたもその程度だったということでしょ。これまで一生懸命育ててきたけど裏切るわけだ」
「買い物なんて……」と口を突いて出そうになるのを堪え、直英は眼前に立ちはだかる壁をぼんやりと見た。どれだけ見上げても、どれだけ見渡しても、壁の切れ目は見当たらなかった。ついに巨大化する壁は直英の視界を完全に覆い、この問題を然るべき着地点に着地させるべく努力しようとする直英の気力をも削いでいった。
解決のできない問題であれば、双方の妥協が無ければ乗り越えることなど出来ないのに。直英は暗くなった視界の中でそう思った。真帆の両親が初手から自らの主張を言い切ったということは、妥協する意思はないということだと直英は理解した。たった今の会話を思い返す限りでは、直英の両親にもその意思はない。直接会話をしないことでむしろ憤りを増幅させているものと思われる。
だとしたら、この交渉で妥協をするのは誰か。答えは分かっていた。
父を見る。責めるような母の言葉を諫めることをせず、黙って聞いていた。
「これまで一生懸命育ててきたけど裏切るわけだ」
先程投げつけられた母の言葉が脳裏に浮かぶ。
真帆とその両親の意向を尊重し、自らの両親の意向を尊重しない選択をし、裏切り者と思われることを許容すること。それがこの問題を着地させるための唯一の方策であると直英は気付いていた。
この時直英は初めて「楽になりたい」と思った。面倒だと思った。何もかも捨てて軽くなりたいと思った。視界を覆うこの壁を壊して空を見たいと思った。遠くまで広がる空を眺めて、胃が痛くなるこんな悩みも放り出して。
「まあ、分かったわ」
直英は力なく返事をした。考える気力を失っていた。
何やらその後も両親から言われていたが、何を言われたか覚えてはいない。
譲らない真帆の親と、譲らない自分の親。歩み寄る姿勢を示しつつも自分が折れることを期待している真帆。そして何一つとして選択することが出来ていない自分。
誰かが折れたとしても、衝突が起こってしまった以上は何かしらの「しこり」が残る。
その「しこり」を誰の心に残すのか。答えは決まっている。分かってはいるのに、どうしても踏ん切りが付かない。
ああ、空が見たい。全て投げ出して、空が見たい。何にも縛られることのない、何のしがらみもない、広くて青い空が見たい。
2018年12月 8日
大きな仏壇を横目に直英は居間に進む。この先の話し合いを思うと足取りは自然と重くなる。
腹の内は決まっていた。一度は拒否しよう。直英はそう決めていた。奥田家としての意思表示はしっかりとすべきだ。その結果自分自身の立場が危うくなろうとも。
自らの両親への義理を果たすことと、真帆の思いを尊重することは別の問題だと直英は考えていた。結論として真帆を尊重することになったとしても、簡単に折れないことに意味があると直英は考えていた。この交渉において「揉めた」という事実こそが両親への罪滅ぼしになると。
「負け戦だ」と直英は思った。両親から判断を委ねられた以上は、自分で結論を出さないといけない。話し合いが始まる前から「一度拒否してそれから受け入れよう」と思案している時点で、最早この交渉は戦の体を成していないのかもしれない。結果として真帆の意向が尊重されることになるのであるから、僕たち夫婦にとっては「勝ち」ではないか。何が勝ちで何が負けかを整理できず、直英は考えることを止めた時、真帆の母が珈琲を持ってきた。
「先日はこちらの考えを一方的に伝えてしまってすみませんでした。あれから直英さんのご両親ともお話をされたと思いますが、いかがでしたか」
真帆の父が前置き無く切り出した。朗らかな口調だった。それは直英が折れると思っているからなのか、暗い雰囲気にならないための配慮なのかは直英には分からなかった。
言うべきことは決まっているのに、直英は口を開くことが出来なかった。自らが下す判断に自信が持てなかったからだ。最終的には真帆の意向を尊重する結論を着地点とするつもりではいるが、一度拒否するということが真帆とその両親にどのような影響を与えるのか直英には予想が付かなかった。ただの自分の罪滅ぼしのために真帆を深く傷つけることにならないか。
直英は固く握った拳を解き、汗ばんだ手のひらを眺めた。何の意味も持たないことが分かっていながら、むしろ真帆とその両親との今後の関わりのためには気持ちの良い返答をすることが最善であると分かっていながら、これから自分は阿呆のように独りよがりの茶番を演じなければならない。いや、真帆とその両親にはこの茶番劇に付き合ってもらう義務がある。この議論が片付く頃には、望むものは全て彼らの手中にあるはずであるからだ。直英は、この痛み分けが自らの溜飲を下げるために必要だと考えた。自分の心に「しこり」を残すことを決めた唯一の人間に許された権利である。直英は再び拳を固く握った。
「あれから両親にも報告させていただき、それから先日相談して参りました。結論から申し上げますと、先日お話頂いた妻氏婚の件などについて、お受けすることが出来ません。私の地元では『長男が家を継ぐ』方が重要視される文化でして……」
真帆の母ががっくりと肩を落とし、下を向いたのを見て直英は話すのを止めた。
心は多少傷んだが、当然のことだと直英は考えていた。手放しで全ての要求が通るほど甘い話ではない。当事者として交渉の中心にいた直英は彼らが想像するよりも遥かに強いストレスに晒されていたのだから。
誰も次の言葉を発さないまま、暫く時間が過ぎた。来るなら来いと直英は構えていた。
「そうですか」
真帆の父がようやく口を開いた。
「そうですか。そうですか」
慎重に言葉を選んでいるようだった。
「直英さんには、先日大変嫌な思いをさせてしまっていたことが分かりました。お詫びします。ご両親との話し合いも大変だったと思います。すみませんでした。私もあれから自分なりに考えてみたんですがね、ウチの希望だけで幸せなはずの二人の間に溝が出来ることは避けたいと思っています。直英さんとご両親のお考えは良く分かりましたので、私が先日話した希望は聞かなかったことにしてください。」
直英は唖然として真帆の父を眺めた。「え?」と口を突いて出そうになるのを我慢して、直英はその返答を必死で考えた。
「ちょっとお父さん」
声のトーンを抑えて縋るように言う真帆の母を手で制した真帆の父は、こう付け加えた。
「こちらのことは心配ご無用です。なるようになっていきますから」
肩透かしを食らった直英が横を見ると、真帆は表情を変えずに涙を流していた。
*
「あの涙はどういう涙だったの」
帰り道の車内で、直英はたまらず真帆に聞いた。
「いやお父さんが折れると思ってなかったから、申し訳ないなって」
直英が折れることが決まっていたとしても、一度は真帆とその両親に自分と同じ苦しい気持ちを感じて欲しかった。「何故だ」と問い詰められる気でいた直英は、真帆の父の返答に困惑はしたが、一応は自らの両親への罪滅ぼしは出来たと思っていた。
「でもこれで前に進めるね。すっきりしたじゃん。直君も一生懸命考えてくれてありがとう。来年から奥田真帆になるんだね。楽しみだなあ」
まだ目が赤い真帆は笑って直英の方を見た。
真帆から暫くの間恨み言を言われると構えていたが、驚くことに真帆は既に気持ちの整理を始めているように見受けられる。直英は自分が酷く卑怯な人間に思えた。やはり独りよがりだったと思った。
真帆の父も即答ではなかったが直英の希望を受け入れる意思表示をはっきりとした。家族全員が揃っているあの場で初めて一家の代表としての意向を示したようだ。つまり、真帆の父は「しこり」を彼自身の心に残すことを選択したのである。
「真帆はいいの?これで」
直英はハンドルを握ったまま前を見て言った。返事はなかった。
直英は動揺していた。うだうだと悩むことなくきっぱりと意思決定をした真帆の父は、一家の代表としてあるべき姿を体現しているように直英には映った。
直英が両親から期待されている「長男として家を継ぐ」ということは、誰かの心に「しこり」を残してしまうような、どっちつかずの決断ができない状態で悩んだ末に決断することではなく、そこに判断の余地が入ることのない状態で、思い悩むことなく直英自身が家を継ぐ以外に選択肢がない状態となることを指すのではないか。本来であれば自らの意思でしっかりと判断し、その判断に基づいて主体的に交渉を進めていくべきなのに、自分の判断による影響を心配するふりをして、自分自身への影響や自分自身の心に残る「しこり」がより小さくなる方法を探しているだけではないか。
