論89. 歌の判断と個性を活かすレッスン(12600字)
〇声の基礎づくりとオリジナルな歌唱
私は、歌い手をレッスンする立場として、与えることは、2つあると思っています。
一つは、声がしっかりと体から出るようにすること、
もう一つは、優れた歌というのはどういうものかを見極め、それに対して、自分の歌を自分自身のオリジナリティある表現として確立させることです。
歌というのは、どんどん、楽器や音響技術の発達とともに、総合的なエンターテイメントとなってきたので、この2つのことは、かなり疎かになっています。
原点としては、何もないところで、声だけで歌ってみること、
そして、多くの人が歌ったなかで、最も優れていると思われるものが何かを自分なりに捉えてみるとよいでしょう。
作詞や作曲、アレンジの能力、あるいはバンドや、プレイヤーの演奏能力、さらには、パフォーマンスやダンサブルなステージ、舞台の演出なども含めた総合要素の中で、問われてしまうと、歌もヴォイストレーニングも、あまりに複雑になりすぎるからです。
〇声とポップス
声だけの歌唱を最も端的にわかる基準で見るなら、アカペラ、無伴奏、音響なしにします。
歌でいうのなら、一方には、オペラの最高峰、クラシック歌手の歌唱というものがあり、もう一方には、世界中の各地で歌われている民族音楽、エスニックな歌の歌唱があると思います。
両方に対して、私は、その声の出方そのものに魅了されたり、感動することがあります。
基準は、そこに、またがって、とればよいと思うのです。
とはいえ、この2つは、ポップスと違い、両方とも長く継承され、いろんなものが積み重なって成り立っているものだということです。
もちろん、優れた演奏者は、そこで、その名前で賞賛されるほど、個人的なオリジナリティを持っているとはいえますが、どちらかというと、歌い手よりも、歌曲、音楽が、価値として継承されているきらいがあります。
それに対して、ポップスという立場を取る場合では、その人の個性、オリジナリティが絶対です。
ですから、歌い手と個性という関係となると、ややこしいところになるわけです。
例えば、役者や声優でも、いえ、どんな職業のどんな人でも、歌うことができます。スポーツ選手でもレコードを出していた時代には、歌は、その人のスピーチくらいに、日常ありきたりのものに過ぎなかったわけです。声、話、歌は、顔と同じように、それだけで個性でもあるからです。
〇歌手と役者の個性
ポップス歌手における個性というのが、どういうことかということは、その人間の個性と切り離せないものです。歌唱の個性とも切り分けがたいのです。
少なくとも、個性的な役者だといわれる人が、評価されるのは、舞台や映画の中であって、日常のなかの個性ではありません。
ところが、役者や歌い手というのは、日常が、芸事と分かちがたいところがあるので、そこを同一視されてしまいがちなのです。
特に役者の場合は、区別しにくいところもあるでしょう。ただ、自分の演じている役柄が、日常の自分とかけ離れている場合は、区分けができます。
ポップス歌手における個性というのは、その人自身でなく、先に述べたステージングやパフォーマンスなどでなく、歌そのものにおいて見なくてはならないと思うのです。つまり、ミュージシャンとしての才能なり素質なり表現法ということです。歌唱での個性ということです。
役者や声優でも多くの人が歌っているのですが、それは、その役柄になりきっているということです。もちろん、役者としての自分の個人の世界として、歌っている人もいます。中にはミュージシャン出身であったり、楽器などもこなして、音楽活動をしている人もいるから、簡単にわけられるものではありません。
ですが、私の耳で聞いてみて、役者の歌というのと歌手の歌というのは、大きく違います。もちろん、違うというのは、ざっくばらんに大きく切ってということで、一般的に、ということです。一般論はあまり意味がないのですが、この際ですから、大雑把に理解してみてください。
〇語りと歌唱
