論56.研究所のスタンスとヴォイトレの確立●
〇基礎づくり
毎日、同じことを同じようにする時期があって、基礎の大半は身につきます。基礎を身につけるのには、あるところまでの量や強化は必要条件といえます。
〇そこからのヴォイトレ☆
人並みの潜在能力のあった人が人並みに能力を開花させられるようになったら、そこからが問題です。
しかし、一般的なヴォイトレは、大体は、そこまでしか扱いません。そこまでのニーズしかない、考えない人が多いからです。クライアントはそうであっても、トレーナーとしては、その先からそこまでを遡って考えて与えていくこそが大切だと思っています。
〇本質、実質
心身の健康がトレーニングの前提となります。心よりは身体から入る方がよいです、とはいえ、心が邪魔をするというのが人間です。
声も身体も関心が高まっている割に、上滑りしていることが多いようです。それは本質的なこととその後のことに触れていないからです。それでは、何ら実質としての内容がないということになりかねません。
〇求めるものと解脱
どうしてそうなるのかというと、あまりに「今すぐ、楽に、簡単に」を求め過ぎるからです。「楽しく」が目的というなら、まだよいでしょう。
本当は、それなりの準備や心身の緊張も経た上で、あたかも解脱したかのように身についていくのです。
解脱というのは、習得を例えるのにわかりやすいことばです。テクニックやリラックスで身につくのではないのです。
○日本のファン
スポーツなどと違い、日本では、歌い手のファンは、本当にやさしいのだと思います。アートや作品ではなく、人、同志として捉えてくれるからです。青春のノスタルジーとなると優劣などの判断は不要だからです。
くり返しを求めているファンにくり返しをみせ、今風に聞きたいファンに今風にしてみてどこが悪いのかと言われたら、それまでです。
〇芸人化、タレント化
ただ、私は、少なくともプロなら、それはクリエイティブではないこと、自らの力の衰えのためのやむを得ない処方と知って対することだと思うのです。
本人が気づいていないから続けられるとしたら悲しいことです。そこは、アーティストでなく、芸人化、タレント化した歌手です。
一人の人間としてみてくれる人の前で、一人の人間として対するとしたら、それは素晴らしいことであると思いますから、ここは、私の立場上からの思いにすぎません。
○あいまいさの中での基準
役者や歌手は、半分くらい、芸の要素をもち、生活でも実践しているからこそ、あと半分、何をもって役者か歌手かを問い詰めておかないといけないと思うのです。
プロダクションから演出家まで、いろんな人たちが、いろんな見地でみているので、そこは、いい加減、あいまい、適当のオンパレードです。条件や定義はその都度違う、あるのかないのかさえ、わからないのです。だからこそおもしろいのですが、トレーナーとしての立場からは、そうはいかないわけです。
ですから、具体的な目標設定となると、私も不本意ながら、「音大院卒」くらいとか「劇団四季のオーディションに合格する」くらいとか例えるしかなかったりするのです。
●実力とは何か
私は、レッスンやトレーニングにおいては、どのようになるために何が必要で、それはどうやって身につけていくのかを、できるかぎり説明しています。そして、歌においても、それで問えるようなプロダクション、プロデューサーや演出家を選ぶように勧めています。現実的には難しいことですが。
プロデュースを放棄している研究所では、それゆえ、いろんなスクールやプロダクション、劇団に所属している人が少なくありません。どこかに属して生涯やっていけたらよいとしても、真の実力となると、個人の力になります。どこかに、いえ、どこでも通用する力とは何かということでしょう。
○基礎がある
そうなると、「つぶしが効く」ようにと先に掲げた目標設定も、生じいい加減なものではありません。日本で「音大(声楽)を出たのですか」と聞かれるのは、「基礎がある」ということで、ミュージカルでも一定の評価が得られやすいといえるからです。私の問う基礎の力とは、かなり違うのですが、それで通じるのなら、そこを得ておくのも現実的な対処と思います。
●学びの体制づくり