結局自分が可愛いだけの自分本位の卑怯者こそが自分なのだと理解した途端に、直英は頭が少しだけ軽くなったような感覚を覚えていた。
譲ろう。軽くなった頭で直英は考えた。これは積極的な判断だ。「一度断ってそれから了承しよう」などという卑怯極まりない今までの判断とは性質が大きく異なる。そもそも真帆の父から妻氏婚の話が出た時に「無理です」と即答できなかった時点で、直英は両親の期待に応えることができる人間ではないことがはっきりとしていたのであった。
自分の心に残るわだかまりを小さくするための立ち回りをした結果、この議論に関わる皆の心に大小の違いはあれど「しこり」を残す結果となってしまった。罪を犯したのは自分だけだった。自分が初めから自らを可愛がることなくしっかりと判断できていれば、誰も傷付けずに済んだ。両親の期待に応えることが出来ないことが確定しているのであれば、今さら悪あがきをしたところで仕方がない。早く結論を出した方が皆の心に残る「しこり」を大きくせずに済む。
「やっぱり、いいよ。僕が濱本になるよ」
真帆は驚いた顔で直英の方を見た。
「いいの?さっきお父さんはウチはいいって言ってたよ?」
「うん、いい。あれから僕も考えてたけど、僕はこれから真帆と幸せに暮らしていきたいから。両親のために結婚するわけじゃないし。ごめんね最初からしっかり判断できなくて」
真帆は一度涙が引いた目を手で覆って、また涙を流し始めた。
「ごめんね、直君。嫌な思いをさせちゃってごめんね」
これでいい。直英は思った。真帆の心に「しこり」を残してしまったけれど、これでいい。自分の両親をがっかりさせることになるけれど、これでいい。きっと自分の心に「しこり」が残るけれど、これでいい。たぶん、きっと、これでいい。
巡り巡ってすることになった自分の判断に自信が持てないまま、直英はフロントガラス越しに空を見た。透明なガラス越しに広がる空は遠くまで伸びていて、白い雲がゆっくりと流れていくように見えた。
視界を覆うあの大きな壁は、これで壊れるだろうか。
ふと視線を落とすと、スピードメーターは60km/hを示していた。
結局自分は恋人を取るという選択をした。両親の意向は無視する形だ。
直英は、自分自身が何者なのか分からなくなっていく感覚を覚えていた。今回の選択が、今までの人生において自分が積み重ねてきた選択と一貫性がないように感じたからだ。
いや、違う。他者を尊重するという意識こそが自分のアイデンティティであるという自己分析は、つい今しがた大きな誤りであったことが発覚したのを直英は思い出していた。自分は、他人を心配するフリをして、自分が可愛いだけの、自分本位の思考と選択を積み重ねてきただけの男であったことを思い出した。崩壊するアイデンティティなど元より存在していなかったのだ。
じゃあ、僕は何者なんだ。
自分を形作るものだと信じていた無意識は自分を納得させるために作り上げた偽りのアイデンティティだったことが分かったし、あれだけ畏怖していた巨大な壁もただの自分が作り上げた蜃気楼だったことになる。これで名字も変わり、自分が自分たる所以が完全に失われるような気がする。
直英は、再び空を見た。空は、どこまで行っても誰が見ても空だ。
分からない。どうにも分からなくなった。今の自分は何者なんだ。誰なんだ。
2022年 2月19日
常夜灯の淡い灯りの中、直英はエアコンの真下を避けるようにそろりそろりと体を揺らして歩いていた。
左腕にかかるこの重みは、この世で最も尊く、暖かい。物音や振動に敏感で、少し気難しいように思える息子の性格はどうやら自分に似たらしい。小さい手足をもぞもぞと動かす子が起きてしまわぬよう慎重に揺らしながら直英はぼんやりと考えていた。
*
入籍から二年が過ぎ、夫婦としての生活も板についてきた頃、真帆は妊娠した。出産を無事乗り越え、家族三人の生活が始まって半年が経つ。
両方の実家との関係も良好だった。直英の両親は孫ができたことを喜び、写真を送れと頻繁に連絡を寄越すようになった。真帆の実家は比較的近くにあることもあり、月に一度は顔を出すようにしていた。
ただ、あの時のわだかまりが完全に解消された訳ではない。意図して結婚式より入籍を遅らせ、直英の名字が変わることを直英側の親戚には悟られないようにしたし、婿入りのことは暫く経ってから自分からではなく父から祖父母に報告したところ、絶句していたそうだ。それから何度かせめて金沢に戻って祖父母が持つ土地に家を建てるよう打診があったそうだが、有耶無耶にしていると聞いている。直英が実家に連絡するたびに「あんたが選んだことだから仕方がないが、大変だ」と嫌味を言われるが、気にしないことにしている。
直英は、自分のアイデンティティを見失ってしまったことには一旦蓋をすることにしていた。考え事をする気力を失っていたと言い換えた方が正しいのかもしれない。直英の判断を真帆とその両親は喜び、歓迎した。実家に説明した時は色々と恨み節を言われたが、最終的には「自分で判断しなさい」とのことだったのでその場で最終決定を宣言した。
直英は疲れ果てていた。皆が気持ちよく着地できるようにと右往左往していたつもりだったのが、結局は自分が傷付かないための立ち回りを無意識にしていたのに過ぎないことに気付き、同時に自らの奥底に根付く自分自身たるものも瓦解していくのを自覚していた当時の直英には、自己分析の思考の中に入り込んでいく気力が残っていなかった。
半ば投げやりになってした自分の決断を直英は深く顧みることをしなかった。チャンスはいくらでもあったはずなのに、特段自信を持っていた訳ではないのに、直英は自分の判断を曲げることはしなかった。理由は「面倒だから」だった。面倒だから考えることをやめるというその判断こそが、自らの人生における初めての「他人のために」という逃げを伴わない決断だったと思い返した直英は、なんとも情けない心持ちになった。
子供を寝かしつけるこの数十分で、直英は思索に耽る。結婚してからしばらく蓋をしていた自分自身の問題に向き合う時が来たと感じていた。子供が産まれて数か月の間寝かしつけの時間にぼんやりと考え続け、やっとのことで「面倒だから考えるのをやめる」というあの時の判断が今までの自分とは異なる思考回路だったことに気付いたのである。
このまま深く考えずに生きていけば良かったのに、再び答えのない自己分析を始めることになったのには理由がある。子供が産まれたこと機に、真帆の実家を二世帯住宅として建て直す案が真帆の両親から提示されたからである。真帆の実家は元々祖父母と同居しており、数年前に祖父母が逝去してから直英は「新居は二世帯に」と小出しに打診を受けていた。その度のらりくらりとはぐらかしていた直英は、子が産まれたことによりついに判断をしなければならなくなってしまったのだった。
この件はまた直英の両親に話をしなければならない。直英は胃が痛くなる思いだった。返事をしてしまう前に、埃の被ったこの蓋をゴトリと開け、自分自身に再び向き合う必要があった。
義両親との同居の話が出てくるのと時期を同じくして、直英の精神面での乱れが目立つようになった。後から思い返すと取るに足らないような出来事に激高することが明らかに増えていた。単に子供が産まれて思い通りいかないことが増えただけなのかもしれない。どういう理由であれ、怒り狂う回数は減らさないといけない。直英は自省した。真帆との関係に溝ができる前になんとかしないと。子の成長に悪い影響を及ぼす前になんとかしないと。
今日も子供を風呂に入れる時に上手くいかず激しく泣かせてしまったものだから、真帆に子供を渡したあと手のひらを湯船に数回叩きつけ、大声を出して壁を殴りつけてしまった。ここのところ何度もこのようなことがあったからか真帆も慣れてきたようで、以前のように心配して駆けつけることはせず、風呂を出た直英の顔を見ず「もういい加減にして」と言うだけになってしまっている。
