論58.メソッド論
○権威を借りる
ベルカントなどということばとともに、フースラー、リーマンなど、ヴォイトレにもそうした権威筋の名前がときどき出てきます。それを使う人が結果を出していたら誰の何でもよいし、出していないなら、権威を貶めるだけです。でも、安易に頼ろうとする人が使うので、大した結果は出ないし、逆に、迷ったり間違ったりする人を輩出するのです。
「誰々の言っていること」「何々の本に書いてあること」というのは、私は、原則、禁句にした方がよいとも思っています。単に、形を取り繕うだけに使ってしまうことがほとんどだからです。
○名をかたったレッスン
どんな分野でも、継承する信者が元の理念や考え、やり方を部分的に拡張したり省いたりして曲解したやり方にしてしまうことが多いのです。
ですから、私は、創始者や権威者の名をかたったレッスンは、気をつけて受けるようにと注意しています。
あたかも、絶対に効果をあげる唯一無二のメソッド、レッスン、トレーニングがあるように信じさせ、それを信じる人が出てくるからです。いや、それを求めている人がそういうところでそうなるからなのですが。
そして、その名を使って教え始める人も出てくるのです。何年かはもちますが、20年、30年過ぎると、その本家本元まで否定されてしまうような結果となることもよくあります。
○間違いとメソッド
それゆえ、私などは、頼まれても弟子をとるとか、のれん分けはしませんでした。それでも理論やメソッドは独り歩きしてしまい、批判されたり間違っていると言われることもあるのです。
どんなものにも間違いはありますが、間違って使われることが多いものです。
使って間違った結果を出すようになるのなら、使わない、途中でやめたらよいのです。そこまでを含めているのが、本当のメソッドです。
○メソッドの使い方
何かの理論やメソッドをマスターしたら何かができるというのは、おかしいのです。何かをやりたいためにそうしたものを使うのです。それは、最終的には組み合わせて使う、切り捨てて使うことになります。そうして本人がクリエイティブなトレーニングができるようにしていくのが、本当のメソッド、理論だと思います。
○中止と保留の判断
「おかしい」「間違った」というのを素直に認められること、中止、中断、または、保留する判断ができるようになること、それこそが重要なことであり、学ぶべきことです。
なかでも「自分の判断を保留にする」という判断が、とても大切です。
○教わる意味
日本では、一つのことに長く精力的に取り組む姿勢ばかりが強調されます。それを自分で判断することの必要性、判断してもよいことを教えられません。自分で変えることを勧めないどころか、禁じています。レッスンがあるのは、まさにそのためなのに、逆のことを教えているのです。
一人ですればよいことを他に教えを請うのは、そうした判断の基準が得られるからです。続けるのは、自分の練習での限界を超えて判断を深めていけるからです。それには価値観、世界観も含まれます。
○合わない
そうなると、教える人も「私のやり方、メニュ、方法は、あなたに合わない」と言えるかどうかが問われます。もちろん、「私のやり方」にもいろいろあるし、あなたもいろんな受け止めをするでしょう。ですから、そこは、かなり複雑なことになるでしょう。そこに時間がかかるのです。
もちろん、レッスンを受ける人に最初から、そうした判断は期待できないし、なまじ、第一印象で判断をしない方がといいと思います。
○自分メソッド
欧米などの多様で個性の強い人たちの集まりの場では、一つのヴィジョンなしにはアートにも一体化できません。だから、プログラム、メソッドという手法が、とても重視されて発展してきたのです。
しかし、どんなものでもハイレベルに使いこなすには、自分に合わせたいろんな編集が必要です。「自分メソッド」にする必要があります。
○多様に学ぶ
私は、どのヴォイトレもどのメソッドも、否定していません。よいものは取り入れ、組み合わせられるようにしています。書籍などで公にしたことは、ほんの一部です。レッスンの現場では、多様に展開しています。本の通りに行うことは、あまりないのです。
さらに、いろんなトレーナーを使って、相手にとってふさわしい組み合わせをしています。ときにヴォイトレそのものの否定さえしています。
○「でき」をみる