ここのレッスンは、発声中心ですが、オーディションなど他のところ(現場)では、発声よりもその機能的なもの(セリフ、滑舌、メリハリ、歌い方、音程など)で判断されるので、本人もその力を望みます。ということで、せりふや歌の練習も最初から入れています。それで、およそ集団の一員として合唱団、劇団などでやっていける力はつきます。
しかし、自分の名、つまり、個性でやっていける力、指名されて仕事がくる力には、とても及びません。そこは、個別のメニュ、歌なら音楽での呼吸や聞き込み、役者なら舞台での呼吸が必要となります。心身からの発声の基礎トレーニングです。かなり、いろんな応用メニュを加えていくことになります。
どれだけ学習時間がとれるかにもよります。そこまでのレッスンや自主トレができる体制にあるのは、全体の3割くらいでしょうか。
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○ヴォイトレマニア
ヴォイトレに興味をもつ人は、芝居や歌、または声で、とことん行き詰ってそうなったならよいのですが、そうでない場合、真面目でメンタル的に強くなく、イマジネーションに欠ける人が少なくないように思います。ヴォイトレや発声の方法や理論に固執するあまり、全くイマジネーションをもたないどころか、もっていたはずのものも捨ててしまうのです。その必要を感じないで、育てたり磨いたりしないのは大問題です。結果、ヴォイトレそのものだけにマニアックに入り込んでしまうのです。
○ヴォイトレにこだわらない
「ヴォイトレは必要悪」と言ったことがあります。スポーツにおけるストレッチや筋トレのように、ヴォイトレも多くの人に役立つし必要と思われるものですが、「ヴォイトレは独立してあるのではない」とも言いました。
これは、問題として捉えるから現れてくるのであって、問題として捉えるかどうかが大きな問題です。こちらの方が問題として大きいのです。
つまり、問題として捉えないという選択もあることを忘れてはなりません。ヴォイトレをしない、捨てるというのもありです。だからといって、何もできないわけではありません。「話したり歌ったりするなかに、ある程度のヴォイトレは組み込まれている」からです。
○ヴォイトレとイマジネーション
イマジネーションは、表現活動に絶対不可欠です。個として、確立していくなら、です。しかし、指導者やトレーナーは、自らのイマジネーションの支配下に相手を置こうとして、イマジネーションを奪ってしまうことが少なくありません。それを、イマジネーションの必要性を教育されてこなかった日本人は、よしとすることが多いのです。そこで習った人、そうしてヴォイトレに関わった人ほど、イマジネーションが働かず、偏向だけしていく傾向が強くなるようです。
○表現とヴォイトレの関係☆
ここには、ヴォイトレを、いろんなトレーナーについてきたり、一人のトレーナーと長くやっている人も来ます。それをみると、全てが役立っていないわけではないのですが、役立っている人ほど、ヴォイトレをやった人のような声や歌い方になっています。これをテクニックとみるので、本人も気づきませんが、それは、決して、その人の最高の表現のための声や歌のベースにはならないのです。
そんなことを感じさせる時点で、ヴォイトレが表現より大きくなっているのです。不しぜんな分、失格です。その偏向は一時的なこともあるし、バランスの調整で後で何とかできることもあります。
しかし、本人とトレーナーがそれをよしとしているところでは、絶望的です。しかし、日本のプロレベルは、それでOKといえるくらいなので、尚さら、わからないままになるのです。
○ヴォイトレからの自立☆
ヴォイトレを独立させて独自の価値のように誤解させてきた責任は、ヴォイストレーナー、もちろん、私にもあります。しかし、私は「ヴォイトレ単体においてのよし悪しや議論は不毛」と、ずっと述べてきました。
トレーニングは、将来の可能性を切り拓くためにするのであって、効果がない、うまくいかないなら、トレーニングではないのでやめることです。(もちろん、どの時期でみるかで、短期で判断できるものではありません。)
「トレーニングの方法やメニュを効果がなかった」などと言う人は、そこに囚われているのです。何かを絶対的に必要な方法として、前提としてやることがおかしいのです。
○「早くうまくなる」の嘘