直英はこの激高が家庭にとっても自分にとっても良い影響与えないことは十分理解していた。理解しているのにも関わらず、瞬間的に感情的になってしまう自分の心を止めることができない直英は、なんとも歯痒い思いをしていた。
上手くいかないことへの怒りもしばらくすると鎮まる。すると今度は感情的になってしまった自分への怒りと自己嫌悪が沸々と湧いてくるのである。また怒ってしまった。またやってしまった。もうしないとあれだけ誓ったのに。別に真帆も子供も何一つとして悪くはない。自分なのだ。自分がまた感情をコントロールできずに皆に迷惑をかけてしまった。戒めなくては。家族に迷惑をかける自分を戒めなければならない。
直英はトイレに行き、鍵をかけ、便座に座った。それから右手を握りしめ、その拳を思い切り自らの頬に打ち付ける。皮膚と皮膚がぶつかる音がする。痛みを感じる。まだだ。弱い。この程度の痛みでは自分はまた同じことを繰り返してしまう。今度は三発連続で戒めよう。まだ弱い。もう二度と感情的にならないと誓いたくなる程の強さで自分を戒めよう。両方の頬を五発連続で戒めよう。ダメだ。痛いと思っているうちはまだ弱い。次は気を失うまで殴り続けてやろう。何度も同じミスをする人間は多少痛い思いをしないと同じことを繰り返してしまう筈だ。バチバチバチと自分で自分を殴る音がトイレの壁を越えて廊下に響く。何度も何度も繰り返し殴る。どれだけ考えても感情をコントロールできないのであれば暴力で制御するしかない。何度も、何度も、何度も自分を殴る。
「ごめんねえ遅くなって。トイレの中に蚊が飛んでてさ。結構大きいやつだったよ。ほらこんなでかいの」
変に明るい声で取り繕った直英が唇から血を流してリビングに戻ると、真帆は涙を流しながら子を優しく抱いていた。
*
抱いていた子供の力が抜け、あまり動かなくなっていった。直英は子をあまり揺らさぬよう、慎重にベッドに寝かせた。
家庭が上手く回らなくなったのはいつからだろう。その原因となっている自分の情緒不安定はいつからだろう。このままではいつか本当に自分の存在がこの家族にとって邪魔になってしまう。なんとかしないと。
自分が感情をコントロールできなくなった理由は分かっていた。明白だった。
次の寝かしつけの時にはその解決策が見つかればいいなと願って、直英は忍び足で寝室を後にした。
2022年 3月21日
義両親と同居する案を実家に説明した時、直英の両親は当然の如く猛反対した。
両親は入籍の時のように最初は反対していたものの、直英に折れる気がないことを察すると、夫婦でお互いの実家の中間地点に転職すべきだとか、このまま持ち家ではなく賃貸のままで良いのではないか等と諭すように言った。
「『スープの冷めない距離』って言葉があるけどさ、最悪近くに住まないといけなくてもそれくらいでしょ。同居って二世帯住宅でしょ。別に俺たちが嫌ってわけじゃなくて、直英が幸せに生きていけるかだけを心配しているんだよ今は。お前の性格は俺たちが一番分かってる。もうこっちのことは気にしなくていいから、直英が今後楽しく暮らしていけるかだけを考えてくれ。真帆さんのお父さんお母さんと一緒に住んで自由気ままにやっていけるか?自分を守ることだけを考えて選んだ方がいいと思う。もう俺たちのことは気にしなくていいから」
父が心配そうに語りかける間、直英は今回も床の木目をぼんやりと眺めていた。
嘘をつけと直英は思っていた。自分たちの見栄や世間体しか考えていない癖に。優しい言葉をかけているように見えても、これは誘導以外の何物でもない。こんなものに屈するわけにはいかない。
「私もお父さんと同じ考え。一緒に住むのは絶対にやめた方がいいよ。あんたは今は想像つかないかも知れないけどね、これから一生苦しむことになるよ。私の友達で二世帯にして後で揉めたなんて話たくさん聞くよ。あんた疲れてるんじゃない?一回落ち着いて考え直した方がいいよ」
母も同意見だった。珍しく母が声を荒げていないことに直英は驚いたが、それでも床の木目から目を離すことをしなかった。
直英は考えることをやめていた。何が正しいのか、何が間違っているか分からないこの問題についてこれ以上考えることを直英の脳が拒否していた。直英は自分の両親と恋人のどちらを選択するかの岐路に立たされた時、そのどちらでもない自分自身を、つまり保身を第一に考えていたことをひどく恥じていた。
ぐだぐだとどちらにもいい顔をしながら決断を先延ばしし、結局は特に根拠を持たずに恋人の方を選択したものだから、正直なところ両親に合わせる顔がなかった。あれだけ揉めた後、結局長男が家を出て行ったものだから、両親がどのような思いでいるのか、親戚中からどのように言われているのか手に取るように分かっていた。だからこそ、直英は両親と向き合うことが出来なかった。
彼らとまともに向き合うことで自分の精神がいよいよ保てなくなるに違いないと直英は感じていた。真帆側の意向を受け入れてから、両親を憎く感じるようになったのも自衛の一環であると気付きかけた直英は、「これ以上考えることをやめる」という選択を無意識にしていた。
「とにかく、決めたことだから。納得できないと思うけど納得してもらわないと困る」
困惑する両親を残して直英は実家を出た。車のドアを力任せに閉めてエンジンをかける。胸が締まり、両腕が肩から重くなっていく感覚を直英は覚えていた。ごめんなさい。父さん、母さん、ほんとうにごめん。ごめんなさい。
思い切り勢いをつけてシートベルトをかけようとして、上手く刺さらず左手の人差し指に当たり、直英は思わず顔を顰めた。
ごめんなさい。ほんとうに、ほんとうに、ごめん。
鬱々とする心に喝を入れるように、直英は目を瞑って思い切りアクセルを踏んだ。
エンジンが轟音を上げる。
タイヤがガガと音を立てて空転し、車は走り出した。
2022年 4月 9日
「ああ、それはどうも、ありがとうございます。工務店はねえ、近所に知り合いがいるんですよ。あそこの角を曲がったところの。そこに決めてましてねえ」
真帆と義母がキッチンでお茶を淹れている間に、直英は同居について実家から了承を得たことを義父に報告した。一家総出で平身低頭されるものだと思っていた直英は、あっさりとした義父の返事に拍子抜けをした。
仕方がないので直英はそれと無しに話題を変え、義父と雑談に興じていたところ、キッチンから義母が義父を呼んだ。
暫くして義父が客間に戻ると、彼は頭を深々と下げた。
「直英さん、私たちとの同居を決めていただき、本当にありがとうございました。ご両親にもお話をしっかりとしていただき、ありがとうございます。色々なところで嫌な思いをさせてしまったと思いますが、これからどうぞよろしくお願いします」
この阿呆が。直英は憤っていた。
キッチンで何を話してきたのか分からないが、大方真帆と義母から「ちゃんとお礼しろ」などと叱られてきたのだろう。だけど、もう遅い。この一家は自分の決断の重みを理解していないということが良く分かった。
自分だったら。顔が紅潮していくのを直英は感じていた。
自分だったら、まず初めに直英の両親に頭を下げるために直英の実家に参ることを考えるだろう。それを直英に第一に打診すべきだ。直英の祖父母にも謝罪をするのも良いかもしれない。「そちら様の大切な長男を奪うことになってしまってすみません」と。それをこの阿呆は、「ああ、どうも」で済まそうとした。何も分かっていない。自分が苦しみ抜いた結果が今の形であることを何一つとして分かっていない。
しばらく沈黙した直英は、大げさにかぶりを振りながら笑って言った。
「何を仰いますかお義父さん。大したことありません。実家も二つ返事でしたよ」
*
その夜、ソファで本を読む真帆と雑談をしながら洗い物をしていた直英は、手に持っていた泡の付いたマグカップを前触れなくシンクに叩きつけて割った。
陶器が割れる大きな音がリビングに響き、真帆は驚いた顔で直英の方を見た。
「ごめんごめん、手が滑っちゃってさ。わざとじゃないよ」
直英は誤魔化すように言った。