例えば、語るように歌うような歌があります、大雑把にはシャンソンなどがそういわれているのですが、それは演劇的、役者の世界、せりふの表現、それに対して、声を聞かせたり、音楽的な美しさで見せるような歌、大雑把にはカンツォーネなどですが、それは、音楽的、歌唱の世界、メロディ表現ということです。かなりの誤解を恐れずにいえば、です。
単純にいうのであれば、ポップス歌手は、ミュージシャンと役者の両方の要素をもつことになります。定義するのに、最も難しいのは、ポップスの歌手だと思います。それぞれ売りにしているものが全く違うからです。
その中には、先ほど述べたような、ダンスで見せる、ビジュアルで見せる、作詞や作曲の世界で見せる、シンセサイザーなど音の世界で見せるなどもあります。
ミュージシャンの度合いもかなり違うでしょう。YMOの3人は、ポップス歌手やシンガー、ヴォーカルではなく、ミュージシャン、アーティストだと思われます。
〇日本のポップス
日本の場合は、歌謡曲、流行歌、演歌、ニューミュージック、J-POPなど、いろんな分け方がされてきました。その中でも、本格的な歌い手といわれる人もいれば、アイドルやタレントといわれる人もいます。
かつて、ポップスの歌手というのは、10代から20代で、何曲かヒットさせて、時代を作るとともに、その時代で終わると思われてきました。
事実、そういう人たちは、30代になると、音楽業界を去るか、残ってもプロデューサーやマネージャーになったり、作曲家になったり、あるいは関連分野に転職していったりしたわけです。
しかし、この高齢化の時代、支えるファン層も長生きすることになり、生涯現役の歌手も多くなったわけです。特にシンガーソングライターが出てからは、印税での収入も多くなり、他の歌手に曲を提供したりして、その世界で生活できるようになったということもあるでしょう。
その年に流行した歌を中心に組み立てられていた紅白は、1990年代くらいから、しだいに懐メロの方が増えてくるようになりました。今も、新しく出てくる何組かを除けば、ほとんどが以前のヒット曲を並べています。カバー曲も多くなりました。
〇ポップスの評価基準
話を戻します。つまり、ポップス歌手の評価ということです。役者の語りは、しぐさ、表情、語り、雰囲気中心、エピソードを中心とした自己演出のステージです。あるいは、作品での一人舞台。トークショーなどがわかりやすいです。
それに対し、音楽的な才能や個性によって、成り立たせるのが、ミュージシャンとしてのポップス歌手のステージです。
トレーナーとして、そういう人たちを扱った場合に、どのように、その個性と音楽性をみるのかということになります。
これはとても語るのには難しい問題なので、逆のパターンの方から入ってみたいと思います。
私は、プロの歌い手として勝負している人を、3つの力で、分析しています。
1つは声そのもの、もう1つはオリジナルのフレーズ、最後は、曲全体の構成や展開力ということです。
これについては、私の著作物やブログに再三、語ってきたので、省略します。
ともかくも、この3つの能力が必要とはいえ、どれか1つに突出しているだけでも、日本のプロの歌い手としては、稀有の存在として、実力派としてやっていけるというような基準です。
本当に厳しい基準で見た場合、大体の人の場合は、最も世界で優れたヴォーカリストを聞いた後に、聞いてみるというふうに考えてみてください。
3つのうち、どれか1つでもあるのか、程度によりますが、ポップスでの実力派歌手というのも、なかなか見当たらないものです。
〇声の力
で、逆のパターンから入るというのは、シンプルに声そのものだけが、とてもよいというところからみるということです。
演歌や民謡歌手の中に、そういう代表のような人たちがいます。
これは声がよい、喉がよいというようなことですので、お祭りや盆踊りなどで歌うような人です。
かつては、香具師といって、口上でモノを売ったような人たちなども含まれると思います。
今のNHKののど自慢は、のど自慢ではなく、どちらかというと、総合的な歌唱の要素になっています。昔は、ちびっ子で喉のよい子も出ていました。お年寄りでも、何の分野かわからずとも、声のプロ出身とすぐわかるような声の人がいました。
