論96.自己流との決別(8797字)
〇自分の感覚の是正
自分で無理なく自然だと思っていても、それがどのレベルにおいてそうなのかということで疑ってみることも必要です。
どんな物事であれ、最初から自分で行なうと自己流になります。
それは、それなりに自分のこれまでの癖や身体の使い方に根ざしていますから、自分では行いやすかったりします。カラオケでも、自分が好きで歌いたい歌を繰り返しているうちに、人並みに上達していくものです。
しかし、そこで、それ以上に求めたい結果が出てこないなら、長くやっても向上しなくなっていくのであれば、何かが根本的に違うことに気づかなくてはなりません。
自分で心地よくなったり、体の開放感を感じるというはよいのですが、それがどのレベルでできているかということです。
カラオケの下手な人でも、歌うととても心地よく満足し、自己陶酔している人がたくさんいます。でも、そうなると、上達は止まるのです。
歌や声は、その点で、とてもわかりにくいものです。そうした比較ができる人、きちんとした一定の基準で判断することができる人は、とても少ないです。
さらに、上達する実践的な練習に結びつけられるかというと至難の技です。
むしろ、カラオケなどで判断せず、直感的に実践した人の方が、本質を捉えることが多いようです。
そういう人だけが上達していっているのです。
そうでない人は、そうした感じ方や物の見方を学ばなくてはならないわけです。
それなしには、どんなに練習してみても、頭打ちになります。
発声も歌も行き詰まっていくはずです。
だからこそ、より高い基準と判断力を得るための学び方が必要なのです。
初心者のやりやすさや心地よさや、効果というのは、1つ上のレベルから見ると、大体がいい加減で、再現性も効かず、その上に高度な技術の乗らないものだからです。
〇身体で身につける
これらのことを声や歌で考えると、とてもわかりにくいので、私は、スポーツや武道の経験から判断するようにとアドバイスしています。そういう経験のない人は、今からでも何かしら実技での経験をして、そういったものの習得段階を参考にしてくださいといっているほどです。
そのときには、最初、自分でやりやすく、よい感じでできたものほど、基本から外れているケースが多いのです。そして基本に基づいて後で伸びるようなフォームの方がうまくいかないものです。
偶然にフォームなどが、うまく整ったようなときこそ、あまり実感がない、結果が出ていないと感じることになりがちだからです。
わかる人が見たら、筋がよいとみえるような例でしょうか。
なぜなら、そのフォームが必要とするような身体的な条件や感覚が、身体にまだ備わっていないからです。それを補って強化していくということが、本来は、トレーニングなのです。
その点で、素人の判断は、大抵、プロや上達したあとの感覚と全く逆ということが難点なのです。
もちろん、身体での習い事を経験したといっても、多くの人は、学校のクラブ活動くらいで、プロや一流選手レベルまで極めたわけではありません。
そうしたスポーツの名手や武道の達人などが、どれほど大変な努力やキャリアを積み重ねているかということは、わからないわけです。
それでも、何年か続けた人には、ある程度、想像がつくという点では、ずいぶん違うということです。
〇なぜ、基本が身につかないか
そのあたり、まったくわからない人が、こういうものをやりだすと、どちらかというと、力任せか、スピリチュアルな傾向になります。
今の時点で身体に充実感があるとか心地よいとか、自由だとか、自分なりにうまくできていると思うことが基準になってしまうのです。
何よりも、まずは、生徒の信用を得たいトレーナーが、そのような方向に導くことが多いからです。特にメンタルやスピリチュアルに重きをおくトレーナーです。
一般の人たちが楽しむために、学ぶところ、カルチャーセンターのようなところでは、そのことが、目的となることもあります。
気分が晴れた、ストレス解消で目的が達せられたとみてもよいこともあります。
でも、私は、芸事であるからこそ、武道やスポーツでは不可能な一流への道のようなものが、万人に開かれていると思うのです。