私は、「早くうまくなるけど、すぐに限界がくるようなもの」として、ハウツーものに警告し続けてきました。
本当のキャリアと結びつくトレーニングほど、長期的にみることが不可欠です。そのためにトレーナーはいるし、レッスンがあるのです。
一時的な上達なら、プロデューサー、演出家、伴奏者やプレーヤー、今ならユーチューバーの動画で充分です。
●レッスンの限定
私としては、今は、レッスン開始後の相手の吸収力、受容力を計りつつ、レッスンを限定していきます。トレーナーやメニュの選択もそれによって個別に違えています。
それは、グループレッスンで何千人とみてきた経験でフィードバックでできるようになりました。でも、まだまだ充分ではないので、こうして研究、分析を続けています。
相手のイマジネーションの幅を知るのはとても難しく、簡単にそのコントロールはできません。しかし、そうしたことをしっかりと知っていかないと、レッスンには無駄が多くなります。
○プロデューサーとトレーナー
プロデューサーや演出家は、それを観客側から想定、つまり、イマジネーションを働かせて読み取り、表現の幅を決めます。客層が第一ということです。それを離れてしまっては、せっかくの表現も活きません。
しかし、私の考えるトレーナーは、限定された客を想定せず、本人が客をつくれる方向で可能性をみるので、スタンスとしては、真逆となるのです。
●グループレッスンから個別対応へ
私のグループレッスンが変わっていったのは、私自身の学びにもまして、来る人の層が変わったからです。今でも、最初の頃のレッスンがもっともハイレベルだったと思うのです。しかし、それをそのまま続けていたら、ここは、もうなくなっていたでしょう。
私のレッスンがハイレベルであった、というのは、私の能力や教え方がハイレベルであったのではありません。そこにいらした人たちの実力とイマジネーションの力がハイレベルだったのです。
私の能力はともかく、教え方は今の方が、ずっとていねいです。苦手分野のフォローもできるようになっています。一人でなく、複数のトレーナーでみていることが大きいです。基礎の説明や応用テクニックの教え方、バリエーションも豊富です。
年の功でもありますが、初期のメンバーとの日々に学ばされたことが、世界と日本人をつなげるところの基準として、今に活きています。
●ヴォイトレ失敗論
何よりも、当時よりは、声楽や邦楽のベースをもつ多才なトレーナーたちに預けて、本人の望むもっともふさわしいレッスンを提示できるようになっています。この文章は、研究所でのレッスン受講生やOBが第一に読むのですから、嘘、偽りはありません。
では、どういうことかというと、時代が変わったのです。私は、失われた30年と日本経済の停滞、低迷に並べて、歌や芝居での個人としての実力、才能、表現力の凋落を食い止められなかったことを公にしています。大きな意味で、日本でのヴォイトレ失敗論です。
●表現者期
発足時がもっともハイレベルだったというのは、表現する人たちが集まっていたからです。いわば、プロデュースされた劇団のようなものだったのです。劇団のように「皆で上演」という目的がないので、声を役柄に合わせ無理に使うというロスも省けていました。
表現の場をそれぞれにもつ人が、歌でもせりふでもなく、声力の不足を補うために集っていたのです。今になって思えば、ヴォイストレーナーとして至福の環境だったといえます。もっとも選別吟味され、求められることが声そのもののトレーニングに絞り込まれていたからです。
●養成所期
そこからは、表現をしたい人たちが来たので、養成所となっていきました。400人~500人規模の専門学校化したあと、現在のスタジオに移転して、個人レッスン専門体制になったわけです。
音楽の聴き方、捉え方からイマジネーションへのアプローチは、この養成所期に実行しました。
合宿で、共同で上演作品を仕上げるということは、10年以上、行っていましたが、私も演出家もどきの経験を通じて、大いに声と表現を学べたことは、大きな財産となっています。
今は、個人レッスンとなり、そこが弱くなったので、個別プログラムで対応しつつあります。
○トレーナーとアドバイザー
演出家は客を向き、トレーナーは演者をみます。今もですが、私は、その将来をみます。トレーニングは将来、力をつけるためのものだからです。
