論83.シティポップの世界的流行とこれからの歌~歌と歌い手の行方。2023版(8833字)

以前、私は、拙書の「読むだけで、、」で、今後の歌手と歌の行方について述べたことがあります。あれから10年、さらに加えてみたいと思います。
 
末尾に
参考、「読むだけで声と歌が見違えるほどよくなる本」音楽之友社 P194より引用
<コラム>これから歌手という職は成立するのか)
参考 「紅白の凋落と歌の力」 2022/12/28 fukugenほか
https://fukugen.hateblo.jp/entry/2022/12/28/170000
 
〇その後の歌の世界 薄まった心地よさ
 
いくつか動きがあった点では、ヴォーカロイドの一般化です。
もはや、AIの歌も、人間の歌も、違和感なく、並べて聞かれるようになりました。オリコンのチャートにいくつも入るのです。
それどころか、まだ日本だけの現象だと思いますが、「人間の声自体があまり好きでなく、むしろ、デジタル加工された音声の方を、心地よく感じられる」と思う人が多くなったように思います。
 
特にZ世代といわれる人たちですが、大きな声自体がパワハラと認定されるような風潮の中で、人間の怒号の声、怒りや泣きなどといった感情的な声をあまり浴びる経験しないで、育ってきています。そのために、強い口調でいわれると、殴られたような衝撃や痛みを感じると思われるのです。
 
メタバースの世界と同じで、デジタルの音声では、激しく心を動かしたり、驚かされるようなことが起きません。予定調和の世界です。そうした穏やかな平穏さを求めるのは、昔は年寄りだったのですが、今はむしろ若い人たちの方です。
 
特に日本においては、早期にシンセサイザーやテクノポップが受け入れられ、またそういった面ではクリエイティブなアーティストが出て、世界的に先進的なものを発信できた唯一の分野だったわけです。
もちろん、バイオリンやピアノ、指揮者といった英才教育において、世界一流の音楽家や楽器製作者を日本人は出してきたわけですが、それは向こうの世界において、確立されたものを吸収していた成果といえます。
 
それに対して、日本独自のものというと、音楽では、ハード機器、ステレオ、コンポ、ウォークマンなど、音響機器や家電、ソフトでは、オタク文化、アニメ、そして、今では、シティポップといわれるものなのかもしれません。
 
歌舞伎や能は、知られていますが、謡、落語なども含め、なかなか世界にまでは出せておりません。和楽器などは、太鼓、三味線、尺八など、ジャズ等とセッションし、悠々と言葉の壁を超えているわけですから、日本語の問題は確かに大きいとは思います。
しかし、アニメの主題歌やシティポップは、日本語のよさも評価されて広まっているわけです。浪曲や演歌などが、世界に出られなかったのは、時代ということもありますが、やはり、日本土着の文化だったのだと思います。
エスニックな歌が世界的なヒットになることは珍しくなく、そのときに言語が問われるわけではなさそうです。英語以外のヒット曲もたくさんあります。
 
それに対して、シティポップは、もともと欧米のものを吸収して、ほとんど向こうのように作ったものです。強烈なロックやパンク、メタルなどに対しては、AORというものです。
もちろん、日本人が作ると、バンドはともかく、歌や声においては、ロックでさえ歌謡曲になってしまうのですが。
 
その優しさ、柔らかさ、少し薄めた感じが、今の世界の人たちに受け入れられる。としたら、このようにも考えられます。
特に欧米人ですが、強さや正義を訴え、かなり強い歌を作っていた人たちが、少し疲れ果てて、弱ってきたところに、動物的でなく植物的ともいえる穏やかな日本人の感性が合ってきた。
 
私は昔、日本人と結婚する欧米の男性は、向こうの女性の強さに閉口した、弱く優しい人たちだといったことがあります。今でもそう思っているんですが。
彼らが、シティポップに感じるのは、懐かしさというのですから、こうした分析もある程度当を得ているように思われます。
コロナの危機や世界の戦争への懸念なども、影響しているのかもしれません。
そういったことを全く考えずに、のほほんとバブルの道を歩み始めた日本のあの時代、その能天気なイケイケの世界観が、シティポップには反映されているように思います。
 
〇本物と偽物
 
私は、最近まで、いろんなテレビ番組での、本物と偽物、あるいはものまねの人と比べるようなものに関心を持っていました。それは、自分の耳が、そういったものをどのように判断するかということが、これからの音楽の行方を理解するのに必要と思うからですが、少なくとも、指導する立場では、自分自身の歌に対する判断の有り様をつかむために必要だからです。
 