「もう本当にいい加減にして。物に当たるのはもうやめて。今日のお父さんのことでしょう?失礼だったよあれは。謝るよ。一家を代表して謝るよ。ごめんなさい。でもお父さん昔からああいう感じなの。気配りができないの。ねえどうしたらいいの?どうしたら前の直君みたいに戻ってくれる?嫌なら嫌って言ってよ。同居の話やめる?やめよう?」
真帆が直英に問い詰めていると、寝室から大きな泣き声が聞こえてきた。
「ああもう、起きちゃった」と苛立った真帆が走ってリビングを出て行った。
直英は飛び散ったマグカップの欠片を黙々と集める。
またやってしまった。また戒めないと。直英はシンクの中から一番大きな欠片を取り上げた。
どこを戒めたらいいのだろう。叩き割りたい衝動を抑えられなかったこの右手か。叩き割りたい衝動を覚えてしまったこの頭か。仕方のない言い訳をして真帆に誠心誠意謝らなかったこの口か。
視界に靄がかかっていくのが分かった。頭痛がする。体が重い。力が入らない。欠片の先端をぼんやりと動かす。右手でも、頭でも、口でもなかった。どこを戒めたら解決するのだろう。
この頃思い通りいかないことが増えた。ただ自分と関わる人に幸せを感じていてもらいたいだけなのに。どうしてこんなことになってしまっているのか。
曖昧な思考の中で、この間寝かしつけの時に考えたことを思い出していた。自分が感情をコントロールできなくなった理由。消化できていないからだ。恋人か自分の両親か。その選択に自分自身が納得できていないからだ。
実家の両親は「もう自分のことだけを考えろ」と言ってくれた。事態を彼らなりに消化して、次に進もうとしてくれている証拠だ。じゃあ、自分は。次に進むために自分ができていることは何か。今の自分に求められているのは、早く納得をして、消化して、気持ちを切り替えることなのに。自分のせいで話が拗れているだけではないか。話がうまく進んでいかない原因は自分の存在にあるのではないか。
切っ先がふらふらと左胸に向く。ああ、戒めるべきはここだったのか。小難しいことを考えて苛々している自分がいなくなれば、この家庭は上手く回っていくのに。
直英は服を捲って試しに欠片を胸に押し付けてみた。血が滲む。直英は怖くなって欠片をシンクに落とした。
おかしい。狂っている。直英は両手をシンクの縁についてうなだれた。
どうしたら家庭が上手く回るようになるか教えてくれ。どうしたらあの忌々しい問題を消化できるのか教えてくれ。どうしたら納得できるのか教えてくれ。どうしたらいいのか教えてくれ。どうしたら。どうしたら。
2023年 8月16日
直英は満たされることのない飢えに延々と悩まされていた。
一歳半になった子供を何度実家に連れ帰っても、両親への贖罪の念が消えないのである。
「そんなに何度も長距離移動すると子供が可哀相だ」と抗議する真帆を無視し、直英は二週間に一度くらいの頻度で子供を実家に連れ帰った。その甲斐あってか子供は実家の両親に懐き、また両親も孫を溺愛した。その様子を見ていると直英の心は少しだけ軽くなるが、翌日自宅の庭先で義両親と戯れる子供を眺めていると、沸々と黒い感情が湧き上がってくるのである。
黒い感情の正体はここ数年間直英を悩ませている名前の分からない汚らわしい感情だ。二世帯住宅を建てたのがあそこに見える義両親ではなく自分の両親だったら。新築の綺麗なリビングから見える、青々とした植栽の向こうにある、眩しいくらいの人工芝の庭で孫と戯れる年寄りが自分の両親だったらどんなに心が楽か。義両親は果たして自分に感謝しているのか。なんとも思ってはないのではないか。
一度この黒い感情が湧き上がってしまうとどうも一日中気分が優れず、相も変わらず直英は不機嫌になったり、物に当たったりしてしまう。そうすると今度は真帆と子が笑顔で過ごせることが自分自身の幸せでもあるというもう一つの表向きの感情を思い出し、情けなくも真帆に「さっきは場の空気を乱してごめん」などと謝るのだった。
何度も繰り返しこのようなことがあったものだから、真帆も堪忍袋の緒が切れて、つい先日口論になってしまった。
「もう本当にいい加減にしてよ。また物壊してさ。どうしたらいいの?何が気に食わないの?言ってよ。言ってくれなきゃ分からないじゃん。名字なの?もう一回考え直す?二世帯なの?今からでもアパートに住む?言ってよ。何なの?」
「別に何かが嫌っていうわけじゃないよ。皿割っちゃったりとかも本当に手元が狂っただけで、物に当たってる訳じゃないよ」
「絶対に嘘じゃん。もう無理だって。誤魔化せてないって。何が嫌なのか言ってよ。教えてって」
直英はしばらく黙ってから口を開いた。
「嫌ってわけじゃないけどさ。毎日子供とお父さんお母さんが遊んでるのを見ると気が滅入るんだよね。そもそもリビングで休んでてふと外見るとお父さんお母さんが見えるのが気に食わない。世の一般的な男性は自分の家建てたら庭にほぼ毎日義両親がいるなんて状況にならないでしょ?それにこっちの両親が気の毒に思えてしまって。全て奪われてしまった両親にどうやって恩返しできるかと思ったら気分が下がってしまう。だってもう恩返しできないもん。恩返しのしようがないというか」
真帆がソファで膝を抱えて泣くのを見て直英は「またやってしまった」と思った。
「もう家が建っちゃったからどうしようもないじゃん。だからやっぱり一回離婚して名字を変えて入籍し直そう。少しでも気になるところが減った方が直君の心の安定のためにはいいよ。私は構わないよ」
「いやそこまでは……」
言いかけたところで直英は口を噤んだ。
妻氏婚や義両親との同居が本気で気に食わないならいくらでも話し合って対応できたはずだ。真帆の言うように今からでもやり直しができることもある。物事が思い通りに進まないことに腹を立て、家族に迷惑をかけているのは自分自身なのに、いざ真帆からやり直しを持ち掛けられるとそれを拒もうとしている。そこまではしなくていいと本気で思っている。
握り締めた拳が震えている。優位に立ちたいだけだった。直英は唇を強く噛んだ。
長男としての責務を果たせず、義両親との同居も避けられないのであれば、せめて「譲った」という事実だけは守らなければならないと無意識で考えていたことに直英は気付かされた。
結局はまたしても我が身可愛さだった。自分の両親や真帆のことなど考えていやしなかった。両親のことを気の毒に思ってなどいなかった。譲った事実だけでも守ろうとするのであれば、現状に満足して腹を立てるべきではないし、まして妻に「ウチの両親が可哀相」などと宣うのは言語道断だ。直英を支配する黒い感情は墓場まで持っていかなければならない。それができないのであれば、譲ったという優位性を得ることはできない。自分がやっているのは、思い通りにいかないことに駄々をこねる子供の喚きに等しい。
口の中に鉄の味が広がる。目の周りが熱くなるのを感じた。
聡明な妻のことだから、きっと自分の浅ましい考えに早い段階で気付いていたのだろう。そして直英の良心にかけてぶつかってきてくれたのだ。どうか、どうか気付いてくれと。
直英は、居た堪れなくなって膝を抱えて泣く真帆を残してリビングを後にした。
*
「おお、思ったより酷くて笑っちゃったわ」
黙って直英の話を聞いていた同期の下出はレモンサワーを飲みながら言った。
「そうなんだよね。自分でもどうしたらいいか分からなくて」
久しぶりに、と誘いを受けた直英は、仕事終わりに駅前の居酒屋で下出と落ち合った。新型コロナウイルスの影響もあり飲み会への参加を控えていた直英にとっては、下出とこうして話すのは実に三年振りとなる。
「自分と違ってお前は人生のステージがどんどん先に行っていいなあと思ってたけど、先に行ったら先に行ったで想像のつかないような悩みがあるもんなんだね」
下出は難しい顔をして考えるように言った。
「僕もこんなことで悩むとは思ってなかったよ」
直英が悩み始めた数年前、目の前には巨大な壁が形成された。しかしその壁は自らが作り出した虚像に過ぎないと気付いてからもなお直英は悩み続けている。むしろ今は陰鬱で、薄ぼんやりとした雲が視界を覆い、顔をどこに向けても、いつまで経っても晴れ間が見えない日々が続いている。
「まあ自分も今付き合ってる彼女と結婚の話出てるけど、彼女の家も子供が女の人しかいなくてさ。彼女のお姉さんは嫁いじゃってるから俺もお前と同じ問題に直面しそうだわ。まあでも俺は次男坊だしウチの親もとやかく言うタイプじゃないから大丈夫だと思うけど」