もちろん、音感やリズム感などは必要ですが、この場合は、まずは、声そのものの魅力、音色やヴォリュームです。楽器そのものの1音を長く伸ばしたときに、誰もの心に残るという、そういう面での優れたものとしての声です。
オペラ歌手や演歌歌手で、すごく歌唱力のある人が、今のポップスを歌ったときに、声はいいけれど、何かピンとこないというようなケースも、です。そういう人たちの専門は、ポップスでないから、ここでは問いません。
しかし、最初に述べた、歌い手の声そのものを作るというところでは、このことは、基本の条件となるわけです。
素質もあるでしょうから、これをトップクラスにするというよりも、今の状態よりもできる限り、磨き上げ、鍛え上げるということが望まれます。
〇日本人の地の声と歌声
私は初期の本で、日本の声楽を勉強しに行くよりは、先に役者としてのしっかりした声をつけてから、歌ったほうがよい、そのうえで、声楽の学びを兼ねた方がよい、と提唱していました。
海外のヴォーカルに比べ、日本の、その頃のポップス歌手が、声量不足に陥っているのを身近で見ていたからです。
そして、当時は、役者の養成所の方が、声そのものに関しては、短期にしっかりした成果をあげていたわけです。
音大というのが18歳からというのは、あまりに早すぎて、むしろ20代半ばくらいから、始める方が効果が上がるようでもあったからです。
ポップス歌手の場合、10代である程度、完成してしまう人も多いので、そこは悩むところなのですが、大きく2つの完成の時期、目安があると思ってもよいのかもしれません。
役者などと同じように、若くて10代で勢いだけでいけてしまうときの魅力、それと、そういったものが頭打ちになって、本当の意味で技術を極めて自分の個性を出していかなければいけない時期と、です。
なかなか、ポップスでは、30代以降にデビューするというのができないので、ここは今でも難しいところです。
中学校などの合唱部などで、とても優れた子というのは、音楽的な基礎をつけているといっても、その後に、ポップスでうまくいくかとなるとまったくの別問題といえます。とりあえずは、発声と共鳴の技術、歌唱の基本が入ったというだけです。
タレントやアイドルと違い、それだけが入っているだけでもミュージカルなどなら有利なのかもしれません。しかし、喉の場合は、変声期というのもありますから、小さい頃から楽器のプレイヤーのように誰よりも時間をこなしたというだけでは全く足りません。
〇多様性と価値観
ミュージカルという話に及ぶと、なおさら、ややこしくなりますが、日本のミュージカルというのが、また特殊なわけです。
日本のエスニックな音楽、シャンソンからカンツォーネ、ラテンなどといったものと同じように、独特の世界観を持ち、日本風の判断基準ができているからです。
そういうことをいうと、日本の邦楽、伝統音楽から、朗読、詩吟、声に関するものだけでなく、すべてに対して、日本のそれぞれの道に判断基準があり、要求される要素も違うわけです。
家元制度があり、それがまた分家して流派になっていくために、複雑になっています。どこかに名人がいたはずなのですが、そこから何をもって、次の名人というのか、何をもって上達というのか、絶対的でないからこそ、価値観が分かれていったことは、容易に想像できることです。
そうした多様性が出てくること自体は、悪いことではないのですが、先代が自然にやっていたことをマニュアル化することによって、形骸化していっていることが、とても多いのです。
その結果、組織が大きくなっていても、優れた芸は継承されない。ただの習い事として、やがて衰退していくのです。いわば閉鎖的な宗教のようになっていくともいえなくはありません。
〇ポップスの判断基準
私も、そうした人たちとの現場ではずいぶん悩まされてきました。自分自身の、感動しないものにも価値があるというところに関しては、そこをわけて考えるというような第三の判断基準を持てるようになりました。だからこそ、ポップスについても、このように言及できるわけです。
大前提としてポップスも、閉じこもってしまってはよくないということです。決めつけはタブーです。ですから、今、流行しているものは、認めるようにしています。