今をよくするのはアドバイスです。それなら、アドバイザーです。
○ヴォイトレの理想
歌と声との違いもあります。歌をよくするのに、歌に手をつけては、歌をうまく聞かせるテクニックとなり、声は伸びません。これは、とても重要なことです。
私は、ヴォイトレでは、声の可能性を広げ、できたら自由自在に出て、声の中でせりふも歌も、同じように処理できることを理想、目標としています。
○うまくなるな
そうした高い目標では、全員が、皆、一定期間に到達できるようなものではありません。近づいていくだけですが、近づいていくことで、声、せりふ、歌は、よくなっていくのです。結果としてよくなればよいのです。
うまい歌やうまいせりふ回しなどを目標にしてはなりません。それは、不しぜんで、あなたらしくなくなり、ひいては真の表現力を失いかねません。
海外の人には支持されないのですが、日本では、それでプロになれる人もいます。それゆえ、ヴォイトレも短期間での養成法になりつつあります。音響技術の進化と映像重視、音声軽視の現状には合っているからです。
●リライトと会報と本
ハイレベルとは、ことばの説明がなくとも、以心伝心で意図が伝わるということです。私が本を出し続けたのは、状況がそうでなくなるにつれ、ことばでの説明が必要になってきたからです。そこで誰よりも多くの人に、誰よりもたくさん、ことばを使ってきました。
1990年代も半ばになると、レクチャー、グループレッスン、発表会と、全てのコメントをリライトしました。同じことを何度も言いたくないので、それを月刊の会報に掲載しました。Q&A集やメニュ集も会報にあげ、順次、本にしていきました。
●習作
説明会、オリエンテーション、グループレッスンなどでの発言やコメントなど、話したことも記録し、公開してきました。それに対し、レッスンでの受講生の感想、反省、個々の活動のPR、作品鑑賞、その感想なども、同人誌のように掲載し、私をはじめ、トレーナー、受講生が読みました。
これもまた、まぎれもなく表現であり、表現のための実習です。
●トレーナーの文章
トレーナーも同じです。文章の苦手な人の多い声楽家でも、レッスンではことばを使うのです。
レッスンの報告や生徒へのアドバイスも兼ねて、あらゆるレッスンで記録させてきました。2、3年経つと、慣れてきます。
もとより、レッスンでは、ことばを使って問題へアドバイスしているのですから当然できることなのです。その記録は、医者のカルテやアスリートの記録と同じく、大切な材料となるのです。
●コメント
コメント、論評などは、ハイレベルな場が形成されていたときは、一言もいらないものです。場がそれを示して誰もが体感するからです。
しかし、少し経つと、「場はできた」と思って、皆は盛り上がっていても、「私からみるとダメ」というギャップが生じてきました。よりハイレベルなものを私は知っているからです。そして、引き締めるために、全体コメントをしなくてはならなくなりました。
そこからかなり経つと全体でピンとこないようになってきました。そうなると、個別のコメントが必要になります。レッスンも全体ではなく個人レッスンが求められるゆえんです。
●特別な個人とグループレッスン
もとより、特別な必要のある人は、オプションで個人レッスンをつけていました。それは、ハイレベルな人や個性の強い人、目的が異なる人のため、です。
グループレッスンのよさは、養成所などであれば、お互いのトレーニングのプロセスと成果がみえ、学びあえることです。
自分のレッスンよりも他人のレッスンをみる方がわかりやすいのです。特に、声はみえないので自分のは判断しにくいだけに、他人の声、それが指導され、修正されているところは、とても貴重な材料となるのです。歌も同じです。
当時の研究所では、同じような目的の同じ年代、受講生の平均年齢が20代前半でまとまっていたので、それが成立しやすかったといえます。
●会報の表記
会報も、1990年代までは、実名記名で、2000年代から会員ナンバーやイニシャルを経て、2000年代は、匿名にしました。表現としての発表の場もあり、その感想がそのまま、レッスンの材料として使えたわけです。
そこには、いろんな考え方の変遷があります。