「そう思ってるかもしれないけど、いざその時になったらめちゃくちゃ悩むよ。そもそもそれぞれの土地で文化も風習も違うからそりゃ衝突するよねって感じ。僕の地元は長男が家を継ぐことが何よりも大事って考え方だし、妻の地元は長男がっていうのはあんまりなくて、家を継ぐことが何よりも大事って感じ。こんな結果になって親に申し訳ないとは思うけど、だからと言って妻や義両親にも強く言えないからさ。どこにも出せないモヤモヤが溜まっていって、でもそのモヤモヤの原因が妻と義両親にあると思い込んでて、結果それが言動に出てしまって雰囲気が悪くなる感じ。最近モヤモヤの原因が自分自身の保身だったことに気付いてより苦しんでるけど」
直英はそう下出に忠告して、梅酒のソーダ割りを飲み干した。
家を継ぐと簡単に言うけれど。直英はグラスから落ちた机に落ちた水滴を人差し指でなぞりながら考えた。
「家を継ぐ」とは何を継ぐことを指すのか。脈々と受け継がれる土地の相続だけの問題なのか。
昔からサザエさんの「マスオさん状態」とはどんな状態か分からずにいた。きっと妻氏婚をした上に妻の両親と同居することを余儀なくされた自己主張の少ない気の弱い男性の象徴として描かれているのだろうと思っていた。この問題にぶつかってから気になって調べた直英はひどく落ち込んだ。「マスオさん状態」とは、夫側の戸籍に妻が入っていながら、妻の実家に同居している状態のことだった。自分はそれ以下だったのだ。真帆の実家は氏も土地も両方とも継いでいくこと希望していた。身も心も捧げよというのだ。「家を継ぐ」とは氏も土地も当然継いでいき、その存続を第一に考える人材となることを指すのだ。形だけ同居しているマスオさん状態とは訳が違う。心まで真帆の家に捧げ、濱本家の一員として濱本家のことを考えながら過ごしていくこと。直英はこれをどうにも受け入れることが出来なかった。
「でもさ、婿入りしたことで結納的なやつとか家建てる時の金銭的な援助とかは向こうの親御さんからはなかったの?文化の違う家庭の長男であるお前を婿に貰うことって金銭で解決するしか方法はなくない?」
「いや、結果として多く出してもらうことになっちゃったけど、こっちのスタンスというか、体裁としては断ってるよ。結納は完全に断ったね。ウチの親がそこまではいいって。それよりも自分が納得できていないのは、義両親が長男を婿に出すことの重大さを理解できていないように思えて、僕と僕の両親へのリスペクトが少ないように見受けられるところかな。ウチの両親に頭下げに来いよと思ったけどそれがなかった。でも頭下げに来いなんて言えないし、家が建って嬉しそうにしている彼らが人の苦労や悩みを踏み台にして何も失わずに幸せを享受できた傲慢な人間達に僕には見えてる」
下出はレモンサワーをちびちびと飲みながら、直英に聞こえるか聞こえないかの声で「こりゃ重症だな」と言った。
「え?なんて?」
「いやいや、奥さんって家の後継見つけて無事一丁上がりって感じなの?お前への慮りっていうか」
「それはあるよ。僕が自分の家が建ったのに嬉しそうじゃないのを感じて悩んでるみたい。僕も妻には幸せを感じて欲しいけどさ。自分と結婚したせいでこんな思いをさせて申し訳ないなって思ってはいる」
直英の本心だった。妻が幸せになってくれれば、この先幸せを感じてくれればと願い、妻側の意向を聞き入れた。ただ近頃は家庭の雰囲気も良くなく、幸せを感じる環境だとは到底言えない。真帆が笑っているところは久しく見ていない。あれだけ良く笑う子だったのに。
暫く黙って聞いていた下出は、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「文化や風習が違うと考えるならば。文化や風習が異なることが議論が平行線になってしまう原因であると考えるならば、その解決策は金銭以外になかったと思う。俺は文化も風習も関係ないと思うけどね。文化や風習の違いって、言い換えるとそれぞれ個人の根底にある思想や信条の違いだと思う。その思想や信条がそもそも全然違うから議論が平行線だったとすると、もう解決なんて無理じゃない?歩み寄れないんだから。別の島に暮らす二人は、どれだけ歩いて近寄っても一緒にはなれないんだよ。間にでっかい海があるからね。それを無理やりどちらか一方が合わせようとすると、勿論どちらか一方に負荷がかかる。天秤が釣り合わなくなる。だから天秤を釣り合わせるために、負荷がかかっていない方が金銭的な負担をするんだよ。これでやっと関係がイーブンになるだろ。金銭的なことまで意地の張り合いで受け取らない選択をお前サイドがしたとすると、奥さん側はじゃあそれ以外に何を施せばいいの?ってなると思うよ。今の話聞いてるとお前って『ギブは仕方なしにするけどテイクは絶対に受け取りません。その上腹の中では一人で処理できないような悶々とした怒りを滾らせ続けます』ってことでしょ?お前が我慢しているように見えて実は奥さん側に精神的な負担が偏ってるんじゃない?奥さんにとっても酷じゃない?今の状況って」
直英も応酬する。
「僕と僕の両親の苦しみを金銭で解決しようとすることが既に傲慢なんだと思うわ。当たり前に存在するはずだった幸せをウチの実家は奪われて、それを気にしながら一生を過ごさないといけなくなったことへの対価は果たしていくらなんだ?じゃあどうしたらいいのか、金銭以外に何を施せばいいのかを彼らは常に考え続けて常に僕と両親に気を使い続ける義務があるだろうとすら考えてしまってる。だからこそテイクされたくないというか、向こうからのテイクを受け取ってしまったら自分がギブしたものを自分の中で消化することを求められると思うし、そもそも消化できる自信がない」
「そうか……そうか」
下出は諦めたようにレモンサワーをぐびりと飲んだ。
「まあでも解決したいんでしょ?解決というかお前の中で踏ん切りをつけるというか。」
「そうだね」
「今回の話、お前は何に負けたんだと思う?」
「それがさあ、僕が負けたのは、日本の戸籍制度なのか、それぞれの地域に根付く文化や風習なのか、実家のパワーなのか、それとも自分自身なのか。何に負けたのかさっぱり分からないんだよね」
下出は間髪入れずに直英を真っ直ぐ見据えて言った。
「全てだよ。お前の思いつくもの全て。全てに敗北してるよ」
直英は目を丸くして下出を眺めた。
「だからさ、もういいじゃん。お前は負けたんだから。勝とうとするなよ。優位に立とうとするなよ。男の子産まれたんだろ?じゃあもういいじゃん。お前の役目は終わったんだから。お前に求められてる役割はもう終わったの。もう気楽に生きたらいいじゃん。何も小難しいこと考えずにさ」
*
下出と別れてから、直英は酔いを醒ますために少し遠回りして駅に向かった。
駅とは反対方向の、川沿いの並木道をゆっくりと歩く。水面に映る街灯の光の揺れ方で、川の流れが穏やかであることが分かる。人通りがまばらな川沿いを直英は歩き続けた。
自分を長い間苦しめる悩みを他人に話したのは初めてかもしれない。直英は火照った頭でぼんやりと考えた。
「俺は文化も風習も関係ないと思うけど」
下出はこう言っていた。
この問題に関係のない第三者の視点だとそう感じるのは理解できる。
地域に根付く文化や風習など端から存在しない。たまたま直英の実家と真帆の実家の考え方が大きく異なっていただけのことなのだ。たまたまその交渉の渦中に自分がいただけで、どうってことはない。譲ると決めたのならば、後腐れなく譲ればいいだけの話だ。それを自分の両親が不憫だ等とまともらしい理屈を捏ねて、結局は自分が気に食わないだけの話であり、自分の身を守ろうとしているだけなのだから、全くもって情けない話だ。
最初は、この話がいつか自分の中で糧になればいいなと考えていた。人を幸せにするために自分の大切なものを犠牲にする選択を自分はしたのだと。その選択こそが、残りの自分の人生を豊かにするものだと思っていた。しかしながら最近はその考えは薄れてきている。むしろ自分のした選択には目を背けたくなるような卑しい感情が金魚の糞のようについて回り、楽しく幸せなはずの真帆との生活を汚してしまっている。糧ではなく最早重荷だ。
