論37.答えないという答え~実感と科学について

○日本の風土と日本語

厳しい自然を克服していった西欧では、人が人も自然も支配します。人と争って人を殺し生き延びていったのです。宗教と正義の名による殺戮と紛争のなかでは、「私」に優先する「公」が権力を得ていきます。そして、リーダーが生まれます。孤=個として考え、明確な意思をもち、論理的で、強い語調で周りを説得できることが、リーダーの条件です。
一方、日本では、山川草木国土悉皆成仏、諸行無常、天災は予測不能、変化が当たり前です。川が氾濫すると、家も田畑も流され、残りません。石の家のように不変に残り、そこに歴史が積み重なっていくことはありません。
それらは、天、自然を、人が変えるかどうかの違いとなります。伝統や慣例、権利と責任、公と私との考え方が異なってくるのは当然でしょう。労働(labor、labour)は、欧米では、奴隷の仕事、日本では勤労です。
日本語は、人称の多さからもわかるように、人との関係を重んじて使われることばです。小集落での生活で使われて育まれてきたのです。一人称といった、我を主張して戦うための言語ではありません。和を大切にする違いといえます。そこに私は、日本語のおとなしさを感じます。「察する」文化が日本人にはしみついているのです。

○流されていく日本

日本人は、非常時の想定をあまりしません。長期の目的を定め、そのために的確に行動するのは苦手なようです。作戦通りにいかなければ終わり、自分の帰属する集団を失うと無力化します。それだけ周りに感化されやすいのです。個人の功績と責任という考えが、あまりにもないのです。そこで、いざというときには、不安になり、落ち込むのです。本番や人前で緊張しやすく弱いのです。
他の多くの国が長期的で変わらないのに対し、日本人は、暫定的で臨機応変に変わるといえましょう。
国の決定権を持つリーダーを、アメリカは18番目まで決めているそうです。日本は5番目までとか、しかも、日本では同じところにVIPが揃ったりするので、もし、一度にやられたらどうしようもないのです。
いつまでもリスクマネジメントという考えがなじまないのです。いつも、やられてから立ち上がってきたのです。それが、世界から賞賛されたこと、大地震後に暴動もなく秩序を保てたことの正体です。それならば、やられてからの立ち上がりに備えることに専念した方がよいのでは、と考えてしまいます。憲法9条など、「攻められたら殺されることをよし」とするようなことを受け入れてきたわけです。

○管理社会日本

多くの人が、リスクを避けることは正しいと思うので、リスクの少ない側につくことになります。皆が孤として考えるのでなく、同調することを優先するので一つにまとまってしまいます。
となると、そこに属さない人を犯人とする犯人仕立てが始まるのです。誰かに罪を着せて告げ口、密告しないと、自分が犯人にされてしまうからです。まさにいじめの構図です。
そうして私たちは歴史をつくってきました。権力闘争も同じような構図です。放っておくと、権力の管理ができずに権力に管理される社会になっていくのです。
特に、日本では、同調圧力が強く、協調性が高いので一色になりやすいということです。リスクをとって孤=個を主張することは難しい社会なのです。

○おもてなしとハラスメントと格差

忖度とは、無意識のうちに受け入れて行動してしまうこと、言い方を変えたら、「おもてなし」ということでしょう。
 「横のつながり」「共有」「ただ」のネット社会は、よい方から見れば「おもてなし」「おすそ分け」といった、善意のネットワークです。それが押し付けになり、人をだましたり傷つけるところの間にボーダーはありません。同じことをしても、そこからは受け取る人の感情によるからです。そして、感情は状況に応じて容易く変わってしまうのです。ハラスメントの問題の難しさもそこにあります。
 ネット社会もまた、自由、平等でなく、ブランドランキングといった評価がものを言います。それこそが格差の元です。これまでより楽をして稼ぐ人がたくさん出てきました。しかし、そういう人たちが出るということは、残りの大半の人はその逆になるのです。そこでは配分の問題が解決されず、格差が広がるということです。

