論98.声のつかみ方Ⅰ(5870字)
〇歌声の芯と感覚とシャウト
もともと私はヴォイストレーナーなどというものも知らないとき、声そのものの研究に興味を抱いたのですが、それは、海外のヴォーカリストの声を聞いて、自分の声と根本的に違うという直感からでした。
彼らは、しゃべる声も魅力的でしたが、なによりもそのまま歌に入っていけて、囁くように歌ってみたり、シャウトしたりしても、変わらないことに、です。
なんとなく、声をつかんで投げて、吐き捨てたり、置いたりしても、中心の線のようなものがあって、そこから、逸れないわけです。
その後、私が使ってきた言葉でいうと、「声に芯があって、声の線がみえる」ということです。
ですから、小さな声であっても、遠くまで通るし、マイクに入りやすいです。
そのままシャウトすることもできれば、響かせることもできます。しぜんとロングトーンにもできます。
自分で歌ってみて比べてみると差は、さらに明らかになりました。
そこで気づいたのは、彼らのは、まず第一に、音色が安定して変わらないということです。
そして、その音色自体に魅力があることです。
十代の私の場合は、高くなるほどに、細く弱々しい音色になりました。もちろん、どの声域でも、素人丸出しの声でした。
それに対して、彼らの場合は、高く歌ったということさえわからないくらい、しっかりと統一された音声で表現しているのです。男女ともに、太く深い声なのです。もちろん、細い声のヴォーカリストもいますが、それでも針金のように鋭く、コントロールを失いません。
何よりも、私が音程やリズムに気をつけて、フラットしたり、ノリに遅れないように歌っているのに対して、彼らの場合は、そういう感覚さえないようなのです。
片や、スケールの音階を意識しなくてはならない私は、ピアノで鍵盤を1つずつ確認して押さえているみたいなのです。
彼らのように、単に声を吐き出している、鍵盤をぶったたいているようなのにメロディがとれるのが不思議でさえありました。それで出す音がまったく狂わないのです。
なぜ、それでメロディがとれるのかが不思議でした。まるでメロディのスケールのピッチの声しかないようでした。それは、美空ひばりなど、音感がよいと聞こえる歌い手の特徴です。
しかし、声がハスキーなロックの歌手では、音程、音高という感覚さえない、まさにシャウトなのです。
〇外国人とクラシックの歌手
このシャウトというところから入ると、日本のヴォーカリストで、あまり見本になる人はいませんでした。シャウトしていると、音が彼らほど正確でない、単に叫んでいるのと、シャウトで歌うことの明らかな違いです。同じレベルでは、カルメンマキさんのシャウトくらいでした。
ジャニス・ジョプリンの歌を聞くと、喉が潰れるだろうとわかるほど、歪んでいます。その声とは、いったい何か、どう出ているのかというところから、接点がつかないでいたわけです。サッチモ(ルイ・アームストロング)も、そうした部類です。
そのまねで、喉を壊す白人が多いというので、私は、まねるのは、断念しました。
そこから、学ぶプロセスがあるのでは、ということで、クラシックに学んだのです。オペラ歌手の発声もまた、素人の私には、まったく感覚的に追えないものということ、また、先にあげた違いのところでも、似たようなものだったからです。
つまり、楽器としての身体、発声をする、音色をつくる、その身体のところでの差です。その当時は、喉やその使い方だと思っていたのですが、その違いは、明らかに、子供と大人ほどあるわけです。差というより、違い、それが見えなかったわけです。
それは、私の場合は、声は、とくに弱々しかったから、なおさらです。
一方で、日本のポップスの歌い手を見ると、とても発声がわかりやすかったのです。ロックがまるで歌謡曲のような音色で歌われていたからです。
ミュージカルなどになると、合唱団のように、音程を確かにすることで精一杯、まさに、私の延長上の歌い方だったからです。
もちろん、日本にも、それとは別に、クォーターの尾崎紀世彦など、本格的な声、歌唱力をもつ歌い手もいました。声楽を学んだ岸洋子なども、よいサンプルでした。
ですから、私としては、単純に、これは、日本人の制限だと思ったわけです。
芯のある声、その芯とは何なのか、1本の線が通っている声、その声は何なのかということが、最大の関心でした。
〇声の獲得と指導
そこから、10年余り、結果として、役者やアナウンサー、声楽、外国人トレーナーなどの、トレーニングを経て、私の声は、話すだけでも深くきちんと響くようになりました。
もちろん、歌手には、音楽性と+αの才能が必要ですから、それに対しては、あまりにも勉強の時間が足りていなかったと思うのです。