両親への罪悪感は確かにある。当たり前に家を継いでくれると信じて疑わなかった長男が、突然婿に行ってしまったのだ。その決断をしてから、親と向き合うのがどうにも怖くなってしまい、まともに連絡も取っていない。恩返しどころか、その逆の行いをし続けている。
「お前の思いつくもの全てに敗北してるよ」
下出はこうも言った。
小難しく考えて、理屈をこねくり回して捻り出した「妻氏婚と義両親との同居がなんとなく嫌だ」と自分が考える理由となる要素全てに敗北していると言うのだ。もしこの件に勝ち負けがあるのなら、確かに自分は敗北しているのだと思う。そして敗者に求められるのは素直に負けを認め、足掻かないことのみだ。
職場では旧姓使用をしている。人事部からの書類がデスクに届くと、その書類に書かれた名字と仕事上の名字が異なることに気付いた噂好きの社員に「あら、婿養子なの?」などとニヤニヤ笑って聞かれたことがあった。
そして男の子が産まれたことを知ると「よかったねえ、もうお役御免だねえ。人生上がりだねえ。あとは奥さんに捨てられないように気を付けて暮らすだけだねえ」とわざわざ言いに来るのだ。この時直英は「はあ、そうですねえ。もういつ死んでも大丈夫です」などとお道化て答えたが、その後トイレに籠って怒りを鎮めるのに時間を要した。
自分の人生はこんなものなのか。自分を育ててくれた両親への恩は仇で返し、地元とは遠く離れたところにある他人の家の存続のために身も心も捧げ、種馬のように子孫を残し、その用が済んだら後は適当に人生を流すだけ。きっと真帆にこの話をしたら「そんなことはない」と否定するだろうが、事実がそうなのだ。今は第三者からの評価がそのまま真実になっていく会社というコミュニティで働いている。身も心も子種も妻の家に捧げ、用済みだからと捨てられないよう妻に必死でしがみついているだけの、いつ死んでも問題ない男。それが自分だ。狭いコミュニティの中においては、これが自分となっていく。
妻と子が幸せに生きていけることが何よりも優先だと今でも思っている。全てに敗北した自分は慎ましく妻と子が幸せを享受できるようサポートに徹するべきだ。それも一つの考え方だと思う。でも、自分にはそうは思えなかった。自分の幸せはどうなる。この交渉に負けた以上は、自分は何一つ求めてはいけないのか。自分は。自分は。自分は。自分は。自分は。
街灯に照らされた並木道が、一層暗くなるのを感じた。またあの黒々とした感情が湧き上がる。
早く自分の中で消化して次に進むべきなのに、結局数年間うだうだと悩み続けている。考えるべきは家族の幸せのはずなのに、いつまでも自分のことばかり考えてしまっている。何度考えても、家族が幸せを感じることができていない原因が自分にある気がしてならなかった。
「あ」
直英は、鞄をぽとりと落とした。それから数歩歩いて、そのまま道に倒れ込んだ。
一つの閃きが直英の頭の中を支配した。その閃きを振り払うために、直英は路上でじたばたと悶えた。
スーツが汚れるのも、通り過ぎる人に見られるのも気にせず、直英は目を固く瞑って歯を思い切り食いしばり、両の手と両の脚を激しく動かし続けた。その閃きが間違いであることを願って。
水面に落とした一滴の絵の具のように、その閃きはたちまち思考の中に広がっていき、直英の脳内を侵した。どれだけ体を激しく動かして、痙攣させて、悶えても、頭の中を侵され続けた直英は、どうにか思考を止めるために喉も張り裂けんばかりの大声を出した。このまま喉が潰れても、血を吐いても構わない。力の限りを尽くして叫び続けた。それはほとんど祈りに近いものだった。
数分の間路上で暴れ続けた直英は、ついには仰向けの状態で止まり、大の字になって夜空を見上げた。
右手に強い痛みを覚え、持ち上げて見ると、手の甲がアスファルトに擦れて肉が見えていた。血を見てしまうと痛みが余計に強くなり、手をぼとりと地面に落とした。
呼吸が乱れ、胸が激しく上下する中、直英は視界の隅に街灯の光を捉えた。
たちどころに、街灯の光が滲んでいった。
自分が舞台を降りないといけない。自分が去れば、自分がいなくなれば、事は丸く収まる。
直英は、涙が耳まで垂れるのも気にせず、大の字のまま、枯れた喉で再び大声で叫び続けていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
2023年11月11日
下出と話した帰りに直英がこの数年来の悩みを解決する方法に気付いてから、冗談のように家庭が上手く回っていた。
直英が感情に任せて怒り狂うことが減ったものだから、真帆も以前のように笑うことが増えた。そうしたことが増えると、直英は少しだけ心が暖かくなる感覚を覚えたが、その度に己を厳しく律した。自分の存在自体が愛する者達の幸福を阻害していることを忘れてはいけないと。
やるべきことは分かったのに、踏ん切りが付かなかった。それは「怖い」などというネガティブな感情が原因ではなく、きっかけが無かったのだ。どこで何をするかは決めていた。できるだけ筋の通る形で、説明のつく状況を作り出す機会になかなか恵まれなかった。
最後に直英に課された試練は、悟られることなく、あくまで自然に、仕方のない状況下において、惜しまれながら舞台を降りることだけだった。失敗するわけにはいかなかった。ここ数年間の大事な選択を失敗し続けた直英は、この試練だけは失敗せず実行することを胸に誓っていた。去り際だけは高貴でありたかった。尊くありたかった。
直英は焦っていた。どうにも機会がなく、このままでは時期を逸するとすら思っていた。時期を逸するということはこのままのうのうと生き永らえることを意味する。それは妻子の幸福を願う直英自身が許さなかった。自分の存在の消滅こそが我が家に平穏をもたらす唯一の手段であることに気付いて以来、それを信じて疑わなかったからだ。
直英が家族の昼食の準備をしている時、突然インターホンが鳴った。
「ごめん真帆、今火使ってるから出てもらってもいい?」
直英は野菜を炒めながら言った。
真帆が子供を抱いて玄関に向かうと、何やら話す声が聞こえてきた。荷物が届いた訳ではないらしい。
暫くして、真帆が戻ってきて「直君、お母さんがいらっしゃったよ」と言った。
「え?」
直英は素っ頓狂な声を出した。母が訪ねてくるとは聞いていなかった。
玄関に向かうと、母は一人で来ていた。
「どうしたの、急に。何かあった?」
「あんた、なんで全然連絡を寄越さないのよ。たまにはラインくらいしなさいよ」
「ごめん、ごめん。ちょっと余裕がなくて。ほんとになんで来たの?」
「全然連絡ないから元気かと思って寄っただけよ。ついでよ」
「ついでって。金沢からわざわざ来てついでってことはないでしょ」
「うるさいね、まったく。とりあえず、はいこれ」
直英の母は車のトランクから段ボールを二つ出した。
「これね、野菜と肉が入ってるわ。こっちがあんた達で、こっちがお義父さんお義母さんの方ね。渡しておいて。向こうに挨拶はせずに私はこのまますぐ帰るから」
「ああ、ありがとう。助かるよ。まさかと思うけど母さんはこの荷物を渡すだけのためにわざわざ来てくれたの?」
「やかましい。ついでだって。ついでの更についでにこれも持ってきたから受け取りなさい」
母が白色の封筒を差し出した。封を開けて中を見ると、戸籍謄本が入っていた。
「何これ」
「ウチと、おじいさんの戸籍謄本よ。後で落ち着いて見てみなさい。一人でね」
そうして直英の母は金沢に帰っていった。手元に残ったのは、大量の野菜と肉、そして戸籍謄本だけだった。
昼食を済ませた後、野菜と肉を義両親に分けた。それから真帆と子供には公園に遊びに行ってもらい、直英は書斎で母から受け取った戸籍謄本を封筒から出した。
直英の父が筆頭者となっている謄本には、母が記載されていた。それからその下に直英と、弟の祐貴が記載されていた。直英の欄には「除籍」と記載されていた。何の変哲もない戸籍謄本だ。自分が除籍となったことを教えてかったのだろうか。いや、婚姻によって別の戸籍が出来ただけで何も変な点はない。
封筒には、もう一つ戸籍謄本が入っていた。直英の祖父が筆頭者となっている謄本だ。この謄本を眺めていると、直英はすぐに母が伝えたかったことに気付いた。母は、ここを見ろと言っていたのだ。