〇自由の扱い方とネット社会

自由は、何よりも大切です。そういう信念で生きている人もいます。しかし、自分が獲得したのではなく、予め与えられた自由は、扱い方がわかりにくいものです。子供が、大金、おもちゃ、ゲームなどと自由時間を好きなだけ与えられたようなものです。そのために、とんでもないことをしてしまうのは、よくあることです。
ネット社会では、それが多くみられます。たいしたチェックもなく公に打ち出せるからです。無記名のツッコミ、批判は、責任を伴わないように思えて楽ですから、匿名の一億総評論家の状況下では、ひどくなるのは当たり前です。
ネットは、リアルでうまくいかない人、うまくいかないときの捌け口としても安易に使われます。横暴なことのようでも、人にはそういう面があるのです。
人と直接つながる、会うのは、エネルギーもいるし疲れるものです。しかし、それゆえに、セーブされて潜んでいたことが大半であり、プロセスでの吟味もできたのです。
ネットでは、そのプロセスを経ないで、つまり、時間をかけないでストレートにリアルなところに出ます。それが多くの人を動かしてしまうと、場合によっては、恐ろしいことになるでしょう。
人をコントロールすると、その人の力を弱めてしまいます。知恵と力をつけ、お互いに成熟していくようにしていかないと、よいものは生まれません。

○対話やことばにならない理由

何かを打ち立てていくのに、具体的事実と現実的可能性が必要です。それらのないところで、語りあっても無意味です。それでは対話ではない、対話にならないからです。
しっかりと定義した概念で、それが含むもの、含まないものをはっきりとさせ、その関係や位置をはっきりさせないと何事も論じられません。
ところが、日本人の間では、こうした前提の確定や結論への探究よりも感情の表出として、ことばが使われます。そういうところでは、ことばにとっても論理や表現は、あまり必要ないといえます。むしろ、声のニュアンスや感じ方の方がものを言います。

○交渉できない理由

和は、譲りあうこと、つまり「交互に譲りましょう」となるのです。さらに進んで察すると、相手が言いそうなことの言いなりになるのが、忖度です。
それに対して、「前回譲ったから今回も譲れるだろうから譲れ」というのが、力の論理です。他の多くの国の考え方です。
コミュニケーションとは、異なる価値観の相手との対話であり、話し合いや会話ではないのです。和をもって交渉することは、和を交渉と考えない相手には、とるべきスタンスではないのです。国際社会では、通用しないのです。

○発信する

「夢をかなえる」「何者かになる」「自分の世界をつくる」
手段を手にしても、発信するものがないと、いずれ行き詰ります。何を問うているのか自らわからないからです。
そういうときはボーダーレスになることです。たとえば、身近な問題に関心をもつことです。
リスクのある側に立ってこそ、発信する内容は明らかになってきます。そこからアーティストやスターは生まれていくのでしょう。自分の意志に反する体制や制限は、人を自由に目覚めさせ創造的にします。

○対話すること

自分の発言のなかの矛盾を認めないで、すぐに異なることを言う人を時折みかけます。
すると、真偽を抜いて、つじつまを合わせることに専念せざるをえなくなります。そのうち、筋が通らなくなると、訂正も謝罪もなく前言をなかったことにしてしまう、そういうパターンに陥ります。
すぐれた人と会うことなく自分一人でやってきたか、自分がコントロールできる相手とのやり取りだけで歩んできた人によく見られることです。自分のルールを押し付けておきながら、そのルールを勝手に変えても何とも思わない人です。
これでは対話できません。対話は、本音を知るためにします。本音を知る必要もないし、知りたくもないと皆思ってしまうからです。つまり、先に可能性がないと判断してしまうのです。