ただ、拙いながらも10年ほどのステージ経験からも、充分に学べました。
その練習や本番で、何回か、声において、歌というものの声が表現する、自由自在に動く真髄とやら思えるものも体験することもできました。
そして、これからというときに、私は、自分よりもそういった条件が備わっている人たちを預けられて、トレーナーというバックヤードのほうに、回ることになったわけです。
10年以上、徹底的に日本の誰よりもヴォイトレをやったつもりの私の声は、それなりに一声でも、プロの人たちを説得させるだけのものになっていました。
そこからは、自分と違う身体を持つ人たちに、どのようにメニュを落としていくかということに専心したわけです。
そこで、徐々に誰もが、私のように行えば、私のようになるというわけでもないことに気づいていったのです。そのために、声楽家や邦楽家などと共同で運営する研究所にしたのです。
〇養成所時代
私が、日本の声楽家よりも、日本の役者のほうの声を、最初にサンプルとしたことは、これまでも再三、述べてきました。
実際に、最初の事務所を構えたのは、有名な俳優養成所の活動の場です。
そういうところには、声楽家の先生も来ていたのですが、役者の卵の方が3年くらいで、地声に関しては、声楽の先生の声を抜いてしまうのです。
これは、日本の声楽家にテノール、ソプラノが多く、そうした人たちの地声というのは、必ずしも深く響くわけではないこともあります。高音シフトで、話声域を重視していないからです。
とはいえ、海外のオペラ歌手などが話している声を聞くと、そういうパートでも、それなりに深いということがわかります。しかも、大変に頑丈です。簡単にいうなら、ドラマティコ#なのです。
オペラ歌手でも、国やパートでの差、個人差やレベル差が、とても大きくあるのです。
当初、私が引き受けたのは、プロの歌い手や声を使って仕事をする人たちだったので、音楽的なところのトレーニングメニューは、必要ありませんでした。
一般の人で、最初にいらしたのは、外交官とエアロビクスのインストラクターでした。共に仕事上の必要性でした。
これもその後の研究所の方向を示唆するようなものでした。どちらも声のよさや美しさではなく、声の深さや丈夫さをとらえる職業だったからです。
#声の種類に 、レッジェーロ(leggiero)、リリコ(lirico)、スピント(spinto)、ドラマティコ(dramatico)の名称も使われます。レッジェーロが軽く、だんだん重くなり、ドラマティコが一番、重い声です
〇声そのもののトレーニング
この研究所で、最も根本的なメニュは声そのものです。今の声が、鍛えられ、磨かれ、自在な応用力を獲得できるようにすることです。
その点では、期限を定めないで、徹底して呼吸と発声をトレーニングしていくことがベースになります。
もちろん、歌に使うのであれば、発声での共鳴を意識して行った方がよいのです。
言葉というのは、発音によっては共鳴を邪魔するわけですから、純粋に美しい楽器の声をつくるのであれば、ハミングや母音中心に徹底していった方がよいわけです。
ただし、表現であれば、音楽的にも必ずしも美しいことだけが問われるわけではありません。ですから、そうした音楽でのメリハリというものを、声の場合のノイズとして表すとしたら、そこに言葉というものが使えるわけです。☆☆
こうした考えなので、後日、能や歌舞伎ほか、日本の伝統音楽のトレーニングにも応用できたのです。☆
子音などは、共鳴を邪魔することも多いのですが、それが効果的に人の心に伝わることも多いのです。なぜなら、人間のコミュニケーションに必要な言葉は、そのようにして誕生し、磨かれ、発展してきたからです。
〇話と歌
話す言葉の中にも、共鳴するものと共鳴を妨げるものがあります。それは、あらゆる国の言語の中に含まれています。その点は、案外と見逃されています。
言葉というものは、意味内容を伝えますから、どうしても、そちらのほうに重点がいってしまうわけです。
しかし、私たちが、意味のわからない外国語の言葉で、歌を聞くときには、共鳴したり、共鳴しなかったりするところを楽器音として聞いているわけです。
わからない言葉の響きにも心を動かされるわけです。そこは、むしろ言葉の意味内容がわからないがために、声のもつ音楽的な働きかけによって感動するわけです。☆
歌には、両方の要素があり、その両方をうまく使っていくことが求められます。
もちろん、歌い手によって、どちらかに重点が偏っている場合もありますし、歌曲によっても大きく異なります。
例えば、ラップは、リズムと言葉の意味が中心になります。
スキャットは、言葉の意味が入らず音楽的に表現していくわけです。いわばヴォイスパーカッションと同じです。
〇日本の歌の変容と声の音楽的効果