直英の祖父は、婚姻と同時期に養子縁組をしていた。養親の姓は奥田だった。直英の祖父は、婚姻と同時に誰かと養子縁組し、そして祖父母は、祖父の元々の姓でもなく、祖母の元々の姓でもなく、養子縁組した誰かの姓を名乗っていた。祖父の元々の姓は野島だった。
直英は理解ができず、母に電話をした。
「見たね?あんた」
「見た。どういうことなの?あの謄本」
「おじいさんが勤めていた会社でね、跡取りがいなくて家が途絶えちゃいそうな人がいたんだって。誰も助けなかったんだけど、おじいさんが手を挙げたんだって。『俺は三男だから』って。それでその人と養子縁組することになって、それからおじいさんの名字は奥田になった。縁もゆかりもない奥田という名字を継ぐためにおじいさんは赤の他人と養子縁組したらしいよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
会社の同僚か、上司か。とにかく赤の他人の家の跡取りがいない相談をされたとしても、自分だったら「ああ、そうですか」で終わっていく話だ。
「嫁に来た私は名字なんてどうだっていいと思ってる。この話を知ったら尚更そう思う。でもお父さんは、おじいさんがどんな思いで養子に入ったか知ってるだろうから、あんたに奥田の名字を継いで欲しいのかもね」
「……」
母の語気が強くなる。
「でもね、あんた、聞きなさい。あんたが守ろうとした『奥田』の姓なんてそんなもんなのよ。先祖代々受け継がれてきたものでもないし、お父さんやあんたのルーツでもなんでもないのよ。おじいさんの代に何かの理由でパッと突然出た名字で、元を辿れば他人の名字なのよ。義理か何か知らないけど、『奥田』の姓なんて数十年前におじいさんが突然名乗り始めただけの、言ってしまえばただの『しるし』よ、あんた。あんたがウチの名字を守ろうとしてくれたのは嬉しいけど、あんなものは何の歴史もないただの『しるし』なの。私達にはルーツなんてものはないの。それよりももっと守らないといけないものがたくさんあるでしょ。もういいわ、名字なんて。しっかり考えて、真帆さんとしっかり話し合いなさい。あんたと、あんたの家族の幸せを一番に考えなさい。もういいわ、ウチのことは」
電話は一方的に切られた。
直英は、大きく息を吐きながら椅子の背もたれに身を預けた。母がわざわざ金沢から戸籍謄本を届けに来た意味を考えていた。奥田の姓を守っていくことは自分の大義名分の一つだった。しかしながら、母から渡された謄本を見る限りは、奥田の姓は父や、祖父や、もっと昔の先祖から脈々と受け継がれる自分自身のルーツとは到底言えないものだった。自分自身のルーツなるものは自分が生まれるよりもとうの昔に消滅してしまっていた。他人のものなのだ。自分は他人の姓を今まで必死で守ろうとしてきたのだった。そして何か分からないもの全てに敗北して、自分の姓は濱本というまた赤の他人の姓に変わったのだった。
直英は、いよいよ本当に自分が何者なのか分からなくなった。自分とは何かが分からなくなっていった。風に飛ばされてふわふわと空中を漂う落葉のように、自分自身が軽くてどこまでも流されていってしまう危うい存在であるかのような錯覚を覚えていた。
直英の祖父は、若かりし頃に自分を自分たらしめるものの一つである名字を捨てて、赤の他人の姓を名乗ることを決断した。それでも、直英にとって祖父は祖父だった。名字をはじめとする色々な符号に依存することなく、祖父は自分を自分として確立させていったのである。今の直英に、それが出来るとは到底思えなかった。
*
机に置いてあったiPhoneが振動した。誰かからDMを受信したらしい。
手に取ってロックを解除すると、DMの発信者が下出であることが分かった。
「奥田、この間はありがとう。久しぶりに飲んで楽しかったな。名字とか義両親との同居のことだけどさ、あの時はうまいこと相談に乗れなかったかもしれないけど、あれから俺なりに考えてみた。俺は失ってない側だから響かないと思うし、その立場から好き勝手言われても気を悪くするだけだと思うけどさ」
「結局婿入りってただ戸籍上の話なだけで、実親との血の関係とか今まで育ってきた歴史とかは何一つとして変わらないわけで、それって別に都会とか田舎とか地域の土地柄とかなにも関係ないよ。婿入りが自分の中の苦しみとか、戸籍上の関係一つが家全体の幸福に繋がるとか、相手側に対して『奥田家側に配慮する義務がある』とか『傲慢だ』とかって正直ちょっと大袈裟な気がするわ。まあ色々積もりに積もって増幅しているんだろうけど」
「だから自分たちの家が建ったことに関してはめっちゃ素晴らしいことじゃん。真帆さんと二人で相談して全部決めたものが建って完成したんだし。義両親と同居だったとしても普通に出来事として喜ばしい内容じゃない?家が建つって。家が建ったっていうのに奥田に不機嫌になられたら確かに真帆さんは可哀想だ、かなり。」
「このままだと、例えば奥田の弟さんが結婚して男の子が産まれて順調に奥田家の跡取り確保できました!って状況になったら、それを傍目にずっと見てた奥田が『本来は僕がそういう存在であるはずだったのに…』って謎の被害妄想持ちそうな気がする。そんな被害妄想があると実家にも義実家にも居場所無くなっていくよ。逆に弟さんが結婚しなかったり子どもが女の子だけだったらもしかしたら濱本家として協力できることがあるかもよ。そうなったら奥田も『ちょっとは役目を果たせたな』って感じることができることない?」
「取り留めのない感じになっちゃって悪いけど、結局言いたいのは、義両親と同居することに気を取られてても時間の無駄だし、長い目で見たら結局戸籍がどうのこうのは言われないと気付かないレベルだし、気にしてても意味がないから、新築の綺麗な家での新生活を家族全員で楽しんでほしいってこと。血のことでこだわっていいのは日本中で天皇だけ。それ以外のその他大勢の人間にとっては血も家も戸籍もどうだっていいのさ」
複数に分かれて送られてきたDMを、直英は何度も繰り返し見た。
下出の発するメッセージを一文字も取りこぼさないよう、必死で何度も画面をスクロールした。目と脳に焼き付けようとした。手の震えが止まらず、額に汗が滲み始めた。二人で飲んだ日から時間をかけて考えてくれたと思われるDMを穴が開くほど見た。これが一般的な感覚だ。狂っているのは僕だけだ。世間の常識から外れているのは僕だけだ。僕に向けられた、僕の幸せを願う男からの、優しいDMをどうしてもこの目に焼き付けなければならなかった。iPhoneの画面が滲む。滲む度に、袖で目を拭って必死で画面を見続けた。さあ、覚えろ。一字一句誤りなく覚えろ。直英は、自分自身の目と脳に命令をした。これで最後になるからだ。親友から来た、この慈愛に満ちたDMを頭にしっかりと焼き付けて、すぐに行かなければならない。さあ、行こう。行かないと。行かなくては。
「下出、本当にありがとう。一般的には下出の言う通りだと思う。妻の親も、それから僕の親も下出と同じことを思っていると思う」
直英はやっとのことで下出に返信をした。最後に「僕だけが狂っているんだと思う」と入力して、それは送信せずにそのまま消した。
直英は勢いをつけて椅子から立ち上がり、拭っても拭っても溢れる涙のせいで最早ほとんど画面を見ることができていなかったiPhoneを机に置いた。そして直英は引き出しの中からドライバーを取り出し、力の限りを尽くしてiPhoneに向けて直角に叩きつけた。ドライバーは画面を突き抜けて机に刺さり、iPhoneと机を固定するような形となった。しばらく立ったままドライバーの刺さったiPhoneを眺めた直英は、ふらふらと力なく書斎を後にした。
玄関で車の鍵だけを手にした直英は、それ以外に何も持たずに車に乗り込んだ。
駐車場から車を出す時、ちょうど真帆達が公園から帰って来ていた。
「あら、直君、どこかに行くの?」
「ごめん、さっき母さんが財布忘れて帰っちゃってさ。今から届けに行ってくる」
「ああそう。……もしかして金沢まで?」
「いや、連絡は取ってるから、うまいこと調整できたら途中で渡せるかも。とりあえず行くね。それから、遅くなるだろうから夜ご飯はお義父さんお義母さんと食べてね」
