論88.役者や声優の歌唱指導(11000字)
〇役者、声優と歌
役者や声優がいらしたときには、声のトレーニングのなかに、できるだけ歌を入れることをお勧めしています。声を徹底的にトレーニングするのであれば、歌の声についても、その条件が満たされていくものだからです。そこで分ける必要はないという考えです。
もう一つの理由は、歌の方が、声について判断がしやすいということです。
せりふのプロに、せりふでの読み方を教える必要は、それほどありません。むしろ、その言葉の力が、邪魔をして、声をいい加減にしてしまう、痛めたりするのです。
音楽である歌においては、そういう合理的な発声原理に反する声は、原則的には選ばれません。演奏の力が欠けてしまうことが多いからです。もちろん、感情移入に独特な声を使う人やハスキーな歌い手もいますから、一般論です。
となると、単純な話で、それだけ、発声の基礎と音楽が入っていないということです。
ですから、こういう場合は、世界の一流の音楽をたくさん入れていくのです。
一流の歌い手の歌い方から声を学んでいく必要があります。
言葉の世界から一旦、外れることも、有意義なことです。
そのためには、イタリア語などわからない外国語を使ってみるというのが、とても有効です。
母音とかハミングで歌う練習もありますが、どうしても、情感が損なわれてしまうのは否めません。
英語でもよいのですが、楽器としての声を考えたときには、ラテン系の言葉の方がうまく流れるし、何よりも言葉とメロディ、リズムとの絡み合いが、一体化しているので、発声もとても学びやすいのです。
その上で、日本人の一流のヴォーカリストの歌唱で、日本語の処理の仕方も学んでいくとよいでしょう。ここについては、とても難しく、メロディと言葉とのバランスをどのようにとっていくかということでは、多様な技巧があります。
〇言葉の力だけに負わない
言葉で意味を伝える、声を使って言葉で相手の心を動かすというようなことができているレベルの人であれば、むしろ、音楽の流れに寄り添うようにしていくと、意外とうまくできるものです。
むしろ、そういうせりふ回しのプロの役者、声優の指導については、言葉の力やその人の雰囲気、オーラのようなもので持っていかないように気をつける必要があります。
役者であれば、ステージに出てきただけで、それなりに慣れており、存在感がありますから、何をしても、あたかも成り立ってしまっているように見えるところがあるのです。
特に役者の場合、動画で撮るのはいいのですが、その映像を見ずに、音だけを聞いてみて判断する、音の世界としてどのように成り立っているかを厳しくチェックする必要があります。
レッスンでは、ヴォイスレコーダーで録れば、声だけを聞くことになります。
それは、声という音と、そのなかでどのように音楽を紡いでいるかというところです。
そこに関しては、大体はまったく足りないから補充をするということです。
それがミュージシャンほどに満たされないからといって、歌が成り立たないわけではありません。役者には役者の歌い方というのがあり、独自の強みを活かした表現の仕方が、ないわけではないからです。
その辺になってくると、どこまで、音楽との兼ね合いをつけるかというのは、最終的には個人差になります。資質、才能、個性、キャラもあります。
ただ、演技としてのパフォーマンスとして、歌を使うとすれば、それはもったいないことです。それこそ一人芝居で語った方が、充分にその個性と表現世界を活かせると思うからです。
〇シンガーとの違い
役者の場合は、どちらかというと、相方との呼吸のなかで、表現世界を作り出していきます。そうした意味での即興力や臨機応変に対応する力が求められます。
特に舞台の場合は、毎回、状況が違うし、相手のせりふも同じということはないので、かなりのキャリアが必要とされるところです。
それに対して、シンガー、つまり、ミュージシャンの場合は、音の世界、そのなかでの共演です。
確かに役者のような演劇的なライブはあるのですが、それほど大きくバックの演奏が変わるわけではありません。
特に日本の場合は、ジャズのような即興的なセッションが、歌唱を伴う音楽においては行われていませんので、固定されたカラオケに近いような状態となります。これは日本のポップスの大きな欠点でもあります。
〇バンドの問題
そこには、スタジオミュージシャンが、あまりヴォーカリストを信用してないということでもあり、また、変幻自在のように歌唱するヴォーカルが少ないので、歌とのセッションには、慣れていないのです。それほどのヴォーカルが、日本にほとんどいないからです。