○語感

I can’t help but~、せずにいられない、これは、歌で覚えたフレーズの一つです。私は助けられないけど…よりは、抑えられないとなってnot~but=onlyとなります。butには、最後から一つめ(but one)などという使い方もあって、すべてでない=一つだけ、それだけ…と。
―したい、と根本的に違うのは、怒りや抵抗を含む、思わず言ったり書いたりしたとき、嬉しさや喜びでもそういうことはあると思いますが、記憶に残るのは苦しい方でしょう。怒りや悲しみが引き金となった、いわゆる負の感情の吐露なのです。
こうして、外国語から外国人という存在に近づいていくのは一つのアプローチ法です。学び方を深めると、違いを感じながらも、同じ感覚と思えることが増えてきます。
中学生の私にとって外国人はストレンジャーでした。しかも、ほぼ全てアメリカ人のイメージで、日本人より何かかっこよい、という時代だったのです。

○感想と意見

感想というのは、主観的なものです。そこで、自ずと同調を求めることになります。となると、周りを気にすることになり、逆に自分の感情を押し込めてしまうことになりがちです。
自分で考えたことは、意見として出すとよいでしょう。感想よりは客観性をもつといえるからです。ですから、感想で終えずに次に意見を加えるとよいというわけです。
そこでは、具体的な物事を、もう一つ抽象的に捉えることが大切となります。ことばは曖昧で、厳密には定義し切れないのですが、そのことを知っておくことです。
ことばによって、画一的なイメージを自分で決めつけて、他の見方ができなくなることを恐れましょう。考えないことで、思考が停止してしまうのです。

○実感と科学 

感想の元になる実感というのは、非科学的なものです。感じるかどうかは信じるかどうかに置き換えてみてもよいと思います。
「自分の実感で判断したい」という人に限って、ことばでの説明や理由を求めてきます。直感で言ったことの理由を説明して欲しいというような人が少なくないのです。「直感」とか「そう思った」ということに、「なぜ」と聞かれるのは困ったことです。

○トレーニングと科学の実証

科学は、実証を第一とします。これは他の人が再現できるということです。自分の眼でみたものが怪しくても、他の人が皆、追認できたら確からしくなります。
観察と実験が、実証の手順といえましょう。自分だけで実験して確かめたとか、本に書いてあったから正しいとはなりません。となると、絶対にこうだ、というケースは、かなり少なくなります。突き詰めると確からしくなくなるのがほとんどでしょう。
そこに他の人に問う意味が出てくるのです。他の人が見て認めるだけでは充分ではありません。他の人が同じように再現できなくてはいけないのです。
実証には、誰もがその手順を踏めば再現できることが求められるのです。
科学法則は、仮説、反例が一つで成立しなくなります。ですから、崩れるのも一瞬です。

〇社会モデル

社会では、人が加わるので、「人が完全である」というモデルがない以上、科学は、純粋には成り立たちません。そこでは、どれだけ役立っているか、役立ったのかでみるしかありません。
「多くの人に効果があった」「こういうタイプにうまくいった」などは、経験による実感です。
これでデータをとっても科学的ではなく、ビッグデータとしての確からしさにすぎません。いわば、選挙の出口調査のようなものです。大勢に一般的には有効といえますが、一個人にどうなのかは、全くもって未知だということです。
 
○心と科学

否定的にみる人や疑いの強い人の前では、多くのデータで科学的に認定されたようなものも効力を失うことがあります。薬なども、効用は、信用、信頼、信心によるところは、大です。一個人になると、必ずしも通用しないわけです。となると、何をもって客観的データといえるのかです。
 科学は、どこでも、いつでも、誰でも、という条件を伴います。普遍性を維持する仕組みなのです。となると、それは、厳密に一定の条件下、制限下で、となります。
 つまり、条件が一致していると同じ事が起きるということです。それで予測ができ、再現が約束されるということです。この条件が一致という前提が、多くはないがしろにされています。