直英は笑顔で手を振ってパワーウインドウを閉めた。真帆達は直英に手を振って歩いて行った。
直英はアクセルを踏み込もうとして、窓越しに真帆達の後ろ姿を見た。彼女達は幸せになる権利がある。幸福でなければならない。この先何があろうとも、真帆と、息子と、二人を取り巻く周囲の人間全てが淡く優しい光に包まれ、幸せを感じながら生きていくはずだ。何かの間違いで僕と出会ってしまったばかりに少しだけ悩ませてしまったが、そんなこともすぐに忘れて幸せを享受していって欲しい。誰が何と言おうと、彼女達のこの先の人生は幸福で、豊かで、穏やかであるに違いない。直英は強く祈って彼女達から目線を切り、前を向いてアクセルを踏み込んだ。
*
一宮JCTに差し掛かり、東海北陸自動車道を北上していくため、分岐を左に曲がる。この先は岐阜県を縦断し、富山県を経由して金沢に繋がる。
東海北陸自動車道の山岳区間には、橋脚の高さが100mを超える高い橋がある。事前に調べておいたから、橋の防護柵が工事中であることは知っていた。NEXCO中日本のプレスリリースを見ると、劣化による更新のため、古い防護柵を撤去して新しいものを設置する工事であると書いてあった。参考資料として、工事概要の写真が掲載されていた。防護柵は人の腰程度の高さしかない。工事は途中まで進んでいるらしく、施工済みの箇所と未施工の箇所との間には鉄パイプで養生してあるだけの切れ目があるように見受けられる。
一時間半もあれば目的地に着く。僕に残された時間はそれだけしかない。何度も走った慣れた道なのに、これで最後かと思うと何故だか緊張してしまい、ハンドルを持つ手が汗ばむ感覚を覚えた。
遅かれ早かれこうなっていたのかもしれない。たまたま結婚を機に妻氏婚と義両親との同居の話が出てきたことで自分自身の無意識やアイデンティティや過去の人生、つまり今まで繰り返してきた「なんとなくしてきた選択達」の正体を考えることができ、結果こうなっている。
もし今回このような自己分析をしなくて済んだとしても、きっと人生の中でいつかは自分を見つめ直す時が来て、そして数年間悩んだ結果、きっと僕は大切な人達から去るという選択をするだろう。
僕はいつだって大切な人達を一番に考える人間でありたかった。それが僕の取り柄だと思っていた。今まで無意識的にその信条を基に色々な選択をしてきたと最初に勘違いした時、僕はとても喜んだ。ああ、僕は間違っていなかったのだと。
でも、自己分析を深めた結果、それは自分に都合の良い解釈をしただけで、結局は自分本位で自分が気持ちよくなりたいだけで、僕の人生は自己の保身を第一に考えた選択や行動の積み重ねに過ぎなかったことに気付いた時、その分落差は大きかった。
僕のような人間が存在していて良いのかをここ最近は本気で考えていた。熟慮の結果舞台を降りる選択をした僕自身を、今は褒めてあげたいと思っている。本当に優しい人間は、何も言わずに去っていくものだと今でも僕は信じている。そして真帆は、僕の選択を尊重してくれるに違いないと信じている。少しは落ち込むかもしれない。でも、強くて聡明な女性だから、きっとすぐに立ち直って家族で幸せに暮らしていってくれるのだろうと思う。そしてほんのたまに僕のことを思い出して、「馬鹿な男だった」とか「でも優しい人だった」とか、それくらいでいい。幸せに暮らす彼女達の心の片隅に、僕が少しだけ存在していればいいと、今ではそう思えている。
目の前に出来上がったあの巨大な壁に悩まされた数年の間、僕は視界を遮る壁を壊して、何のしがらみもない、広くて青い空が見たいと強く望んでいた。
フロントガラス越しに空を見た。今僕の目の前に広がる空は、遥か彼方まで続いていることが分かる。空は、どこまで遠くにいっても同じ空だ。
あの時、妻氏婚を決めて自分のアイデンティティを失ってしまった時。あの時も今と同じように空を見ていた。
何者でもなくなってしまった僕にとって、世界中の誰がどこで見ても「空」であり続けるこの空は、いつしか羨望の対象に変わっていった。地域の風習にも、文化にも、世間体にも、戸籍制度にも、親への配慮にも、妻への配慮にも、自己の保身にも、何にも囚われることのない、何にも影響を受けることのない、本当の意味での、完全な自分。自分自身が、今までの人生でどうしても得ることが出来なかったもの。空は、それを体現していた。
道路標識が郡上八幡ICを示している。あと三十分くらいだ。ハンドルを握る指に力を入れすぎて、両手の指が白くなっていることに気付いた。
自分で決めたことなのに、情けないことに恐怖の念がある。これから起こることを考えると、どうにも恐ろしくなってきて、車を停めるのも間に合わず嘔吐してしまった。吐瀉物は、服やダッシュボードを汚した。ハンドルを持つ手がどうにも気持ち悪くて、ウェットティッシュで拭おうとして僕は自嘲した。もう身綺麗にする必要はないのに。この期に及んでまだ生きようとしている自分がひどく卑しく思えた。僕は、体を汚した吐瀉物をそのままにすることにした。
アクセルを踏み込む。スピードメーターは160km/hを示していた。画像で見たあの工事箇所の鉄パイプは、どれくらいの速度が出ていれば破壊できるだろうか。
下出に僕自身のことを相談した頃、あの頃は考えが煮詰まっていて苦しかった。家庭の平穏を取り戻して妻子を守るべきだという考えと、なんとかして確固たる自分を確立すべきだという考えが拮抗していた。
でも、奴に相談して良かった。ずっと歯車が嚙み合わないまま長らく続けてきた自己分析が、カチリとはまった音が聞こえた。妻子の幸福を守りながら、自分が何者かになる方法。それは死だった。死をもって偶像になることだった。別居や離婚はする意味がなかった。自殺も無意味だ。それでは偶像になれないからだ。あくまで自然に、不可抗力によって、仕方のない状況で、夫であり父である僕の命が奪われる必要があった。不幸にも事故によって彼女達の目の前から突然去ること。家庭の平穏を得るためにはこれ以外の選択肢がなかった。
もう一度視線を上げて空を見る。今日の空は、高く澄み渡っている綺麗な秋空だ。この空を真帆は見ているだろうか。今日僕は空になる。あれほど望み、憧れた空に僕はなることができる。何の符号にも依存しない、誰が見ても不変の、何の影響も受けない、確固たる存在として今日をもって固定される。どうか、どうか幸せに暮らしていってほしい。最期の瞬間まで僕はそれを強く願い続けることに決めている。
早いもので、もうすぐ目的地の橋に差し掛かる。いよいよだ。怖くて、孤独で、情けない線の細い声が漏れる。吐瀉物で濡れた手が気持ち悪い。滲んだ視界の先に工事看板を確認した。右車線に入るよう矢印の案内看板もある。グレーの養生シートが遠くに見える。恐らくあそこが鉄パイプで養生してあるだけの工事箇所の切れ目だ。
自分がいなくなることで、家庭に平穏が訪れることを願っている。どうか、幸せに暮らしていってほしい。僕は少し遠くから家族の幸せを願って見守っている。僕は真帆や息子や両親や、自分に関わる人全てを愛している。だから、どうか許して欲しい。愛しているからこそ去るしかなかったのだ。
最後に。直英はもう一度空を見上げた。やっとこれで何も考えずに済むようになる。大きく息を吐いた。これで楽になれる。この青い、青い空に僕はようやくなることができる。無限に広くて、一人の人間の悩みなどどうでも良くなってしまう程巨大な空。この美しく誇り高い空にようやくなることができる。
歯を食いしばりすぎたのか、激しい頭痛がする。シートベルトを外す。吐瀉物で汚れたハンドルを強く握り直し、少しだけ左に傾けた。アクセルを思い切り踏み込む。車体が轟音を立て、ガタガタと激しく振動する。あと少し。あと少しハンドルを左へ。恐ろしい勢いで工事箇所にあるグレーの養生シートが近付いてくる。呼吸が浅くなる。息を吐く度にヒューヒューと変わった音がする。鉄パイプの向こうに青い空が見える。あと少しこのままで。このまま、このままハンドルを左へ。左へ。
おしまい
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?