ただ、そうした組織も分類も、何もかも、あまり広くいい加減ななかで動いているポップス、ポップスは、それでこそポップスであり、それでよいということでもあるのですが、
問題は、ポップスのヴォイストレーナーという仕事でのスタンスなのです。
定義も基準も確立しない、そういうことであっても、レッスンでは明確な基準を持てるように常に総括することは、必要なことだと思います。
〇声での基準 声の芯
第一の声そのものでの基準では、ヴォイストレーニングの、基礎の基礎、本当に身体から出る声を身に付けるというところに落ち着きます。このことだけを専門にしているようなところさえ、少なくともポップスのヴォーカル教室やヴォイストレーニングにおいては、ほとんど見当たりません。
声楽家では、日本でもきちんと行っている人たちがいて、それは確かに成果を出しています。日本のオペラのレベルの底上げになっています。
ただスターが生まれない、という致命的な欠点を抱えています。
それでもオペラは、オーケストラを含め、全体の力で上演するものですから、中堅以上の力のある人たちが、それなりに育っているところは、日本のオペラの研究とそれに基づく声楽のトレーニングの成果とみてもよいと思います。
声の基礎づくりを、私は最初、役者の、「芯のある声」のところに結びつけました。せりふとして、小さい声でも遠くまで伝わるようにしようと。そここそが、ブレスヴォイストレーニングとして、提唱したところです。
しかし、平成以降、ポップスの歌唱の傾向やミュージカルなどに、若い人たちが、焦点を当てて、ここにいらっしゃる以上、声楽に置き換えた方がよいと考えるようになったわけです。
ポップスの歌唱も、パワフルな声から、柔らかい声のほうに変わっています。これは世界的な傾向のようですが、日本の場合は、そこにかなり偏向しているのです。
〇歌唱の基準
声の基礎づくりが、それでよいのであれば、もう一つの歌唱表現に関すること、これについては、相手の状況や目的にも大きく左右されます。
私自身の中では、いくつかの基準があります。
それは声の基礎づくりの上に開花するのが望ましいのです。ですから、その一致を第一条件としています。
ただし、実際は、5年や10年もかかる、発声の本当の基礎の確立のところまでは、なかなか待てません。いや、待ってもらえません。ステージやオーディションを間近に控えて駆け込んでくることもよくあるからです
そういう場合は、今のバランスを崩さないところで、声の調整と、歌唱における欠点の補強、フォローに努めます。下手に大きく変えようなどと思ってしまえば、それこそフォーム、バランス、何より本人の自信を壊しかねないからです。
声の基礎づくりと発声は、歌唱という応用に対して、なかなか複雑な関係にあるのです。
楽器でいうと、楽器作りでもあり、弦の張り替えやボディの強化でもあり、あるいは、楽器に対してどのような演奏フォームを改良するのかということでしょうか。
さまざまなことが、楽器が身体と一体化している場合に切り離せないことで問題があるからです。
〇補充と補強
例えば、それなりに仕上がっているヴォーカルがいらしたとしましょう。ここにいらしたということは何かが足らない、そこを補強したいと思われているわけです。
およそ半分の人は、呼吸での問題です。絶対的にその条件が足りません。
次に、呼吸を声にするところ、そして、声にしたところ、つまり共鳴させるところです。
それなりに、70%くらいの基礎条件を持っていらしたときに、それを応用の歌唱の方から直すのか、残りの30%を詰めていくのかは、判断に迷うところです。
物事は何事でも、70%くらいは、30%くらいの時間で進められるのですが、そこからの20%、を詰め、90%に行くためには、それと同じ以上の時間がかかるのです。
さらに最後の10%などとなると、そこまでの時間と同じ以上にかかっても難しい場合もあります。
ミュージシャンは、そうした険しい道を進みます。ここでの例えなら、85%くらいからが、プロの世界になるのでしょう。そこからの歩みは、それまでの歩みと違い、とても厳しいものです。多くは、そこで留まり、活動に専念します。劣化防止がヴォイストレーニングとなるのです。
