論87.基本と応用の関係 応用を基本を深めるのに使う(6956字)
〇類似本
島津ひろしさんという人が、「実践ブレスヴォイストレーニング」という本を出しています。
私の研究所とはまったく関係ないのですが、出版社の販売戦略だったのでしょうか。
内容に関しては、うなずけるところもあります。どちらかというと重くてパワフルな声をメインに語られているからです。
〇ヴォイトレツール
ヴォイストレーニングのツールに興味を持つ人がいて、ここでも、いろいろなツールを集めて、研究した人がいます。ここは研究所ですから、そういったものもトレーナーや生徒さんは、なんでもテーマを持って、勉強したり研究したりしているわけです。
〇ツール
今では、いろんなツールが出ているために、集め切れないほどです。
多くのものは、トレーニングの本筋とは、違うので、必要もないと思っております。
特に、健康や美容関係に相当、広範にいろんなものが出ています。表情筋などを鍛えるのと重なります。
〇基本は応用を含む
歌を歌って、それなりにうまくなるのは、応用です。その応用で、限界だと思えば、基本を徹底するのです。そのことによって応用力が伸びます。
応用するときに、基本のことが活用されます。そこには時間的なギャップが存在します。習い事の場合は、大体そういったものです。
〇ワークショップ
そういうことでは、ワークショップというのも応用の1つです。
1日で習得するということは、1日で、基本をやるのではなく、応用をやってみて、一通りこなせるようにするということです。
本当に上達するのであれば、応用ばかりをやるのでなく、基本を身に付けなければなりません。つまり、自分に不足している身体能力や感覚を身につけることです。
〇マニアの足し算
いろんなツールを集めたり、いろんなノウハウを集めて、片っ端から学んでいる人もいます。しかし、多くの場合、それは、重なっていきません。足し算であって、掛け算の効果にはならないということです。ツールがたくさんあっても、一つを使いこなしている人に勝てないのです。
歌で例えるのなら、次から次に新しい曲をどんどん覚えていくということです。もちろんそれを10年も続けたら、それなりに歌えるようにはなっているでしょう。
例えば、1日10曲新しい曲に挑戦すると。すると1年で3650曲になるわけです。10年で、3万曲を超えるわけです。こうなるとプロよりも、たくさんの曲を歌ってきたということになると思います。だからといってプロよりもうまく歌えている曲が一曲でもあるのではないわけです。
〇プロの一点突破
人にもよりますし、そのプロセスも、歌となると様々なので、一概にはいえません。
問題は、量から質に転嫁するという機会がどのぐらい、その人に生じたかということです。
つまり、あるところから量ではなく、質への転化を起こさなければいけないのです。
〇レパートリー
何曲、覚えているかどうか、何曲、歌えるかというのは、あくまで、目安に過ぎません。実際に、1つのステージが8曲であれば、8曲のレパートリーがあればいいのです。
ただし、これまで聞いた曲は8曲であり、その8曲を練習したら、プロになったなどということは、まずありません。プロの人たちは、一般の人たちよりは、たくさんの歌を知っています。
ただし、アイドル歌手や他の分野からの転向組などは別です。人前でほとんど歌ったこともなくても、デビューしたらプロ歌手となるようなのは。
〇知っている曲数
一方で、プロですから、同じ曲をたくさん歌っており、自分の専門の分野の曲には詳しくてもあらゆる曲を知っているわけではありません。
むしろ熱心なカラオケ好きの人の方が、レパートリーや知っている曲の数は多いと思います。
私はトレーナーですから、プロの歌手と同じくらいは知っていると思いますが、それでも毎日カラオケを歌って、どんどんレパートリーを広げているような人にはかなわないです。
また、クラシックやジャズ、ロックの根強いファンにも到底、及びません。
〇プロのバックグラウンド
オリジナリティのあるアーティストのプロは、知っている曲数の多さよりは、あまり普通の人が踏み入れられないような領域の音楽を深く聞いている傾向が強いです。それがきっとその人のオリジナリティを作る源泉になっているのではないかと思っています。