楽器の音同士のなかの掛けあいを、声と行う経験があまりに乏しいのです。
日本でもミュージシャン志向のヴォーカリストは、レコーディングに、海外のスタジオを選びます。バンドの人たちが、ヴォーカルの歌を中心に組み立ててくれる、そうしたあたりまえのことをきちんと行っているからです。
日本のクラブなどの、演奏を聞くと、ヴォーカルの音をやたらと大きなボリュームで上げてみたり、逆にバンドの音が大きすぎて、歌が聞こえにくい、うるさいなど、全体としてのコーディネートがうまくできているところが、少ないように思えます。
もちろん、ヴォーカリストがアカペラで歌っても成り立つだけの歌唱力を持っていないというところで、日本の場合、カラオケ的な音響調整がなされてしまうからです。
日本のバンドは、オケとして、音楽をほとんど完成させているわけです。
ヴォーカルは、それにのっかり、言葉をつけるだけ、歌詞の意味内容を伝える役割で終わっている場合も多々あります。
もっとよくある例では、オールディズ、ジャズなどもその傾向がありますが、ビジュアル面、MC的な役割としてヴォーカルを使っているだけのこともあります。若くてルックスのよい女性ヴォーカリストが、そうしたニーズに応えているともいえます。つまり、役者、女優であれば、務まるわけです。
〇ヴォーカルの特徴
本当に純粋に音の世界からいうと、ヴォーカルというのは、楽器の人たちとは位置づけが違うわけです。つまり、演奏家は、演奏家同士でのプレーだけで完結したいところがあり、ヴォーカルが邪魔とまでは言いませんけれども、少し色物というふうに扱われています。
これは、音楽の演奏レベルにおいて、楽器のプレーヤーとセッションができない、日本のヴォーカルに対しては、よく見られることです。楽器のプレーヤーが苦節10年、20年を核として得てきたような演奏技術に対し、ヴォーカリストは、そこまで音楽の世界を理解せず、表現する能力を持っていないことが多いからです。
一方、楽器のプレーヤーも、海外のバンドのミュージシャンのように、歌えるわけではないので、そこに対しては、なんとなく関与しない、指示できないことが多くあります。そこで私などの仕事となるわけです。ヴォイストレーニングというよりは、コーディネートです。
シンガーソングライターが出てきてから、あるいは、ギターやピアノを弾きながら歌うような人たちが多くなり、そういう場合は、かなり演奏面での理解というのは、進んでいます。曲を作ったり、演奏したりするときに、否応なしに音楽というものを理解するからです。
〇構成と展開
音を鳴らしてつなげて、音楽にするのが、プレーヤーです。彼らは、最初は楽譜を見て、そのまま弾いていますが、そう弾いているだけでは、演奏にならないことを知り、そこで構成や展開を徹底して考えて、プレーしていくことになります。
まずは1つの音の出し方、それの伸ばし方、そこから始まってフレーズ、そして展開に入っていくわけです。
この辺は、ヴォイストレーニングに、私はきちんと入れているのですが、何しろ、1つの声の出し方のところに、それほどこだわらないのが、日本の歌唱の現場です。
自分の声だからオリジナリティーがあると思うからでしょう。そこには確かに違いがあり、そこが、楽器に対する大きなアドバンテージになっているのです。
ですから、オリジナリティーということも、勘違いされていることが少なくありません。楽器であれば、それがボロボロでとても使えないのに、音が他のものと違うから、といって、オリジナリティーだといえるはずはありません。
でも、声はそれぞれ違いますし、言葉にしてみたら、さらに違うわけです。歌のアドバンテージです。
であるとしても、それをもって、個性だとか才能だとかオリジナリティーということは、あまりに稚拙です。
でも、そのいい加減さがヴォーカルの持ち味となることが多いのでしょう。本来、音楽としてハイレベルの世界では、ありえないことですが。
〇一音一声から
具体的にどのように進めていくかというと、まずは発声です。言葉の処理ができているという前提の上で行うのであれば、共鳴が中心となります。つまりはロングトーンです。1つの音をしっかりと伸ばすというようなことは、せりふのなかではそれほどありません。
同じ声量で同じ高さで伸ばすのです。最も効率のよい共鳴を使います。ポップスであれば、10秒以上伸ばして歌いあげるということはほとんどありませんが、そのぐらいをめどに、20秒くらいを自由に使えるほどの器は欲しいものです。