どの世代も、歳をとっていくと、若い人のものが理解できなくなり、その世界から身を引くことを強いられます。私が昔から、若いトレーナーにレッスンをかなり任せるようにしたのは、自分の勉強研究や人数的に体力的限界ということもありましたが、何よりも、若い人のことは若い人でないと理解しづらいところがあると、昔から感じていたからです。
 
日本の場合、平均年齢が上昇、後期高齢者層に団塊の世代がおり、この世界自体をそのまま円熟というよりは老化させてもきたので、そういう継承、変化が起こりにくくなっているわけです。
それでも、10代20代のアーティストたちは新しいクリエイティブな才能を持って、世に出ます。新しい作品、歌を出してきます。
それらは、かなり複雑で、歌詞も長く、デジタル加工され、ミックスアレンジされたようなものが多いわけです。
 
人間が生身でマイクなしに歌う歌から見ると、かなりアンドロイドっぽい声と歌い方です。
ヴォーカロイドによったように、人間のアーティストも、なっているわけです。特に日本の場合、それが顕著です。
 
なぜ日本の場合に顕著なのか、日本人の先に述べたような国民性もありますし、ある意味で欧米を追いかけていたことから逃れて、独自の世界を作っていっていると思います。
後者の面では、私は評価しますが、アーティストというより、オタクの応援などの、独創性などに目をつけていたわけです。オタクの振りつけを、世界中の人がまねているところには、若干、日本人として優越感を覚えました。
 
で、問題は、歌い手の声が、デジタル加工されていくと、区分けがつきにくくなるということです。ジャニーズの歌手あたりになると、ものまねの人の方をプロの歌手だと判断してしまうことも起きます。
ソロでなければ区別しがたいのは、確かでしょう。歌はメインでなく、副次的な要素として扱われているからです。そこまでいえなくとも総合的な演出でのツールの一つなのです。
 
昭和の歌と今のものまねの人の歌を比べると、歌以前に、イントロにさえ、リヴァーブがどのぐらいかかっているかで、区別がつきます。
それが、今のレコーディングものや、今のステージで歌ったものでは、同じようにリヴァーブがかかっているので、少しわかりにくくなります。それでも、実力のある歌い手であれば、声の芯やフレーズのメリハリでわかります。
ものまねの人たちは、加工や癖など、似させるための不自然さでわかるわけです。ストレートでなく、薄めているからです。
この辺の見分け方は、私のはてなブログfukugenに詳しく載せていますので、参考にしてください。
 
これが、もし作品として区別がつかなくなるということは、AIの音声技術で歌い手を作ってしまえばよいことになります。もちろん、作詞作曲も、これからはAIが作れるようになってくるでしょう。歌い手の声の作品では、人間の価値がなくなってくる可能性もあります。
 
例えば、これから故人の声が、再生でき、内容さえ作り出されるようになれば、遺族に、この技術は恩恵があります。
歌い踊るパフォーマーとして、ルックス、ファッションなどビジュアル面も合わせ、独自の自分の声を素材として提供すれば、歌わなくても、作品は出てくるわけです。
 
寿司職人がいなくても寿司ロボットでお寿司が回ってくるのと同じです。さすがに回転寿司と老舗の高級寿司店は、雰囲気も味も値段も全く違います。
しかし、歌の場合は、そういう状況では、どうするかということになります。歌も情報化されているのですから、そうでないところでしか、歌い手は残れないでしょう。
役者なども、舞台ではそう簡単に置き換えられないでしょうが、声や映像においては、背景をコンピューターで作るのと同時に同じように不要になりそうです。その他大勢のエキストラなどは、ほぼいらなくなるでしょう。
舞台は、ホログラムに変わるかもしれません。実際に初音ミクが、音声だけでなく、舞台として成り立つということは、そういうことを示しています。Perfumeなどをみても、そう思います。
すると、ヴォイストレーナーの役割というのは、声をプロとして養成することではなく、心身の健康面のフィジカルトレーナー、メンタルトレーナーみたいなものに需要が変わってくるかもしれません。
チャットGPTの開発者が、日本が先進マーケットというのは、とてもよくわかることではないですか。
 
(参考 「読むだけで声と歌が見違えるほどよくなる本」音楽之友社 P194より引用)
 