〇人は、ある条件下におけない

これは、人を対象としたものに当てはまりにくいのです。同一条件下に使われるということが完全にはありえないからです。その条件の幅をどうとるのかによります。つまり、科学的とは、「ある条件下」の「ある」を定められてこそ言えるのです。
ですから、医学などにおいては、科学的といっても、人によって心身が違うので、かなり限定されるはずです。まして、ヴォイトレにおいては言うまでもありません。ヴォイトレを科学的に行うとなると、相手をある条件下に制限して、あるモデルのように規格化することが前提となります。つまり、ロボット化のようなものですから、私は好みません。しかし、実際は、よく行われていることです。科学的という人ほど、それと真逆のことをしているのです。

○科学と思い込み

 人が神への信仰から科学的な思考で自由になったのは、確かなことでしょう。そして、中立的態度、公平な立場になれたのです。今となれば、神の名の元、正義を振りかざしてアンフェアなことが多くなされてきたのも事実です。
思い込みは、科学的ではありません。しかし、科学ほど思い込み、決めつけを強いるものはないともいえます。科学には、何事もシンプルに言語化、記号や数値化する働きがあるからです。
「科学的に…」と言われたら、誰もが納得しやすくなるからです。しかし、その厳密であるべき条件や制限の範囲については、いとも容易にスルーしているのです。

〇回り道とショートカット

反対に、科学的に考えるのを避けることも、これまた思い込み、割り切りです。科学的とは、「方法を用いて順を踏む」ので、とても面倒なものだからです。
そこで、多くの人が、科学を避けたがるのです。同じ理由で、理論的、論理的なのも好感されません。理屈っぽい人、説教好きな人は嫌われます。とかく回りくどいからです。
 「疑いをもって真実を求める」というのが、科学の最大のメリットです。
言われたことを鵜吞みにせず、見たままで即断せず、かといって見切らず、細かく調べて解決していこうとするのですから、けっこうな回り道になります。誰でもショートカットしたくなるでしょう。
その上で、「科学的」は、最大のショートカット、シンプルに記号、法則化して、具体的なことを抽象化、普遍化します。つまり、メタにしてシンプルに示すことこそ、科学的思考のなす技です。そして、私たちは、その結論だけを、前提も考慮せず、ときに公式や法則も使いもせずに論拠にして、断定してしまう愚を犯しがちなのです。

○知識と声

 知識量と価値は、必ずしもリンクしません。いくら多くのことを知っていても、声を使えるわけではないし、声について知っていても、声を使えるわけではありません。
声を使えるようになるのに、一定の手順と決まった方法があるとして、それを順に習得するというのは、どうにもおかしな考え方に思います。
目的別なら絶対的な方法があると考える人もいます。それよりは、小説を書くように、一枚一枚と積み重ねていくものという方が、まだ近いかもしれません。

○学ぶと教える

 学んでいくのに、経験と考え方、どちらも必要と思います。芸能、芸術は、学ぶとはいえ感じて身につけていくものです。しかし、感じるというのは、本当に主観的です。状況にも大きく左右されてしまうからです。
学ぼうとして、経験や知識、ことばにこだわりすぎると大切なものを忘れてしまうのです。
そういうものは、「学ぶものではない」「学べるものでない」と思ってください。私が、「教えるものでない」「教えられるものでない」と言ってきたのは、そういうことです。

○質問のレベルとマナー☆

いちいち問う、そういう人に対して、全てに丁寧に答えるのはよいこととは思いません。
問いにもよし悪しがあります。価値のあることには丁寧に接し、ないものはスルーしたいものです。スルーする、つまり、答えないというのも答えだからです。答えることで価値づけるのは避けたいものです。
そのなかには、少し調べたらわかることや読めばわかること、まずは、自分で考えてみることなどがあります。準備不足にすぎないことは、自ら準備していくことです。
日本では近年、稽古が練習に、練習が準備に、というように置き換えられてきたそうです。受け身から主体的に問う、ということならよいことでしょう。
全てに、ことばをもって答える義務は、誰にもないのです。答える必要はないと思うことに答えてあげるべきなのかは迷うこともあります。
そう言わなくてはいけない人には言ってもわかりません。言ってあげるという親切が、逆に気づかなくさせてしまうからです。言っても気分を害するだけなら、あえて言わないのも、大人のマナーです。
なのに、「答えてくれない」と、気分を害されることもあります。
 何が問題かを知ること、問題をみつけて問うことには、経験と能力が求められます。
質問で、その人のレベルがわかるのです。ですから、いつまでもくだらない質問に答えてはいけないのです。

