生と死の都市空間「鶴橋」
鶴橋は大阪市の、焼き肉で有名なまちです。いっとき近鉄線でよく難波に通ったものですが、近鉄奈良線を降りると、そこは別世界が広がっています。
すごく狭い路地に焼き肉屋や、服屋や生鮮市場まで、どれも個人店がひしめきあっています。確かに電車を降りて改札を通ってまちにでたはずなのに、建物の中にいるのか、外にいるのかだんだんわからなくなってしまうほど、まちとの距離が近い空間です。看板はまちに飛び出し、こっちでは窓が開放されて焼き肉のいい匂いがただよってくるのに、反対側では魚を売っているような、そんなごちゃごちゃ感がとても魅力的に感じるまちです。
東京では、歌舞伎町のゴールデン街が有名ですが、こちらはもっと路地が狭いように思ってしまいます。
これと似た空間性を持つ(意図的に持たされた)場所が、ショッピングモールやグルメ街です。でも、空間への魅力は無いですね。何が違うのでしょうか。
鶴橋やゴールデン街が、ショッピングモールやグルメ街と違うと感じるのは、決して建築家や都市計画家が絵図を描いて計画をしていないことでしょう。法律による秩序や計画家の意図は皆無で、各個人店が無秩序的に建物を目立たせて競い合う、生業としてのリアルさが漂っています。
無秩序が故に、店舗のデザインや建物が建ったであろう時系列がてんでバラバラなので、グルメ街とは圧倒的に視覚情報が多い。加えて路地はとんでもなく狭く、建物の密集度は住宅地とは比にならないほど高いため、情報過多を冗長しています。
なによりも、なりわいを成立させるという生きるための意思というか、生への執着が感じられ、まちがとても生き生きとしているからこそ、魅力的な都市空間だと感じるのです。それは人にとって暗黙知で、「なんとなく」魅力を感じるから誘われてしまう、という構図なのかなと。
稼業を営む人たちの居住スペースへ通ずるバックヤードは、閑散としています。店舗や人がひしめき合い活気づいた路地空間とは対照的に、死んでいるように、まちにぽっかりとあいた空虚な空間です。そんな生と死の対比のような空間のコントラストが、もっとまちを歩きたい誘惑にかられます。
鶴橋には、透明感や清潔感や美しさはカケラもありません。今の世の中に求められることとは真逆の世界観をもつ都市空間。アジア的な魅力といったらつきなみですが、そんな生きるためのリアルさが魅力となった空間には、残念ですが建築家や都市計画家は求められていません。
では、鶴橋は未来永劫に魅力をもつまちであり続けるか、という問いに対しては「NO」と言います。耐用年数を大きく過ぎた建築は、壊され、いつかはまちが刷新されて、(デザインの良しあしは別として)清潔できれいなまちにとって代わるでしょう。それが今の行政です。
僕も含めて計画家に何ができるかを考えると、建築のみならず政治も含めて考えることになるため、壮大なテーマになってしまいますが、ひとまず、計画家にとって、今、刹那的に現われているこのリアルな都市空間に触れておくことは大切なことだと感じています。