<コラム> これから歌手という職は成立するのか
 
20世紀は歌の時代、クラシックからジャズ、ポピュラーソングの全盛期だったといえます。蓄音機、レコードとラジオの普及から、カセット、音源、DVD、さらにネット配信まで、一気に立ち上がって移ってきたのです。特にマイクをはじめとした音響技術の進歩は著しく、生演奏しか聞けなかった音楽を電波に乗せ、盤にプレスして、世界中に届けました。
 しかし、日本ではいまだ歌の女王というと、美空ひばり(~1988)、それに並ぶものすら、出ていません。また、世界でも歌の女王や王様というのは、70年代くらいまでに出尽くしてしまったように思われます。日本では、特にカラオケの普及もあり、歌は身近になり、大衆商品として消費されていきました。
 
 日本で歌が流行しなくなった理由について考えると、次のようなことに思いあたります。
(1)聴衆が、一方的に聴くだけでなく、自らも歌うようになった
1.カラオケ文化の定着 ~歌は自分で歌うものとの
2.一曲すら聴く時間をもてない (聴く文化から観る文化へ) ~映像文化の発展
歌は聴くものでなく、観るものになった
3.TV、ラジオの役割の変容 →リスナーがきちんと聴かない
4.耳だけで満足せず、五感すべてで音楽を楽しむようになった
5.若者の興味は、携帯、パソコン、カラオケ、漫画、アニメ、ゲームに集結
音源やDVDはレンタル中心で、商品を買わなくなった
 
(2)歌の表現レベルの低いことに気づいてきている
1.日本人の他分野でのレベルが高まった (スポーツ、ダンス、バレエ・・・ )
2.世界と比較するようになった。歌手だけが、海外に進出できていない (いまだ輸入のみ)
3.民族や生活文化と遊離した。(邦楽、雅楽、浪曲、小唄、端歌、都々逸(どどいつ)の衰退)
ご当地ソングや時代を象徴する歌が歌えなくなった (童謡、唱歌、校歌、寮歌の衰退)
オリジナリティとしては、沖縄くらい。和楽器はブーム
4.もともと声のよい人、歌のうまい人は、一発屋で終わっている
  日本では育たない。30代で大御所となり、そのあとは実力低下。基礎力、基礎教育のなさ
  日本人の「耳」は、もともと、音声よりも歌詞のストーリー性やメロディを求める
5.CMやカラオケ向けのつくりが優先となり、画一化した (個性、オリジナリティの喪失?)
 
(3)クリエイティブで有能な人は、歌を音楽の一つのツールとして使うようになった
1.お笑い芸人が紅白歌合戦、オリコン・チャートに進出(今の歌手レベルに歌える)
昔、歌手になったようなクリエイター、詩人、作家は、今は映画監督や漫画、アニメ、ゲーム作家を選ぶ
2.歌手という職は、もはやない(作詞、作曲、印税でしか食べられない)
生涯一歌手、最新の曲を持って第一線に立ち続けられるスターの不在(美空ひばりまで)
力のある人は、プロデューサーかアレンジャー、作詞・作曲家、ドラマタレントへ転身する
3.興業システムの崩壊(いわゆる「タニマチ」やパトロンの不在、「小屋」、「キャバレー」、アングラの衰退)
4.ステージは、個人(個性)より、装置、演出に負うようになる
  レコーディングも、音響技術でつくりこめるようになった。(バンドを入れ、安易にステージができる甘さが裏目に)
デジタルリヴァーブのかけすぎで作品の画一化。(歌の下手なアイドルもいなくなる)
  即興性、ハプニング、時代性の喪失
5.厳しい聴衆、すぐれた評論家、指導者、スタッフの相変わらずの不在 才能のなさ、層の薄さ
6.世界的にも歌の政治的・社会的影響力は低下した(マイケル・ジャクソン、マドンナまで)
前衛音楽の失敗
7.IT技術、ネットなど、デジタルの主流化 ipodに代表される、編集を楽しむリスナー
エレキギターやマイクロフォンなど、楽器や周辺の技術も行き詰まり、ネットへ移行している
 
 お笑い芸人に比べても、今の歌い手は、下積みのキャリアを積めていません。十代での声質と勘のよい人が、シンガーソングライターとしてやっていますが、あとはタレント化しています。もともと、向こうのまねを日本流にアレンジして成り立ってきた業界ゆえの問題も、今に至るまで、先送りになっています。
 