心のままに、体の動くままに、心地よく歌を歌えるようになる、どんどんと上達していく、ということの基本は、一般の人でも、プロとまったく違うわけではありません。
しかし、そのようにしぜんにまかすととても時間が必要なのです。
環境によるところが、すべてというくらいに要因となるところが大きいです。
毎日、学校や会社が遠くて、そこまで走っているうちに、しぜんにマラソンが走れるようになったというようなものです。
でも、完走できるのと優勝できるのとは、違うのです。
上位にいくには、トレーニングが必要です。ある目的のもとに、どこまでそれを突き詰めていったかということの違いです。
〇条件の違い
マインドフルネスのように、「今、ここ」に集中ということは、とても大切な条件ですが、それで足りているということにはなりません。
果てしない向上を目指す必要があるのです。
「今、ここ」という考え方は、今の自分の肯定です。そこで吹っ切れたら、卒業です。
状態が整ったら、OKなのです。
しかし、芸事は、そこから入ります。稽古で状況が乱れ、限界が来ても、続けることで再び、状況をコントロールして、向上できる条件を自らの身体につけていくのです。
これは何もアスリートやアーティストだけではありません。
健康であろうがなかろうが、今の状態を素直に受けることによって、将来への恐怖心などを遠ざけ、そうしたことで精神的なところから身体も立ち直ることができるでしょう。それは確かだと思います。
だからといって、芸能や芸術の世界において、それでは、その他、大勢の普通の状態レベルになったことに過ぎないわけです。
それを目的とする場合は、それでよいと思われます。そのような目的での芸術や芸能、音楽や歌の使われ方もあるでしょう。それも、ある方面の人には、望ましいことだと思います。
私が語るのは、そのように思わない人たちに対して、マインドフルネスだけでは、必要条件に過ぎず、充分に条件を満たしていないという事実です。
トレーナーというのは、その人の状態が崩れたときに元に戻すという役割もあります。そういう場合、たとえば、ベテランで一流の芸人が、精神的なプレッシャーに負けて声がうまく出なくなっているようなときに、このマインドフルネスのような考え方は、とても有効なことがあります。
もとより力のあった人が力を戻したらよいというのと、まだ力のない人が、これから力をつけていくという場合は、考え方が同じわけがありません。
行なうことも求められる条件も違います。
でも、初心者や素人のほとんどが、間違えてしまうところかもしれません。
〇伏線
あまり指摘する人もいませんが、あるいは気づく人も少ないのでしょうが、そうしたことが、トレーニングの渦中で、なぜわからなくなっていくのかというのが、最大の問題です。
いろいろなトレーナーがいますが、大体は、初心者、入門、初級対象に、レッスンをしています。メニュやメソッドをつくるにも、ほとんどが、そういう対象なので、どうしてもそこで終わってしまうのです。
だからこそ、私は、こうしたもので終わらず、その先を明らかにしていく必要があると思っています。
私のレッスンやテキストは、必ず、次につながるように伏線を張っています。
ワークショップのように気づきと整えられた状況での効果体験で終わっただけでは、満足感があるほど、先がないからです。
自然で、しなやかで、ていねいで、力強くパワフルで、いろんな要素を全て兼ね備えなくてはなりません。リラックスして心地よいだけで、創り出せる世界ではないのです。
レッスンでは、あるときは、そういったことに対して専念することもあります。
1つのレッスンだけで判断しないでくださいというのは、そういうことです。
シンプルにいえば、声の実力の基本は、次の3つです。
声をしっかりと出す。
身体から声を出す。
声を遠くまで飛ばす。
〇表現と音楽
声の使い方、出力として、歌唱に結びつけていきます。
音楽を表現するということと自分を表現するということは、なかなか結びつきません。
これはなかなか難しいことです。
音楽もまたどのように捉えるかということが問われます。
ただ音楽を表現していたら自分が表現されているのでしょうか。
自分を表現するときに音楽的になっているかどうかが問われるとしたら、そこは難しいです。それは音楽を身体の中に入れておくしかありません。