養成所で仲間内のものをすぐに読むなら、発言者が明示されていることで内容は伝わりやすくなります。しかし、10年後の人が読むなら、その人を知らないので、その人独自の情報は削り、一般化できるものだけを示す方が、読みやすく使いやすいからです。
○具体性から普遍性
表記においては、具体性と普遍性のどちらをとるのかということです。
たとえば、体験談でも、いつのどこ出身の男女どちらの何歳の、という具体的な属性の情報は、同じような人にはとても身近で扱いやすいのですが、そうでない人には使いにくいでしょう。だからといって、自分と同じくらいの年齢の人がいないと、参考例がありません。また、同じ年齢の人のがより参考になるとは限りません。全く違う年齢の人のが、もっと今の自分の参考になるケースもあるなら、その情報は、むしろ、邪魔です。
そのあたりを整理して省略して読みやすく使いやすくしたものが、マニュアルです。そこで失われるものもありますが、無用な混乱をしなくて済みます。
会報においても実名からイニシャル、そして無記名にしてきたのは、そういう理由です。記録から、マニュアルとなったのです。
●研究生への配慮
これは、ネット社会の実名と匿名の問題にも通じます。研究所では、原則として、提出は実名、掲載は匿名で、編集として、ある程度の誤字訂正と省略を認めてもらっ
ています。
後日、取り消しや訂正したいと言われても、印刷されたものは残ります。そのあたりは、在籍者や未成年にも配慮しています。研究所での習作中のものを後でみられたくない、消したいと思うこともあると思うからです。
ちなみに、会報、HP、ブログへの掲載は、許諾してもらっていますが、本人の書いたものは、本人が自分で、他でどう使っても自由としています。
●失われた年月
どの世界も、誰もいないところに閃いて人が集う発足時には、ハイレベルな感性をもつ人も含めた変人が集まります。それが人が増えて、勢いがつき、人気が出たり、設備がよくなったりして、未来や夢をみさせてくれるようになると、そこへ乗っかる人が出てきて、集団化が始まります。そして、中身が形骸化します。高度成長期時代後の日本を、日本の失われた、この間に、私も経験してきたように思うのです。
●グループレッスンとキャンパス化
昔、グループレッスンのときに、励みになればとグレードをつけて、競争原理を応用してみました。人数が増え、長くいる人が増えるにつれ、私のポリシーとは別に、日本の伝統芸の社会や日本の学校化、キャンパス化していくのが、よくわかりました。私でなく、日本人は集団となるとそれを好むのです。派閥や年功序列、年月のキャリア、縦割り万々歳です。最後には、スクールカウンセラーの必要性を感じました。
幸い、10年ほどで停めたので、内紛や分裂、いじめや自殺というところまでは至らないで済みました。
●競争と集団化の中断
競争には、一つの尺度が適用されるので、20代前半の人が大多数というなかでは、グレード制は使いやすかったのです。もちろん、それ以外の人は乗りにくいわけです。声や歌に使うのは、特によくないと思いました。それぞれの人のもつ条件や環境、目的が全く違うからです。
そうするほど、劇団色が強まるような違和感が出てきたわけです。ちなみに、初期に加えていたゴスペルの合唱団は、運営としては、とてもうまくいったのに、個々の実力は、大して伸びないという結果をみることになりました。しかし、私はそのことで大いに学べました。
●発表会とワークショップ
合宿の発表会は、アーティストとしては、半分は皆に合わせた妥協の産物です。参加者は半アーティストみたいなものでしたから、ちょうどよいと思い、企画しました。一般客からお金をとって見せるだけの作品をつくるところまでには至らないのですから、ワークショップのようなものです。ただし、個人の成長の核につながるものとして意味がありました。
●演出家を招く
合宿やイベントでは、そこにいたらよかったはずの私が、演出家としての才能を試され始めたので困りました。そこで、10年ほどで区切りました。
そうした発表会が一通り、終わったあと、今度は、本当にプロのプロデューサーや劇作家、演出家を招いて、ワークショップをしました。たとえば、オリザさんなどを同じメンバーに接させて、その結果の検討など試行錯誤したのです。
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