 私は、海外では、街やホテルのラウンジでよく歌を聞きます。日本では、予約して(当日、並び)、入ったら最後まで出にくく、とても窮屈なため、あまり行かなくなりました。ライブハウスも、当日の流れの客は拾わなくなり、あらかじめ身内にチケット売りするので、人が人を呼ぶ流れがつくれません。
 日本人にとって、歌はもともと身内のなかでの芸でした。だから、第三者を巻き込む、パワー・インパクトには欠けているのかもしれません。歌はいつ知れずパッケージ化され、いまだに地に根づいていないように感じるのです。ドラマツルギーにもまだまだ欠けていると思います。わずかな光明としては、声楽界のレベルの底上げと、「劇団四季」の商業的成功くらいです。それでも、歌を深く愛し、求め生きている人はたくさんいるのです。ヴォイストレーナーのできることとしては、「自分のやっていることが正しく、自分と違うやり方の人は正しくない」という固定観念をとることで、ものの見え方が大きく違ってくると思います。
 
参考 「紅白の凋落と歌の力」 2022/12/28
〇歌の力と「人間観察バラエティーモニタリング」
 
紅白歌合戦をリアルでみなくなって、何十年たつでしょうか。
 
TV番組「人間観察バラエティーモニタリング」12/22では、岡本知高、高橋洋子さんのサプライズの舞台で、歌で感動させることを実演で伝えています。出だしの一声、一フレーズで引き込むと、いつも言っていることが、実現、実証されている好例です。
 
昔の紅白は、そういう歌での歌手たちの、その一年のヒット作を中心とした競演だったわけです。NHKの選出、選曲の愚かさは、指摘し続けてきましたが、リアルで見なくなってからは、もはや別物と思ってきました。
 
日本の歌を、のど自慢、紅白などで戦後、広げつつ、最大の貢献をしたのに、平成以降の紅白でダメにした。歌に関して、のことでして、年越しのお祭り、お楽しみなら、それはそれで。
 
〇紅白歌合戦の歌
 
紅白、白組最多出場の郷ひろみさんはともかく、ジャニーズ事務所から6グループ。民放でもないのにNHKへの貢献度によって選ばれている、昔からの悪しき風習でしたが、あからさまに極端になりました。歌と関係ないなら歌合戦の歌をとりましょうよ。
 
2006年から毎年、ジャニーズから司会者、来年は大河ドラマ「どうする家康」は松本潤さんが主演で、キムタクさん絡みでの、工藤静香さんの選出、その長女も出るようです。
次に、アミューズ、福山雅治さん、星野源さん、パフューム。朝ドラや大河ドラマにも多数の出演。2024年の大河ドラマ「光る君へ」主演は、吉高由里子さん。大泉洋さんの提携先でもあります。
さらに、業界のドン雅朝さんのJME所属の篠原涼子さんと鈴木雅之さんの出場に至ってはもはや、、。
と言いつつ、なんかPRにもなっている、で、いいですけど。
 
歌の力が衰えた今、役者や声優、お笑い芸人などで、お祭りを維持しなければならないのは、理解できます。
歌に関しては、裏番組の「年忘れ日本の歌」が引き受けているのでしょうが、もはや養老院慰問イベントです。
 
紅白は、質の高さでは、声や歌や音楽より、他のこと、豪華な舞台演出技術で保持されてきたのです。でも、その裏では、オリンピックと同じく、あらゆる癒着、駆引、挨拶から差し入れ、楽屋と桁違いに、複雑な政治が行き交い、昭和そのものの体制を引き継いでいるわけです。レコード大賞も昔は大変でしたが自滅していきましたね。
 
〇それでも絶対的な歌の力
 
歌は、しっかりした歌い手でセッティングされたら、いつでもどこでも、すごい力があるのです。マイクも演出もいらないほどです。声だけ、音だけで、、テレビでもこれだけ伝わるのですから、生で聴いたら、その感動は比ではないはずです。
 
こうしたバラエティーの番組、「モニタリング」のようなドッキリで、歌や歌手を使うのは、今の時代らしいといえば確かにそうなのですが、やむを得ないのかもしれません。
それでも、若い人が初めて聞く歌で、瞬時に感動や感涙するところを見れば、歌の力がいかに素晴らしいかわかるはずです。
昭和の歌ばかりを言っているわけではありません。今も覆面歌手たちが、大ヒットを生み出しているのが、その証拠でしょう。これについては長くなるので、後日、論じます。
 
歌が音楽的になるにつれて、声の力を失い、総合的なパフォーマンスに変わっていった、海外でも同じ傾向にありますが、特に日本の歌い手の退化においては、残念でなりません。よい歌い手が埋もれたり育たなかったり、評価されない、、。
 