すごくシンプルに、楽器を例にいうなら、プロになる手前のところまでは、プロと同じ速さで間違いなく弾けたら、よいわけです。しかし、そこからプロになるところまでは、そんなことは当たり前、最低条件となります。
本当の演奏力、そこでは表現力を兼ね備えなければなりません。さらに、プロとして一人前と認められるためには、プロに認められるというオリジナリティ性が必要となってくるわけです。
とはいえ、ポップスのバンドの場合、必ずしも、クラシック世界での一流という演奏力までは必要とされません。プロになる手前のところまでのキャリアがあれば、バンドとしては充分です。
ヴォーカルの場合は、このようにしてみると、あまりに人によって違って、何%という目安さえ出しにくいのですが、あえてミュージシャンに必要な条件として考えていくと、プレイヤーと同じだけの感覚の開花は、必要でしょう。
技術としては、声の基礎条件が整っており、それを扱えること、ここがとてもややこしいのです。なぜなら、楽器の場合はその基礎条件というのは、それなりのものを買ってきて、調律さえしっかりすれば整えますが、声の場合は、どこがそういう条件なのかが、わかりにくいからです。
〇アウトプットでのバランス
例えば、ある音の高さのところだけ、とても魅力的で自由になる声があったとします。本来は、それで1オクターブ半、揃えたいのです。
大体の場合は、それだけの声域をとると、その音の高さのその声が出ません。
魅力的な声の可能性を妨げるから、声域を重視しすぎてはよくないのです。☆
多くの場合は、ヴォーカリストはアウトプットである表現を重視して、まず声として扱いやすい声を選びます。そのときにあまりにも音色やどこまでていねいに扱えるかというようなことは重視しません。
なぜなら、自分の声であるオリジナリティと、言葉という楽器にはない強さがあるからです。音を出す、その音をどのように聞かせるかというところに、プレイヤーほどこだわらないからです。いや、こだわるほどの余裕がないといった方がよいでしょう。
そこはマイクを使い、音響などでかなりカバーできるということで、あまり問題にならないのです。
その人の声だとわかる声というのは、誰でも出せるわけです。それをそのままオリジナリティとするのは、本来はおかしなことなのです。しかし、役者と同じで、その声を問題にすることはあまりないのです。
楽器の場合は、求められる音に合わせて楽器が改良され進化してきました。
オペラや伝統音楽の歌唱においては、声について似たようなことが行われているといえます。音色が重視されます。
ですが、ポップスはむしろ、一声でその人だとわかる声、それは、普通でないわけですから、異常であったり、おかしかったり、癖があったりするのが、案外とよかったりもするのです。
〇オリジナリティのパワー
問題はその人にとって、それがどうなのかということです。本人が気に入っている場合、気にいってない場合もあります。
本人の希望というのは、自分の好きな楽器を選ぶのと同じように非常に大切なことなのです。
ただし、楽器と違って、そこで好きな声、音色を選んだとしても、それが声域をもって自由に使えるほど柔軟性を持って扱えるかどうかは、別の問題です。
ですから、トレーナーは、正しいといわれる発声、共鳴などにこだわるわけです。それを妨げるような、喉にダメージを与えるような発声をしていると、長くは続かなくなるし、表現にも制限が出てくるからです。
ところが、そこには、かなりの個人差があるのです。
到底、無理な声で痛めながら発声しているものが、いつの間にか、ものになる場合もあれば、その延長上でスタイルが変わり、向上するような人もいるわけです。
そもそも、ポップスの歌い手の声というのは、普通の人が聞いてみると、必ずしも美しいとかきれいというものではありません。個性的といわれる人については、かなりクセがあり、ハスキーであったり、痛めないのかと思われるような声も少なくありません。
ですから、トレーナーは、一般的な人や自分の発声を基準に判断するのを重視してはならないわけです。
〇再生力
あまり、個性ということを重視していると、ここもキリがないので、簡単な判断基準をあげておきます。それは発声、歌唱で再生が効くかということです。