○進歩と弱化

体の進歩を補う方法の進歩は、本質とは違います。逆行しています。マンモスの滅亡のように、です。
「医は医なきを期する」といいます。本当に医学が進歩していたら医療は必要なくなっていくはずです。薬、宗教、健康本なども同じです。体をかばって守ると弱くなります。唯一の解決法は、体を丈夫にすることなのです。
平均寿命が延びたのは、自然淘汰が働かず、弱化しても生きていることができるようになったためといえなくもありません。
他からの力による改良が進むと、さらにそれを求めて、それに頼らなくては生きられなくなります。種としては、弱化していきます。
体が弱化すると、それまで普通だったものが害になってきます。日光も冷風も害になります。それらから体を守りかばっていくことに拍車がかかり、弱化して、委縮していくのです。

○感情と声

今のネット社会では、情報が押し寄せ、欲求は増えるだけですが、体は動かないままです。頭を使い、脳と心が疲れ、感情やストレスに出るのです。しかし、それを調節しているのも自身です。
 感情的になると声が大きくなります。声帯に負担をかけて、声が裏返ったり割れたりします。
少しずつ怒りを出していればガス抜きになるのですが、たまって爆発すると大変です。過敏から過激になります。自暴自棄から自殺や殺人になることさえあります。欲求不満と実現のできないジレンマが、病に出るのです。

○一つの体系としてみる

 楽しく快く生きること、全力で動き、ぐっすり眠ること、自分が動くことは誰も替われません。
物質的に、喉をみても、全ては関連した動きにあります。内喉頭筋だけでなく、全身の動きです。同じ刺激を受けても人によって反応はさまざまです。そこまでの生き方や個人の趣好が関係します。
そこで、喉という身体のパーツだけみても何にもなりません。器質よりも機能、フィジカルよりもメンタルが障害として大きくなっているからです。痙攣性発声障害、過緊張性発声障害なども、メンタルがフィジカルの働きを悪くしてしまうのです。

○エネルギーのコントロール

個々の人の体の構造差は、日常生活や運動の習性、習い性もあります。感受性も違うし、目的もそれぞれに違います。
 そこで、エネルギーの出し入れのコントロールができることが大切です。
一つである体の部分に症状が出てきます。それは同じように繰り返されることが多く、くせとなります。そうして表に出るなら、まだわかりやすいともいえます。多くは未病として、潜在しているのです。

○2つの問題

最初にみて、問題と思われることが2つあります。フィジカルとメンタルです。フィジカルは解決しやすくメンタルは解決したつもりが目先を反らしただけになっていることが多いです。
メンタルで暗示的に自信をつけ、解放したところで、実力がなくては同じことです。次のステップに行くときには同じことが起こります。そこはフィジカルとメンタルを強化して解決するしかないのです。自分を鍛えるということです。

☆○考え方のできていない人

やっかいな問題は、この2つ以前のところにある考え方です。そこでひっかかる人は、この2つの問題にも入れないのです。入口に近づけないのです。
幼稚な考えで一人よがり、一昔前なら、井の中の蛙で、根拠のない自信とプライドだけと、周りから言われてきた人です。今は、そういうことを指摘する人が少なくなったので、本人がずっと気づけません。助言を受け入れない人も同じことですが。あるタイプのまま固まっていくのです。
実生活でうまくいかないことは、アーティストでもよくあるのですが、すぐれたアーティストには、人に代替えできない才能があります。そこ以外は、周りの人が支えてくれます。それがないのに、もちろん、それがないとは断定できませんが、自分の位置づけがみえず、スタンスがとれない、いや、勝手に真ん中にいるつもりで生きている人が多くなったように思うのです。