まじめに教科書通りに間違わないように、音楽というのを勉強する人が多いので、大体が他の人、優れた人と同じような方向に行き、自分自身がいつまでも出てこないという傾向が、日本の場合は、ほとんどです。
誰が歌っても、同じように聞こえてしまうのは、そのように学んできたからです。
人間的な魅力、個性の表現の欠如によるものです。
その人そのものの魅力ではなく、表現における個性、その人の思想や考えや芸術、世界観の欠如です。
実際にそういうことを学んでいないのですから、出てこないのがあたりまえです。
それに気づき、そうしたものを組み入れて行けるかどうかが、長く真摯に勉強している人に問われることではないでしょうか。
〇日本の声楽
声楽家の場合は、相手の国の言語を学び、文化や歴史を学び、留学してまで、その生活で、向こうの住人になり切ろうとします。それは向こうの人たちから見たら、あくまで留学生にしか過ぎないのです。
もちろん、外から来た人の方が、その国の人よりも高い理解力や創造力を持つこともあります。しかし、それはよほどの人の場合であって、なかなか生まれ育ちを拭い去るのは難しいのです。
もっというなら、イタリア人やドイツ人がやったらできることを、なぜ日本人がやらなくてはいけないのかということになります。
その理由があるとしたら、その民族を超えた、人類としての共通の財産、時代を越えて受け継がれる芸術レベルのものだから、ということになります。
ただ、そこまでのレベルを目指すのであれば、日本人であれば、日本のものを日本語で、日本人として極めていく方がよいともいえるわけです。民族を超える必要はないからです。
でも、この国は、日本のものを習得している人より、向こうのものをまねている人を高く評価するので、困ったことになるわけです。どちらも育たないことになりかねないからです。
〇トレーニングメソッド
こうした場合、ヴォイストレーニングとして、どう評価するかというのは、なかなか難しいところになるわけです。
つまり、トレーニングというからには、誰もがやったらやった分だけ上達するというものでなくてはならないというのがあります。
ですから、ノウハウは個別対応ではなく、共通に通用する形になりやすいのです。
それの行き着くところは、トップエリートをつくる進学塾ではなく、平均点を上げ、落ちこぼれをなくす学校教育です。
ただし、音大には、音楽の落ちこぼれは入れないので、普通の人からは、高レベルとみてよいでしょう。日本においては、です。
私からみると、先ほどの民族超えレベルしか意味を見出せないので、もっとも低レベル、そこからのスタートといえるのですが。
これは、スポーツでも、クラブに入って、専門的とはいわなくとも、そのプレーに必要なトレーニングメニュを行えば、それを行っていない人よりは、上達するということに相当します。
たとえば、中学校に入るときに、とてもバスケットボールがうまい子がいたとしても、バスケットボール部に入らなければ、中学校で3年間、バスケット部に入っている補欠選手に抜かれることは、確実なのです。それは、毎日のトレーニングの成果です。トレーニングである以上、素質だけの人を、身体と感覚のトレーニングの鍛錬で、抜くことができるわけです。
そこには、明らかに、トレーニングのメソッドの効果があります。
トレーニングメニュをこなすために実力がつくのです。
それは、優れたプレーヤーから降りてきた方法であり、素人は知らないことなのです。
そのメソッドには、大きくは、2つあります。
スポーツ選手として必要な体力や筋力や柔軟性などを鍛える基礎トレーニング。
もう一つは、その競技に必要な部分を鍛える独自の特別なメニュです。
スポーツによって、そのトレーニング方法が違うのは、そこで必要とされる能力が、それぞれに違うからです。
中学生くらいなら、まだ陸上部よりも足が速い人が、野球部やバスケット部の選手にいるようなことがあるかもしれませんが、高校あたりになると、それは難しくなるでしょう。
その競技の上達に合わせたメニュでハードに鍛えた人には、勝てなくなるからです。
〇声のメソッド