練習であっても本番であっても、同じことを繰り返さなければ、上達はあり得ません。また繊細な表現もできないでしょう。
声の音色や出し方がどうであれ、それを10回で同じにできるかといったときに、再現できるかです。
10回全く狂わずにできることです。しかも、いつでも、どこでも、できたら無理なく自然にということです。何時間続けても、何日続けても、ということです。
ただ、基礎がないところでの再生力や応用力は、くせで固めてしまうことが多く、それで安定、再生とみるのでは、長い眼でみるなら逆効果です。そこは、気をつけなくてはなりません。そこでOKを出すトレーナー、プロデューサーばかりだからです。
理想としたい発声というのは、それを行っているうちに、どんどん自由度が増してくるものです。それは、声を出す前に、声を出す状態というのは、必ずしも整っているわけではありませんが、すぐに対応できるということ。
少なくとも少し声を出していくうちに、それなりに出しやすい状態となり、後は、それを繰り返す、そこで再生力が問われるのです。
再生というのは、バッターの素振りだったら、10回振って、どれだけ正確に繰り返せるのかです。何センチ、あるいは何ミリ狂うのかということです。
先日、大リーグのワールドシリーズで、ホームラン競争を見ました。2本に1本ぐらい、スタンドに放り込むような、大リーグのスラッガーを見て、日本との違いを大きく感じました。
パワーはもちろん、自分のベストのフォームで、1ミリも違わないように、毎回、投げられたボールに合わせられる技術があるわけです。
ポップスの歌い手に問われることも、そのようなことだと思えば、目標は高くできるのではないでしょうか。
〇現場からの選択
とはいえ、現場の方で、今のように高音や裏声が多用され、しかも、声域が広く、音程も結構ある場合には、それに柔軟に対応できる声が選ばれることになります。
美空ひばりのように、あらゆる音色を持ち、広い声域で自由に連結させるような、本当の意味で一流の歌唱の基礎があるポップスの歌手というのは、そうはいません。
またオペラのように同質の音で揃えられたような形で、声が共鳴させられている場合も、なかなかポップスのファンの感性には合わないようです。
特に日本のように、誰かに似ているほどうまいと思われるような、聞く耳のない、そこに音楽性、構成や展開などを求めないような聴衆に対しては、そうしたものの完成にどこまでこだわるかというのも問題です。結局、本人の要望次第ということになります。
発声の基本をきちんと習得するということは、調子が悪いときにカバーすること、ハードなステージに耐えること、人生の長い期間において歌い続けられること、という3点から、必要です。
ヴォイストレーニングで、私は、そこでの必要性を説くことが、多くなったわけです。役者や声優に対しても同じです。
役者の育て方のように、発声の基礎を教えたら、後は現場に任せて、なりふり構わず、伝えることに専念するべきだというような、役割を割り切ったヴォイストレーナーもいます。
しかし、歌唱法や演奏法、つまり歌の表現世界が、イメージとしてあるのであれば、それに対する声を準備していくということも、ヴォイストレーナーの、大切な仕事だと思うのです。そこは、プロデューサーやディレクターのその場での判断とは異なることが多いからです。
〇現場よりも自分本位になる
このイメージづくりについては、どうしても歌い手本人が主体となります。
しかし、大体の場合は、正しくしっかり歌うことで、精一杯な歌い手の場合、そこまで気が回りません。
それでも、少しでも早くから、自分の伝えたいことをどのように伝えているかというような、メリハリの付け方や、声の音色、構成から展開に至るまで、イメージを豊かにするということは、学ばなければ高まっていかないのです。
といっても、天性のセンスだけで誰からも教えられずに習得して、自分の歌に活かしている人が、10代のプロの歌手にもいるのですから、歌は才能なのだといわれてしまえばそうかもしれません。