○あるタイプの特徴

関心、注意を引きたい
特別扱いを求める
自分の都合しかみえない
自分の論理、考えしかない
相手の見解は独断、偏見と思う
自分で判断したがる
自分ですべてを決めたがる、やりたがる
何でも自分本位に解釈し思い込む
判断力がないのに判断したがる
すぐ結論を出そうとする
一から十まで整えないと活かせない
必要なことがみえず、やりたいことに執着する
利害や取引しか考えられない
相手に好かれない
協力的でないし、相手を協力的にさせない
自主性と自分本位、自分勝手が区別できない
自己責任と言いつつ、自分で責任をとらない
他人に依存する
言ったことをすぐに変える
時間を待てない
優先、優遇されて当然と思う
お金でサービスを受ける権利を求める
合う、合わないだけにこだわり、合わせられない
すぐに効果や成果を求める


〇トレーナ―の説明

☆Q.トレーナーは、何をするのにしても、その理由をすべて説明して欲しいです。
A.トレーナーは、あなたのうまくいかない原因を探し、直していきます。しかし、それを全て説明する必要があるでしょうか。いや、説明できるものでしょうか。その方が本当によいことでしょうか。
説明できないことは、たくさんあるのです。また、やってみなくてはわからないケースも多いです。
多くの説明は、トレーナー自身を信用させるために、生徒を安心させるためになされます。そのために、本人ができていないのに、できたように言うことも出てくるでしょう。
「やってきた」ということでは確かですが、そこに程度を問わないなら、目的は褒めたり励ましたりすることになりがちです。それが必要な人も、必要なときもあるとしても、本来の目的は、別であるはずです。
説明できる原因を見つけても、当たっているとは限らないし、当たっていてもワンオブゼムかもしれません。もっと大きな原因があるのに、小さな原因のせいにしてしまうこともあります。試行錯誤のこともあるし、やってみてすぐ直るものでないから、条件が整うまで待つことが最良なのです。
しかし、今の問題は、そこまで時間を待てないところにあります。即効性や、すぐに実感がないとやめてしまう人が少なくないからです。

Q.説明上手なトレーナーにつきたいです。
A.わかりやすいとか、説明しやすい、納得しやすい、直しやすい、やりやすい、見せやすい、ごまかしやすいから、説明に使われる例はたくさんあります。
それが行き過ぎると、「やっていかなくてはわからない大切なこと」よりも、「誰もがやればできてしまう、大して力にもならないことのメニュ」になることも少なくありません。
曖昧なまま、使っているうちに、それが既成事実となって、真実や本質から遠ざかってしまうことがよくあるのです。とても気をつけなければいけないことです。
言い訳として使うことも、そういうことを知って使うことも知らずに使うこともあります。どうせ使うなら、もっともらしく使おうとするのは当たり前です。
私は、説明は上手な方だと思うのですが、レッスンでは、できる限り説明を避けるように努めています。


〇行き詰まりの打破

Q.迷ったり、わからなくて質問してばかりです。
A.スタートしましょう。質問でもよいのです。なすべきことをなすことです。自分でスタートする。どこからでも、いつからでもかまいません。そこがスタートです。進まなければ、そこがゴールです。
レッスンは続いても、上達が止まるときもあります。それでよいときもあります。そのままでいたくなければ、自分で考えることです。

Q.いつもプラン通りにいきません。
A.計画倒れの人、こうしようと計画したところで満足してしまい、終わってしまう人は、珍しくありません。知識だけで満足できる人もいます。よき読書家で、1行の文章も書かない人もいます。でも、それが一般の人で、作家の方が特殊なのです。
音楽でも、スポーツでも、よい観衆がいて、よい評価をするように学んでくれるのはありがたいことです。しかし、自身で何かをなしたいなら、それだけでは変わりません。あなたも、あなたのまわりも社会も変わらないのです。やり方を変えることです。