ある競技のための特別なトレーニングをすることが、他の競技の能力の発揮としてはマイナスになることもあります。カール・ルイスは、走り幅跳びと陸上を兼ねました。これがバスケットであったり、走り高飛びだったら、必要とされる筋肉の条件の違いで、100メートルの記録も望めなかったと思われます。そういうことを知っていて、競技を選んでいるわけです。
それを考えてみると、声を出すというところにおいては、スポーツ以上に複雑な条件が絡みます。まずは、その競技に合っているかどうかという点で、第一段階の基礎があると思います。
そして、スポーツほどではないにしろ、舞台を務めるということでの、体力、筋力、柔軟性、運動神経、反射神経といった素質や能力が問われるでしょう。
次に、使用に特化した能力を鍛えるためのメニュになります。
スポーツ選手が歌うことを考えてみます。彼らは、運動能力、反射神経や集中力、その他、人前で平常心を保つようなことも含めて、一般の人よりも、かなり有利だと思います。
実際に、総じて、スポーツ選手は、歌がうまく、パフォーマンスも優れています。ダンスなどをするにしても有利な条件を備えているでしょう。
しかし、それを専門に磨いたダンサーや歌手にかなうわけではありません。
〇声のキャリア
例えば、セリフや歌を考えてみると、そこで問われる能力は、さまざまにあります。
歌手や役者の能力をトレーニングからみるのが、難しいのは、生まれてからこれまで生きているなかで、そのトレーニングが含まれていることが多いからです。
美人で目立っていて、人にずっと見られていると意識して育ってきた人は、モデルや女優になりやすいでしょう。日ごろから見られることを意識し、それに対して振る舞ってきたとしたら、そういう職に必要なキャリアとなっているわけです。
同じように、役者や歌い手も、そういう環境におかれたり、そういう自覚を持って生きてきたのであれば、普通の人よりも身についている要素が、かなり多いわけです。
言葉も歌も、天性だけで何かができるわけではありません。必ず耳で聞いて、それを声として口から出して、習得してきているわけです。
一般の人のなかでも、セリフを読ませたり、歌を歌わせると、かなりの差があります。そこでのトップレベルの人の方が、役者や歌手の仕事をするのに、ふさわしいのは確かです。
だからこそ、街で声をかけられて、半年もたたないうちに、プロとしてデビューできる歌手や俳優もいるわけです。
この辺になると、アナウンサーや声優などでは、今は、そういう専門の学校などに行って、基本を勉強しないで、そのままなるような人が少ないということと対照的です。
その人の素質、性格、才能、そして育ってきた環境に大きく影響されるからこそ、何を持って実力、そして、そのトレーニングとするかが難しいわけです。
簡単にいうと、作曲家やプロデューサーが選んだような人であれば、ほとんど、その能力を備えているので、弱点補強とか振り付けで、すぐにプロになれたりすることもあるわけです。歌謡曲のアイドル歌手は、そういう代表でした。
バンドでも楽器のプレーヤーは、習得時間が必要ですが、ヴォーカルは、歌えるなら、よいわけです。まわりのサポートで、なんとかなるし、なんとでもなるのです。
〇現場のキャリア
仕事の現場は、ステージ、舞台ですから、出ることで、そのまま鍛えられるわけです。
メジャーなスポーツなどで、特別なトレーニングをしないで、試合だけで上達していったなどということは、もはや不可能でしょう。
もちろん、かなりマイナーなスポーツであれば、あるかもしれません。レベルが低い分野では、現場の叩き上げ、そこから、レベルが上がるにつれ、いろんな要素を総合的に備える必要が出てくるのです。
いや、すべてのスポーツは、初期の段階では、試合という本番だけで習得し、それぞれ技術を磨いていったものだと思います。
ただ、普及するにつれ、レベルが高くなる、それに従って、スーパースターが出てきて、一気にメジャー、レベルアップします。
より優れた人が、どのようなことをやっていたのかを学び、それを行うことによって、皆が、より早くより高いレベルにいけることがわかってきたわけです。
優秀な選手が、コーチや監督になって、練習方法を改良していったのでしょう。
そういうなかから、その競技独特のトレーニング法というのが確立していくわけです。