●レパートリーの目安
まったくの初心者に対しては、1つの目安を伝えています。
プロとして、20曲くらいは、歌えなくてはいけないでしょう。
そのためには、ほぼ200曲のレパートリーが必要です。
ただ、絶対に強い歌としては、2曲あれば充分です。
そして、200曲のレパートリーを持つためには、2000曲ぐらいは親しんでいるものなのです。
●カリキュラム化
カリキュラムにするには、これを割り振っていけばいいわけです。例えば、毎月16曲の新しい曲を取り込んでいくとします。すると1年で、200曲近くになります。10年、2000曲です。この辺が、プロの人たちの最低条件ではないでしょうか。
私が課しているのは、4曲をカンツォーネ、ナポリターナ、オペラ、4曲をシャンソン、ラテン、エスニック音楽、4曲を英語曲、洋楽のスタンダードナンバー、ミュージカル曲、4曲を日本の歌謡曲、演歌です。
さらにもう4曲、自分の好きなJ-POPなど、歌いたい曲を入れると、20曲となります。
〇自主練習の限界
大体の場合は、1人でやっていくと、質的転化は、3年以内に起き、大体3年くらいで終わります。その後は、そこまでに高めた感覚や身体能力の中で、ただ違う言葉やメロディの歌をレパートリーに増やしていくだけになります。
あとは、記憶力があるかぎり、レパートリーも増えていくでしょう。
なぜ上達が止まるのかというと、大体、誰かに似てくると、まわりにうまいといわれてきて、それ以上の目的となる基準があいまいになるからです。
私は、いろんな人を見てきて、その人自身が、さらに高い目標や、基準を持っていなければ、そこで限界になるのを知りました。だからこそ、レッスンとして、その基準がどういうものであるかを示し、それに到達してないところから、メニュやトレーニングが決まってくるというやり方をとっているわけです。そのギャップを持ち続けることが大切なのです。
〇優れた歌唱でも
私のところに来た人のなかには、ほんの数名ですが、素晴らしい歌唱をするのに、本人は「全然できていない」という自覚がありました。そういう人は、黙ってみていても、かなりのところまで伸びます。
ただ、感覚的に恵まれていて、うまかった人は、その感覚で、結構なことができてしまうので、テクニカルな方向に目を向けます。そして、そういうところばかりをコピーしたり習得したりしていきます。その結果、どうしても、うまい歌手の真似でとどまってしまいがちなのです。
〇ものまね
それが崩せるかどうかは、その人のオリジナリティや作り上げていく世界観によります。残念ながら、それがない人もたくさんいるのです。そうすると、オールディーズライブなどでのものまねが、最も向いているようになります。真似をするだけでも、プロとして活躍できるステージは、日本では、あります。ものまねなのに、プロ歌手として認められるのです。日本のジャズやミュージカルなども、それでほぼ通用するでしょう。
その結果、日本では、歌手よりも、ものまね芸人のステージの方がギャラが高いのです。
〇表現者の条件
歌がとてもうまいのに、声も歌唱もまわりが認めるのに、プロになれない、オリジナルの魅力がない、本当はこちらの方が、解決しにくい問題です。
個性がありオリジナリティがあり、その人の雰囲気でその人の世界が出ている歌い手、これが音が不安定だったり伸びが悪かったりガラ声だったりして、うまく歌えていないなら、トレーナーも上達させやすいわけです。上達した分、そのまま、プロに近づいていきます。むしろこの方が、表現者としての歌手には向いているのです。
〇本筋と小手先
私はよく本筋と小手先のような区別で説明することがあります。
たとえば、いろんなところでマッサージを受けることは、その場での応急処置であり、部分的な処方です。
日ごろから、自分なりにこまめにいろんなところを動かすことをしておけば、それほど凝ったり不快になったりはしないはずです。しかし、仕事やレジャーなどによっては、特別な部分を特殊な使い方をすることがあって、そういうときは、どうしてもケアが必要です。
〇部分強化とバランス崩れ