とはいえ、アーティストである以上、客やメディアの責任でなく、それを超える力のなさとみるしかないのです。それにしても支える体制の貧しさは、目に余るほどです。いつまで、他の人の評価やランキングでしかみられないのでしょうか。
 
お笑いならM1優勝、小説なら芥川賞で、まさに一躍、時の人になります。もちろん、歌こそ最初に、こうしたスターを生み出す登竜門番組やオーディションがあったものでしたが、、。
 
2023/2/3fukugen抜粋
〇覆面アーティスト第二弾
 
<2022年は675曲のうち、45曲が顔を出さない覆面アーティストの曲。ランクイン回数は延べ462回で、毎週の上位100曲のうち平均9%を占めた。>(ビルボードジャパンの「Hot100」)
 
昨年は、Ado、Eve、動画サイトのHoneyWorks、ヴォーカル以外のメンバーが曲ごとに変わる、ずっと真夜中でいいのに。など17組がランクイン。2020年からの3年間で39組。
SNSで普及するのは、パワフルかつテンポの速い曲が大半です。
テンポのBPM#平均値は124なのに対し、覆面アーティスト平均は140とアップテンポ。
Adoの「うっせぇわ」BPM178、GReeeeNの「自分革命」 BPM182。
 
音楽を聴くのはYouTubeで、知るのは、TikTok(ティックトック)が多いようです。
日本では、ボカロの影響で受け入れられやすかったのでしょう。
米津玄師さんもボカロPでしたね。
 
2023/1/29fukugen抜粋
〇生LIVEの定義の変更
 
紅白歌合戦の放送時、NHKホールにバーチャル映像のウタさんが歌や踊りを披露し、生放送を示す「LIVE」という文字が示されていたのですが、生歌唱でなかったとか。
「ウタの映像演出や共演された皆様のダンスはライブで行われたもの。ウタのパフォーマンスに関しては、歌唱含めAdoは一切関与しておりません。ウタのパフォーマンスでの歌声は映画用に録音した音源のみです」との見解。
 
もう、生もライブも、あまり意味を持たないものになりつつあります。
特にヴォーカロイドの歌が評価される日本においては、本人が生で歌わなくとも非難されることはなくなっています。録画再生で視聴するのがあたりまえとなると、時事やスポーツと違い、芸術、芸能などは、パッケージに何の違和感もなくなるのでしょう。
それがよいことかどうかは別問題ですが、、。
 
だからこそ、一期一会、生LIVEの意味もでてきます。
 
「鑑賞と正義と表現 モニタリング」2021/10/13fukugen
 
ニンゲン観察バラエティー「モニタリング」の番組は、以前、小林幸子、天童よしみなどで、プロの歌はいかに違うかを取り上げました。ここのところでは、石井竜也さんや華原明美さんが出ています。X JAPANのToshi さんは、全体的な構成からメリハリのつけ方、伝えたいことを声に表して最大限の効果で伝える術を持っています。それは、この番組の方がわかりやすい、説明しやすいのです。
 
自分のヒット曲よりも、他人のヒット曲を歌うことによって、その人の本質、味、個性、才能、強みがわかることがよくあります。カラオケの番組や芸人の歌番組などもあり、俳優や芸人の歌唱力もそれなりに高度なものですが、1曲の中で感動させ泣かせ、1つのドラマを作ってしまう一流の歌い手の力は、全く別次元のものです。
 
その人の個性がどのように、音楽、歌、曲やメロディを通じて現れていくか、こんな面白い事はありません。出来上がりすぎた歌い手はつまらないものですが、全盛を極めた後の歌い手が、頼るところはプロとしての表現の本質、絶好調のときには隠れていた感覚が出てきます。つまり最低限の武器を最大に使うということで、とても歌の表現が成立するエッセンスがわかりやすいのです。ファンでなくても、とても感動させる歌になることがあるのです。皆さんも楽しんで観てください。
 
鑑賞することは、自分なりに解釈して
意味づけて、自分なりにつくり直すことです。
他の人の見方を得て、他の人にもなれるし、
他の人のを見て、自分を知ることもできるのです。
 
正しい側に立つことのカタルシスを抑え、
正しさに収まらない存在をいつも想像しましょう。
 
自らを出すことのカタルシスを抑え、
相対化する力をもつことが、重要です。
自己批判を忘れず、その批判の上に、
自己を超えるものを
示しましょう。

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