そこでも個人差はありますから、それをどのように選び、組み合わせ、どのぐらいやればよいのかというのは、なかなか難しいわけです。
それでも、これまで全くやっていなかったものを、1つずつ身につけていくというのは、まだ、あるレベルのところまでは、わかりやすいです。
その例として、楽器の演奏の習得があります。これは楽器を手にして、素人から始めるわけですから、1年、3年、5年くらいのところまでは、ある程度、共通したステップで見られます。
5年、続けているのに、はじめての人に演奏の技術で負けることはありえないのです。
キャリアが、期間や時間という数量で、計算しやすいともいえます。
〇個別に異なるトレーニング
しかし、セリフや歌などは、5年学んでいても、そうでない人に負けることがあるわけです。
この点からも、ヴォイストレーニングということの位置づけ自体が難しいことがわかるでしょう。
なぜなら、今でこそヴォイストレーニングが必要といわれますが、元々は、ヴォイストレーニングなど、全くしないで、プロの役者や歌手になっていたからです。今でもそうでしょう。
そして、それが、先に述べたスポーツの黎明期などと違うのは、今よりもハイレベルな歌手、役者となって、実在していたことです。
いや、プロなどといわずとも、一般社会のなかにも、役者顔負けのセリフや演技ができる人など、いくらでもいるのです。
つまり、演技のリアリティで問われるのですが、役者は、大体は、実在するような人物をまねて、なりきるのですから、モノマネ歌手のようなものでもあります。
現場でその仕事、役割の人生を生きている人のリアルに必ずしも勝るとはいえません。そこは、歌手と違うところです。
そういう面でいうと、その人の目的をきちんと見て、そこで足りない能力の分を補強できるところだけで、ヴォイストレーニングを行うというのがよいわけです。
しかし、セリフや歌の感性というのを、どういうふうにとるかで異なってきます。
〇ゼロから始める
実力がなく全くダメだというのであれば、楽器を習うかのように、ゼロから組み立てて行ったほうがよいわけです。オペラであれば、普通の人が歌ったときに、歌どころか発声も呼吸も何もできていないといわれるわけですから、そうなるとゼロからの習得です。
ですから、声楽は、ステップを踏めて、あるところまでは、とても有効です。有効というのは、わかりやすい、誰がやってもあるところまで向上できるというような意味です。
音大に入るところで、ある程度、選別されていますから、誰でもできるとはならないし、比べるわけにはいきませんが、少なくとも、音大に入ったときよりも出るときの方が優れているのでしょう。これは、トレーニングの成果です。
そんなのは、当たり前と思われるかもしれませんが、歌を自分自身で勉強して、3年4年経ったからといって、桁外れにうまくなったという人は、なかなかいないはずです。
合唱団などに入ると、それなりにうまくなります。それはそれでトレーニングの成果といえます。
〇個人差
気をつけなくてはいけないのは、声においては一人ひとり違うはずなのに、楽器と同じように、同じマニュアルで同じように進められると、似たような傾向になっていくということです。
クラシックはともかく、合唱の人たちが、同じように口を開けて同じように歌うのに対して、違和感を持つ人は少なくありません。でも、コーラスをそろえるのですから、異質は排除されるのです。
基礎のトレーニングというのは、誰もが同じように同じところまでいけるからこそ、トレーニングといえるわけですから、これでよいとなるのでしょう。
その段階からどうしていくかを考えるべきであって、そこまでを否定する必要はありません。
時折、声楽を学ぶとオペラ歌手みたいな歌いかたになるのでは、というようなことで、嫌がる人がいますが、それは声楽の発声ばかりをやって、他のことを学んでいないからです。
声楽を習得していくところのままにしているからです。
それは、ポップスやエスニックなど、他の音楽の要素を入れたり、そういうふうに歌おうと自分で努力していないからにすぎません。
技術などは、身についたら忘れることで、自分のものにしていくことでしょう。
いつまでも、形にとらわれてはなりません。