ボディービルダーのように、筋肉を強調するようなポーズは、筋肉が最も浮き出てくるような無理なポーズなのです。画家のモデルも同じです。ただ、ポーズであって、何かを持ち上げたりするわけではありませんから、そのことによって痛むことはないのかもしれません。
クラシックバレエやモデルさんの基本ポーズは、人体を美しく見せるために、本来の人間の身体の構造には、無理がかかっているわけです。
わかりやすい例では、ハイヒールです。男性だけでなく女性が見ても、美しいと好まれるような姿体になるように、つま先立ちをして、足を長く細く見せ、お尻や太ももやふくらはぎを緊張させるわけです。当然、不自然ですから、疲れたり足がむくんだりします。
〇器の大きさ
ここまで、私が述べてきたのは、基本に対する応用です。応用が基本に近いところではさほど負担はありません。そこから外れるほど負担が大きくなります。
そのときに器というような言葉を使っています。器が大きければ、外れにくくなり、器が小さければ外れやすくなるのです。
ですから、基本のトレーニングにおいては、器を大きくしなさいということです。
〇重要度と優先度
しかし、何事も限度があるのです。また個人的な資質や心身の条件によって大きく違ってくるのです。何を目的にするのか、何を自分が持っているのか、潜在的に開発できる要素は何なのかをきちんと見ていきます。そして、重要度や優先順をしっかりと把握していくわけです。
そのようなことを考えていくにも、これまでの経験は必要ですが、それが当てはまるとは限りません。ですから、常に試行錯誤をしていくことになります。
〇自分のことを客観視する
歌唱は、楽器が自分の身体ということによって、見本を真似していく努力が、自分の楽器演奏、つまり、歌唱の修練を邪魔をすることがあるのです。その1点において、優れたアドバイザーの存在は、欠かせないと思います。
それ以外は、およそ自分でできることなのです。
ただ、この点で、道を選び間違えてしまうのです。
〇歌の難しさ
なぜなら自分と資質の合うような歌い手は、万に1人もいないからです。
それが自分の好みとか将来像に一致するなどという確率はほとんど、ないからです。
自分が向上するなら、好き嫌いを除いたところで、多くの一流のアーティストの作品と接することが前提となってきます。そこから何を感じどう選ぶかは、よいアドバイザーにセッティングしてもらうに越したことがないでしょう。
〇基準の難しさ
その点で、誰にも同じようなアドバイスをするアドバイザーは二流といえます。しかし二流の選択のほうが仕事にありつける可能性の多い業界であれば、そういうアドバイスの方が重宝されてしまうのです。
ピアノのない国に行けば、いろんな曲を正確に弾ける自動伴奏機能を備えたようなピアニストが受けるわけです。しかし小学生、中学生でクラスに何人もがそのことができる国では、それは5年から10年の基礎学習期間を経たほぼ全ての人がマスターしているくらいの技量に過ぎません。楽譜を見て、弾ける人は、日本にも何十万人いるでしょう。
そこは、自分の表現やアーティスト性とは一切、関係がないのです。
それが歌い手の場合に曖昧なってしまうのは、言葉があること、その人の声という独自のものがあるためでしょう。また、詞や曲やアレンジや伴奏が他の優れたプロで補える総合アートだからです。
そういった他の要素を取り除き、本人の声と歌の可能性を見抜くことは、なかなか大変なことなのです。
〇作品は語る
表現ということでは、どんな作品においても、たとえ10分でできたとしても、そこにはその人の人生分の歳月が入っています。その人の情熱や集中度にもよって、出来不出来が差があるのなら、アマチュアでしょう。そんなものを計算しようがしまいが、身体に刻まれたものは出てしまうからです。
ですから、いろんな作品を見て、こんなものだったら自分でできると思ったり、自分より下手だと思ったりすることがあるとしても、そこに既に作品としてあること自体が、頭で思っていることとは、大きく違うのです。
人を見るのと同じく、作品としても、訳がわからないけども強く惹かれるもの、おどろおどろしいもの、感情を揺さぶられるものなどに集中することです。