日本の場合は、ポピュラーソングに関していうのであれば、西洋の音楽的な影響を受けたところから、流行歌、歌謡曲、演歌と発展してきて、向こうのメロディ、リズムに、日本語がついたという形になっています。
クラシックにも一時、日本人だから日本語で歌うという試みもあったのですが、試行錯誤を経た後に、日本でも原語で歌うことに戻っていたようです。
ポピュラーでは、昭和の頃までは、外国語の歌詞で1コーラス、歌った後、2コーラス目を日本語で歌うとか、その逆とか、あるいは、英語などは原語のままに歌うということが、流行したことがあります。
しかし今は、日本語の中に、英語を入れて歌うことが多くなりました。
この英語は、感覚的に音楽的なノリやかっこよさを象徴しています。声の音楽的効果です。
そして、演歌や歌謡曲を離れていくにつれ、日本語自体も英語の発音で歌うような感覚を取り入れたような歌唱法が多くなりました。そこで歌詞そのものが不明瞭になってきたきらいがあります。
〇日本の歌の特質
そういうなかで、日本の場合、歌の中心となったのは、これは流行歌などの前からそうであったのですが、言葉です。言葉に節をつけて、歌にしてきた長い歴史があったからです。そして、節とは、メロディに他なりません、
つまり、日本人の遺伝子では、言葉の意味内容。節をつけて音の動きで伝えるという形が一般的だったわけです。
ですから、昭和の頃までは、日本人は、総じてリズム音痴でした。向こうのリズムに慣れていなかったのです。リズムに乗せて歌うのが、とても苦手だったわけです。とくに三拍子や複合リズム、アフタービートなど。
この辺は、当然のことです。どこの民族でも歌は、使っている言語の影響を受けて、歌は発展したものです。いきなり、海外の異なる言語文化の歌が、こなせるわけはありません。
同様に、日本の古来の歌は、日本語の性格が大きく影響しています。
日本語の高低アクセントが、音程、ピッチを重視する傾向になっており、強弱アクセントがさほど、つかないために、リズムが弱いわけです。テンポもあいまいで、強弱では、頭打ちです。
それとともに、全体的な構成や展開というところも弱いです。
歌曲全体の中で構成、展開を捉えるほどの把握力というのは、日本人には、西洋人ほど、ありません。
私は、よく、日本の鐘と西洋の鐘の音の響きの違いで、例えてきました。
同時にいくつかの音が鳴るというようなところでの合奏感覚、歌でいうとコーラスについては、日本人は苦手なわけです。
〇日本を断つ
こういうことは、声そのものの問題ではないのですが、声を歌に使うときに足らないことを感じて、トレーニングメニューとして補ってきたことです。
声を吐き出すような、ピアノを叩きつけるような、と述べましたが、ピアノを打楽器のように扱うような感覚は、日本人には、あまり、ありません。
そうしたことが、声や言語に大きく影響し、その特徴をつくっていることはいうまでもありません。
基本の勉強をするということは、結局、そこまで遡らなければならないわけです。
そういった面では、オペラを歌えるようにする日本の声楽の勉強は、参考になるところがたくさんありました。
向こうの生活環境から、言語、文化まで学んでいくということは、日本人でありながら、向こうの民族になり切ろうとする努力です。
私の若い頃は、オペラなどは、モンゴロイドの骨格では、同じように歌えないと、骨相学とか人類学を研究する人もいました。今では、そのようなことではないと証明されてきています。
人種というものの差はなく、生まれ育った所で身についた言語は、母語、ネイティブになり、どこの文化、環境にも、誰でも適応できることが明らかになりました。
何よりももっとスタイルなどが問われるバレエやダンスの世界で、そこの文化以外のところから、優れた才能を発揮できる人が出てきているのです。もはや遺伝のような人種の差にこだわる必要はないのです。
〇声帯の可能性
考えてみれば、不思議なことです。顔の骨格が、欧米人とこれほど違うのに、同じような声が出せ、同じように歌えるということは、喉頭の中の声帯に、それだけの柔軟な能力があるということになります。
この件については、私は、プロフェッショナルな声の使い手に学びました。
いっこく堂さんの歌い手のものまねです。表情筋や骨格とかの関係ないところで、声を日本の歌謡曲にもオペラ歌手のようにも聞こえるようにコントロールできることを実証したわけです。
学び方次第では、人間はかなりの能力をもつ声帯を持っており、いろんな可能性があるということです。自分以外の声にもかなり近づくことができるし、自分自身の中で徹底して鍛えて磨き抜いていくと、かなりのことが可能性として出せるようになるということになります。(続く)