Q.先送りして、いつも計画通りできません。
A.段取り通りにいくのは、作業です。計画通りにいかないのは、計画が大きすぎるからなのか、大雑把なのか、具体性がないのか、ともかく、計画が甘いのです。
計画通りにいくためには、いくつものプラン、アイディアがいるものです。伏線を引き、最悪のケースのカバーの仕方や凌ぎ方まで二重三重に準備しておくから、計画は成り立たせられるのです。それは、歌も芝居も一緒です。
とはいえ、いつでもできるような計画を立てても仕方ありません。いつも、たくさん無理な計画を立てて、いくつかでも実現したらよいという考え方もあります。計画によって、できないことができるようになる、という計画を立てられるなら、一流レベルです。ですから、計画の立て方を学んでいってください。


〇余計なこと

Q.どうも、何事も悪い方にとってしまうのですが。
A.何でも、よいところをみて、よい方にとれば失敗はしません。きっと少しずつ、豊かになっていくでしょう。

Q.いつも、自分を正当化してしまいます。
A.正当化するのはよいのですが、それは言うことではないということは少なくありません。人がどう思おうと自分が価値づけているのです。ですから、何を言っても意味がないともいえるのです。
自分でよくないと思ったら、自省して、分析して改良しましょう。そこに価値を見い出すとよいでしょう。価値を見い出せたらうまくいくのに、見い出せない人が多いようです。価値づけを学ぶことです。

Q.自分本意でない共感、好感を求められて疲れます。
A.人は、実績、成功で評価されます。余計なことで疲れないようにしましょう。

Q.かっこつけたがって、いつも失敗します。
A.できるだけよくみせようと努めることはよいことだと思います。それがおしゃれでも、格好づけでも文化の元でもあります。大いに試みてください。失敗して、それとわかったら、それでよくなっていくと思います。

Q.邪念に囚われてしまって、専念できません。
A.頭に余計なことを持ち込まないことは、大切です。切り替えをします。自分のことに切り替えるのです。
それを妨げるのは、主として人間関係でしょう。なぜ相手がそうしたのかにこだわりすぎると進めないものです。でも、一つ引いて、人を信じれば長く活きるのです。
一方、観念的で、他の考えが支配していて、行動するのに妨げとなるのはよくないでしょう。その価値観を打破することです。

Q.周りの期待のなさが、嫌になります。
A.出せない結果のせいと思って、力をつけましょう。誰でも周期的にバイオリズムのように、やる気「なにくそ」と、やる気のなさ「もうだめだあ」とが、入れ替わるものです。それをコントロールしましょう。


〇ことばとイメージ

Q.指導者が使わない方がよいことばはありますか。
A.他意はない、言外の意図はない、何も隠していない
悪意、下心、悪気、たくらみ、深い意味はない
そんなつもりではない、深く考えて言ったわけでない
本音がポロッと出た、などでしょうか。
No other intentions (purposes), mean anything.

Q.マニュアルとは、よいものなのでしょうか。
A.マニュアルは、誰が使っても、教えても、受けても一定の効果を出すためにつくられたものです。完全なものほど、一定業務の遂行に限ると、うまく使えるものでしょう。そのよし悪しと限度を知りましょう。


〇メニュと考え方

Q.すべてのメニュや方法の意味や出典を教えて欲しいです。
A.どこで調べられたり、得られるかを自分で調べて学びましょう。
私は、答えよりは方法、方法よりは、その価値を伝えようとしています。

Q.いろんなメニュがありすぎて混乱します。
A.世界観をもつことでしょう。あなたの思想です。思想というと大げさですが、つまり、ものの見方を学ぶことです。それは、ネットより本で学ぶとよいです。

Q.つまみ食いと先入観で、一つもものになっていません。
A.短い人生で、どれだけのことがものになるでしょうか。いつも自分の未知への冒険心は大切にしましょう。 ものになるまで続けていきましょう。

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