綺麗で美しいとか、とても上手で清々しいなどというものはスルーして構いません。つまり薄っぺらいものでなく深いものに関心を持ってください。
〇成り立ち
私の本を読んで、「こういう本なら自分でも書ける」というような人が、これまでもいました。書けばよいのです。しかし、出版社で出されるかというと別です。売れるかというとさらに別です。
作品として成り立っているということは、同じことをできると思っているという次元とは全く違うのです。
〇出版
私の市販の本で、書いてから出版した本は、まだありません。新人賞のように応募して審査で通るというプロセスは経ません。編集者により、企画や構成で、どのくらい関わるかという違いくらいです。それでも、これまで100人以上の編集者には会ってきたわけです。当然、ペンディングもありました。
同じことができるなどというのは、そういう世界を知らない人の思惑であって、それを成し遂げている人たちは、そんなことを思っていたり、そんな狭い世界で考えているものではなかったりするのです。
ただ、そのことを言葉で伝えるのは、大変です。それがうまく皆に伝えられること、いえ、伝わった感じになることなどで、巧みになると、テレビ番組などで重宝されるに違いません。
〇したいと思惑の違い
自分の中にある何か、その何かを探り、見えないものを見えるように描けないものを描けるようにしていくのです。それはきっと、できるだろうという何らかの直感的な確信のもとに仕上げていくわけです。
よい景色を見ると、写真を撮ろうとか絵を描こうとなるのでしょう、そこで一句、詠もう、と思う人もいるかもしれません。
しかし、アーティストというのはそうではなく、その風景を見て、それを通して、こういうことが描けるのではないかと思うのです。ヘンリー・ムーアが、作品は埋もれた像を掘り出すだけというようなものです。
〇生きる
私も何度も同じようなことを言い続け、書き続けているわけです。それが空気を吸って吐いて、生きて息をしているということになっているのです。
思いのままにできてしまったり、わかってしまったら、その先、どうするのでしょう。もうそのことから去るしかないわけです。
そこからまた新しいものを作り出すとしたら、ある分野で挫折しては乗り越えていくことで、同じなのです。ですから、今、自分の目の前にあるものを仕上げていけばよいのです。
〇挫折と繰り返し
数知れないスランプを乗り越え、自分に負けない生き方をして、それを糧に、活躍したり、作品を作り続けている人たちがいます。
それでも毎日が調子がよいことはなく、高望みをするやいなや、スランプや挫折に悩まされます。同じことを繰り返すと修練になるというのなら、スランプや挫折の繰り返しです。
それもまた人間を強くするでしょう。しかしそれが作品をよくしているのかというと全く別です。思っているようには、うまくはいかないものです。
ですから次元が上がったなどと、高いところから人を見おろしているような人たちは、悟っては、それを忘れ、修行を繰り返す修行僧に戻ることでしょう。
必死になって描きあげたものだから、面白くもあるのです。ただ、それが価値があるかどうか、認められるかどうかについては、案外と努力と釣り合わないので、また挫折するのです。
〇シンクロと多様性
多様性ということの例として、世界中のいろんな人たちが集まり、いろんな楽器によって、素晴らしいハーモニーを奏でるオーケストラは、わかりやすいです。それぞれに個性があるほど、まとめるのは難しいのですが、まとまったときに素晴らしい演奏になります。
皆が同じ声を出して合わせる日本のコーラスでなく、一人ひとりがバラバラで歌い、バラバラに身体を動かし、バラバラの表情をして、一体になる、海外のゴスペルに惹かれてきました。それがモザイクの美しさだと聞きました。
人間は、シンクロするところでの統制された美に惹かれます。そういったものを競うアートもあります。競うために同じことを同じようにするのは採点がしやすいです。特に技術に関してはそうでしょう。芸術点、という見方もあります。それは点数をつけること自体が邪道ですから、1つの物の見方として楽しめばいいと思うのです。
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