日本では、メソッドが内面的、精神的に使われることも、とても多いのです。すると、トレーナーの顔色をみてレッスンする人が増えます。そうして、トレーナーが「できた」と言ったらできているように思う人ばかりになるのです。
確かにどんなトレーニングでも、すれば上達します。褒められては少しずつ上達します。しかし、それが他のところ、他のトレーナーのところにいくと、何もできていないと見なされるとしたら…。発声やヴォイトレにおいては、特にそれが著しいのです。なぜでしょうか。
ここには、よくヴォイストレーナーもきますが、私のところの2、3年のクライアントほどにも声ができていない人が大多数です。
○もたれ合い
それを、私は、両面から批判してきました。新しいトレーナーは、その人が前に習っていたトレーナーの方法を批判した方が早く信頼されます。トレーナーを替える人は、前のトレーナーでうまくいかなかったのだから、そういうことばを望んでいるからです。
「トレーナーショッピング」のよし悪しについては、これまでも述べてきました。「多数の人に支持されるものほど、一個人には大して使えない」ということです。
○反社と自己啓発
内面的なものへのアプローチは、表現活動にも声についても深いかかわりがあるので、自己啓発セミナーのような形になるところもないとは言い切れません。
芸術、宗教もグレーなものですが、社会的に必要なもので、まして、そのためのトレーニングは、反社会的であってはならないように考えます。
体験ブーム、ワークショップは、集客手段としても有効です。ヨーガ、瞑想なども、オウム真理教のときのことを忘れたかのように、再ブームです。
○ブレーキと切り返し力
大らか、楽天的、アホになれる、それは、アートに関わりつつアートで病まないために、ブレーキとしても必要です。
我に返る、素に戻ること、演じていたリアルから現実生活へと役を抜け切ることが求められます。どんな深刻な状況で役に取り憑かれても「なんてね」「なわけないじゃん」という切り返す力がいるのです。
○カルト
・絶対に正しいという方法、理論とする
・他のメソッドやトレーナーを否定する
・一個人、カリスマリーダーの感化力に負う
これらは、カルトであることの見分け方と言われています。
○カリスマトレーナーは育てられない
宗教に似て、一人の天才的プレーヤーが出ると、自分のためのチームをつくり、次にファンをネットワークし、自分のようになりたい人を教えて増やそうとしていくものです。一個人、カリスマの力からは、いろんなものが生じていきます。しかし、大半は、ファンクラブ、趣味のクラブで終わって、人材は育っていかないものなのです。
○カリスマトレーナーを目指さない
多くの人が指導者やトレーナーのレベルにも達せずに、それが自分の可能性の限界だとあきらめるのです。それをよしとするのであれば、それでよいと思うのです。
しかし、本当は、カリスマトレーナーを、見本、手本とするところで、大きな方向違いをしているのです。
○歌の魅力のために
歌が魅力的になるのは、レッスンやトレーニングからではありません。発声や声の使い方でもありません。
一流の作品に感化され、その基準と自らの発声に関わる心身の基準が一致していくとき、高みを目指した自分だけの基準を自覚し、そこを超えて体現できるようになったときです。
レッスンとトレーニングは、その基準を知り、高め、よい材料によって可能性を高め、実現していくための有力な手段です。しかし、役立てるために使う手段の一つにすぎません。絶えず、深めていかなくては何ともなりません。
●たゆまない改革と体制
私は、数多くの失敗をしてきました。そのたびに改革をしてきました。出した本も、そこからずっと書き改め続けています。
レッスンやトレーニングでは、できることだけでなく、できないことも示します。私より他のトレーナーを勧め、ここよりもふさわしい人や場があれば、そこをお勧めしています。
どんなレッスンやトレーニングにもよいところと同じく、マイナス面、ときにリスクのあることを説明しています。
昇級(グレード)などの日本人の好むモチベーションづけも過去に取り入れた上で捨て、トレーナーや受講者の交流もとことんやった上で、派閥や馴れ合いを排してきたのです。
最初から、頭で考えた体制でなく、多くを試行錯誤して、改良改善し続けてきたプロセスでの現体制です。
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