ぬるい眠りをなぞって眠って、眠りたいだけ眠ってみせてよ②
「明日、髪を切りにいこうかな」
思いつきで言うと、柊平さんの口角が上がり「どこで?」と聞いた。柊平さんはさっきから台所でガサゴソとうるさく、戸棚の奥から引っ張り出してきた紅茶を淹れていた。近所のスーパーマーケットに売っている安い日東紅茶のアールグレイで、私の分はわざわざミルクティーにしてくれているようで、仰々しくミルクパンで温めた牛乳を入れている。
私は決まった美容院に通うのが苦手で、何回か行くとすぐにまた丁度よい別のところを見つけて通い直すのを続けている。よく学校でも職場でもある一定の周期で折りをみて、環境を変えるためだけにありとあらゆる周囲の人間と縁を切る人種がいる。それも徹底的に。私はそこまではいかないにしても、年単位で通えばかなりプライベートなことまで切り売りしながら話題を提供しなくてはいけない美容院付き合いが億劫で、ある時たまらなく面倒くさくなってこの方式になった。
「わかんない。次は自由が丘らへんかな」
「決まったらまた教えて、明日休みだから」
柊平さんも柊平さんでかなりおかしく、私の習性に付き合ってくれていた。自分の都合がつく限り、必ず私の美容院の送り迎えをした。髪を切る前と後で感じる新鮮さを最大限楽しみたいからだそうだが、髪を切っている最中だって柊平さんは向かいのビルのカフェでコーヒーを飲みながらだったり、家具屋で熱心にベッドや食器棚を品定めしながらだったり、時にはコインランドリーで手持ち無沙汰に回転する乾燥機を眺めたりしながら、私のいる美容院の店内を覗き込んだ。どこの美容院に行ってもそうやって待っている。美容院も美容院で、洒落ている空間を外に見せつけたいのか大抵道路に面してガラス張りになっていて、奇しくも私はいつも窓際の席に案内される。「切られてる途中も見えてたんだから、そんなにわざとらしく褒めたり驚いたりしなくていいよ」と決まって私が帰り道に言うと、それでもその後「いい色だね」とか「前髪作ったら幼くなってかわいいね」とか全然関係ない話の最後に脈絡なく今日の髪の話を入れ込んできて、私も根負けして「そんなにいいかなあ?」と気をよくしてしまう。これがお決まりのパターン。
ミルクを入れすぎた白すぎるミルクティーを私はベッドの上にぺたんとすわって、ふうふうと息を吹きながら飲んだ。友達からシュガーホリックと揶揄されるくらい、私は紅茶にお砂糖を入れるタイプの人間だ。柊平さんは読みかけの本を開き、ベッドに寄りかかって床に座っている。思ったほど熱くないなと思った瞬間、私は床に下り、柊平さんの唇をふさぐと不透明で白茶色の死ぬほど甘い液体をすべりこませた。明日の美容院が楽しみで仕方がなかった。
次の日、梅雨のさなか、私たちは電車に乗り込み、東横線で中目黒を通過する頃に柊平さんの電話が鳴り、電車内にもかかわらず出た。うん、うんと最低限の相槌と最後にわかったと一言小さく呟き電話は終わった。自由が丘の改札を抜けた時、「さっきの電話なんだったの?」と聞くと「来週、嫁が帰ってくるって」というのを聞いた。私は黙って聞いて、そのまま黙って歩いて、黙って美容院に入った。
美容院は2階で思った通り入居しているビルはガラス張りだった。そして対面にもしっかり同じく2階がテラスになっている喫茶店があった。私は通りから見えるような一番端の外側の席に案内され、ガラスに背を向けられた椅子に座った。今日担当する美容師とどんなふうにしたいかを打ち合わせた後、鏡に映った外の景色を見ると、思った通り喫茶店ではもう柊平さんが席についてメニューを開きかけている。鏡ごしでも彼の動きはしっかりと見えた。
「ねえ、でて行かないでくれって言って」私は柊平さんにLINEを送った。こっちから柊平さんの動きは丸見えだった。通知に気付き、携帯を見たようだった。右手には携帯、左手にはお店のメニューを持ち動きは止まっていた。私はもう一通「でて行かないでって言って」とくりかえし送った。柊平さんは滑稽にメニューを開いたまま、困ったように私のいるお店の方向をじっと見つめるだけだった。
それを確認してすぐ、私と同じ歳くらいの美容師の割に黒髪で短髪のアシスタントの男の子にシャワー台へと案内された。ブランケットを掛けられ、シートの上下と前後を調節された後、タオルで顔を隠される。
「シャンプーの香りですが、ローズ、シトラス、ラベンダー、どちらがお好みでしょうか」
「ラベンダーでお願いします」
耳元でシャワーヘッドから噴き出すお湯の音と、ごおごおと流れる排水溝の音が反響する。美容院の洗髪はシャワーが当たっている時は温かいが、止まると急に冷たく、濡れた感じだけが残るのが苦手だ。一方でいつも美容院で髪を洗う時、頭と髪だけ濡らして他の全身乾いたままってほぼほぼ奇跡だよなと思う。でも流石に今日はそんなくだらない、ごく瑣末なことすら頭に浮かばなかった。ただただ感覚の麻痺した頭皮にアシスタントの変に通りの悪い指だけが後を引いて残った。泡の弾ける音をしばらく聞いた後、顔に掛かるタオルを取ってアシスタントを見た。
「あの、おいくつですか?」
「僕ですか? 今年で21です」
「同い年か。ねえ、いつでもいいから席に戻った時にキスしてくれない? ほっぺでもどこでもいいからなるべくこっそり、だけど外に見えるように」
「え? からかってますか?」
「多分私、一回限りしかここ、来ないと思うから。問題ないと思うけど」
「問題? いや、ありますって」
「わかったそうだよね。わかった、じゃあ店を出た後、私が外で待ってもらってる彼氏と帰ると思うんだけど、それをちゃんとお店の中から見てて。それだけでいいから」
「はは、とりあえず髪、洗っちゃいますね」
そうだ、私はシートに仰向けになってぼけっとされるがまま無防備に髪を洗われていたんだった。
シャワー台から席に戻る時、ぎくしゃくしながら私がなんでアシスタントの子にそんなことを言ってしまったのかを考えた。美容院で仕事しているくせに汚れやすい白シャツだったり、背が高くて窮屈そうに腰を折って私にケープをかけてくれたり、そんな彼の細部の雰囲気に気を取られたからではなかった。もちろん、柊平さんをひどく傷つけたいからでもない。私と柊平さんは今日以降、他人から世の中によくいる仲睦まじいカップルだと認識されることは、もう多分なくなる。そういう振る舞いも態度も、それ以前に大前提として二人きりの行動ももうしないし、しようと思ってもできなくなる。ただそうなる前に、私たちの半年間の、最後の証人として誰かに認識してもらいたかったのだ。変なカップルだと思われてもいいから、誰かの記憶に留められたかった。叶わなかったが、もしこの男の子がキスをしてくれていたらそれはそれはもう大喧嘩となり、大層派手に他人の記憶に残れたのかもしれない。自分の女が見知らぬ他人にキスされて怒るのも仲睦まじい、愛の証しだ。
いずれにしても、それだけのことだった。それだけのことだったのに、誰かに覚えておいてもらう手段が妙に私らしくて、多分こういう私の突拍子もなく変で高慢ちきなところが柊平さんも好きだったんだろうなと、自惚れながらも自然と思えた。
(続)
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