しかし、トレーナーの役割というのは、そうでない人に、そういう要素がどのようにすれば身につくのかを伝えることです。そして、天性に恵まれた人にも努力でさらに上にいけるステップを示すことだと思うのです。
多分、先の例でいえば、本当に優れたバッターというのは、ボールが来たら打つだけだというでしょう。そうした天才肌の人の感性の鋭さというのは、メニュに落とせることではありません。
しかし、それを理詰めでも考えに考えて、一流の選手になった人もたくさんいたのです。
大谷翔平選手を見ていると、その両方を兼ね備えているようにみえます。
そういう才能のある人たちの学び方をメニュにすること、そして、そうでない人も使えるようにするのです。
これは、実際に歌い手自身には歌えても、それゆえプロセスに分けられないから、プロの歌手出身のトレーナーに聞いても、指導されないことです。
だからこそ、私は、ある程度まで、メニュにして、材料と基準として与えています。
〇天才に学ぶレッスン
これは、簡単にいうと、まずは優れた歌を聞いて、そこの中のポイント、要素を自分なりに分析したり、真似たりしながら、その差について気づくということです。
そういうなかで、自分に合わないものは、排除します。
何でも参考にするのは構わないのですが、好きだからといって、必要以上に真似しないようにすることも重要です。ここが楽器のプレイヤーと違って、喉に大きな個人差のある歌手には、とても大切なところです。聞くだけでも、声のイメージづくり、いや声そのものによくないことさえあるのです。
もう一つは、自分自身が、イメージをきちんと持ち、それに沿って歌うということです。
歌ったところでのイメージはわかりますが、その描こうとするイメージまで見えませんから、私は、あらかじめシートに書かせて出させています。
自分の練習の中で、歌を何%くらい完成してきたかということと、実際にその場で歌ってもらったときに、それのさらに何%くらいできたかということを把握させることです。
練習のときよりもうまくいったり、そのときとは全く違う感覚でもっとよくなったというのが理想です。
しかし、本人自体の何%という基準自体が、本質からそれていることもあります。
難しいのは、多くの歌手にとっては、正解だということが、その人には違う場合も多いということです。
いえ、ほとんどの場合、厳しい目で見ると、そうなります。
優れた人ほど、他の人が真似ると間違えているところで、自分のど真ん中、正解を出しているのです。
一人ひとりで全く違ってきます。しかし、大体の場合は、3回、歌ってみても、3回とも違うように歌う場合が多いわけですから、まずは、それが狂わないところで表現できるようになることが必要になります。
しかし、本当の表現というのは、それが狂ったときに現れることが多いのです。
練習でそこまで求めるわけではありません。
もっと厳しい目で見ると、1回ごとに違ってくるのです。最初の出だし、呼吸や踏み込みが少し変わっただけで、全体の構成や展開も、変わらなくてはならないのです。
その辺の、自然と流れが作られたり、流れに乗ったり、自分なりに流れをコントロールしたりするところが、私のチェックするところです。
大体の場合は、そのシートを見ると、どのぐらいの実力かというのがわかります。そして、伸び率も大体わかるわけです。
そのシートに、述べられたことぐらいは、大体はできるようになってきます。
しかし、そのシート通りに歌ったところで、歌のうまい人、カラオケがうまい人あたりに過ぎない場合が多いわけです。
つまり、目的自体が、同級生のなかで1番になるくらいのイメージであれば、それ以上に伸びないのは当たり前です。ですから、そのシートにしっかりと書けるようにアドバイスしていくわけです。いわばヴィジョンです。
ちなみに、そのシートで一番書けないところが、音楽的構成と展開です。
〇デッサンを勉強法にする
もちろん、感性が鋭い人が皆、文章にうまくできるわけではないのですが、私がこれまで見てきたところでは、アーティストというのは、私が驚くような、言葉遣いがあったり、そういう言葉を生み出したりしてきます。
きっと、何かしら、自分の中の試行錯誤の中から、自分の腑に落ちるような言葉が見つかるのではないかと思います。もちろん、文章が全く書けなくても、歌がよければいいわけです。
トレーナーとしては、何らかの基準を設け、その基準に沿って説明しなくてはならないときもあるので、言葉を使える能力というのは、とても大切です。そのイメージが共有できることが、レッスンで大切なことです。そこまでに相当の時間がかかることもあります。
その人のベストが出やすい作品を見つけるのも1つの手段です。何曲も歌ってもらって、どの曲がという大雑把な指摘ではなく、どこのフレーズがよかったというのをピンポイントで示すのです。これは、あなたの個性的なところだ、オリジナルだという具合に、です。
これは、先に述べた、3つの条件の、声、フレーズ、構成と展開では、フレーズにあたるところです。つまり声のデッサンです。その人の個性的な表現の基本になるところです。
絵画でいうと、デッサンというのは、線であり色です。色はなくてもよいのですが、歌の場合は、メロディがフレーズで、その音色も大切です。
役者、声優さんでいえば、ヴォイスサンプルみたいなものです。せりふを一言だけいってもらって、それで見極めるというようなものかもしれません。その人の最もベーシックなところでの力が出て、しかも、そのまま使いたいような個性があるかどうかということです。
歌い手の場合は、フレーズは、単に声だけでなく、その音楽的な要素を伴っているということになります。
〇切り替える
現実には、舞台で求められるもの、ミュージカルなら、そこの劇団の特色というのがあるでしょう。それに合わせることも必要なので、半分は、妥協しています。
ただ、ソロの場合は、徹底して、このオリジナリティが、場合によっては、発声の基礎よりも重要な場合が多いわけです。
最後は、本人がどのように歌いたいのか、どういう表現を求めるのかです。本人の考える歌唱ステージのイメージです。そこでは、こちらも最終的に譲ります。
もちろん、声などに無理があるときは、そのような制限やデメリットがあるようなことも伝えます。その上でどのように選ぶかというのは、最終的に本人に任せます。
つまり、いくつかの選択を示し、それぞれのメリット、デメリットをはっきりとさせるということです。
そして、当人が望んだものに合わせるように、レッスンします。このときに、歌唱のレッスンとその既存のヴォイストレーニングとを切り替えなくてはならないことが多いということです。
まして、将来の理想を求めていくのであれば、そのレベルが高いほど、この2つは相反するもので、結構、距離があるのです。
今日レッスンしたような発声でそのまま歌えるというのは、調整です。決して、大きな上達が望めるものではないのですが、現場においては、ステージが近い場合、それを優先せざるをえません。この辺の、相克については、これまでも述べてきたので省きます。
〇まとめ
今回は、歌というものをどのように判断するのかを、レッスンの現場のところで、どのように進めるかについて述べました。一流の歌というものに対して、そのどこが一流なのかということを、いずれ、分析し、トレーニングの材料に提供したいと思っています。
ただし、あくまで、それは本人ではない他人の歌なのです。本人に寄せて、どのようにするかということは、せいぜい、本人の延長上にある理想のところに近い、ヴォーカリストや歌い方を、紹介して聞かせることが1番だと思うのです。
このときに単に、一流の歌い手やトレーナーの好きな歌い手を紹介するというのは、喉というかなり個人差の大きい楽器にとって、逆効果になることもあります。
聞くのは、何にしろ勉強になるので、たくさん優れたものを聞いていくとよいのは、たしかです。量がたくさん入ってくると、それなりに質的な変化を起こす人が少なくないからです。
しかし、レッスンにおいては、最短距離とはいいませんが、できるだけ、確実なステップアップを目指したいものです。
何千曲も知っていて、何百曲も歌っている人が、必ずしも、歌がうまくないということからもわかるでしょう。要は、そこでの学び方が決めているわけです。
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