この20秒のなかで、クレッシェンドさせたりデクレッシェンドさせてみたり、その両方を取り入れたりするようなことを、声楽の基本トレーニングのように行っておくと、とてもよい練習になるでしょう。何よりも、呼吸ということに対し、しっかりと深いところでお腹からコントロールできるようになります。
せりふと違うのは、出しているなかで、息が取れなくなったらブレスをすればいいし、息が足らなくなることも、表現、言葉が息声になったりすることも、含めて、成り立つわけです。
これは、そもそも、共鳴するのが母音であるのに対し、言葉のほとんどが子音を伴い、息でつくったり共鳴する音を歪ませるなどして出すものだからです。
こういう点でいうと、言葉というのは、母音は別ですが、全体として共鳴を邪魔するものであるということです。クラシックのようにオーケストラで合わせる、共鳴を合わせていくというような世界から見ると、歌そのものというのが、言葉をつけた段階で、その音楽の世界を邪魔しているわけです。感情を含むからです。
それにとらわれず、音楽的に共鳴を合わせているものとしては、合唱のような作品と思えばよいかもしれません。
ただし、音楽といっても、クラシックがかなり特別なだけで、ポップスで使われるような楽器の演奏では、ギターでも音を歪ませたりします。歪みが有効に使われているようなものも少なくありません。邦楽などは、ほとんどがそういったものです。三味線や尺八を思い出してみるとわかるでしょう。
それを考えると、ポップスでマイクを使って歌っている人たちの声が、クラシックのように共鳴第一でないことはよくわかると思います。ハスキーな声であったり、息を混ぜてソフトに歌ったりも自由に行っているわけです。
声優や役者にも、いろんな声があり、そのまま生の声が魅力的な人もいます。当然、好きに歌ってみても、その人独自の世界が出ているわけです。
〇再現性
歌唱に関する絶対条件というのは、役者や声優のせりふとも共通するところですが、同じことを寸分違わず、再現できるという声のコントロール力です。
私はポップスの立場で見ていますから、どんなハスキーな声であっても、それで毎日、20曲なんなく歌えるのであれば、問題ないという立場です。
ただ一方で、ヴォイストレーニングから、発声の理想的なところの原理というものは、基礎として共鳴のところにおいています。ということは、ハスキーな声の制限や可能性、将来性でみて、意図的にそういう方向に指導することはありません。
それを使いこなせる人の能力は特別なものであって、誰もが、そのようにはいかないのです。だからこそ、個性的であり、魅力があったり、カリスマ性があるということです。
つまり、ヴォイストレーニングにおいては、誰もが確実に基礎の力をつけるというところに、第一の目的を置きます。その人だけにしか通用しないというようなことで考えるのは、本来はそうした基本的な力がついてから後のことです。
ただ、役者や歌手というのは、生きてきた年月の間がトレーニングになっています。練習より現場が先に来て、そこで問われることが多いので、なかなか、そのように、理想のプロセスを取るわけにはいきません。
ですから、養成所やプロダクションなどの指導というのも、どちらかというと、結果オーライで舞台でつながる、すぐに役立つことから入ってしまいます。
もちろん、すでにオーディションの段階で、有能とみなされたり、基本的な力があると思われるような人たちが多いので、現場を踏みながら力をつけていき、大体はそれで終わります。
そこで声が出なくなったり、さらなる上達を目指したりするような人たちが、ヴォイストレーニングにいらっしゃることになります。
しかし、私の考えるヴォイストレーニングにおいては、役者や声優は、言葉の使い方のところでプロであるだけで、呼吸から発声、特に共鳴などに関しては、素人同然のことが多いのです。なまじ、強い声、大きな声、高い声、太い声などが出てしまうために、まわりから、それだけで評価されてしまい、ある程度のところでとどまっている人も多いのが現状です。
歌も、それなりに演じてしまえるために、普通の人から見ると、惹きつけられるものとなり、そこから先の、本当に必要な厳しい評価というのをされないことが多いわけです。
歌も複数で一緒に歌ったりしていますから、個人個人の、歌唱能力等というのが評価されていないのです。むしろ声優の方が主題歌を歌ったりして、そういう機会に実力のないのを突きつけられたりしているようです。
〇フレーズの練習
先にロングトーンが基本であることを述べました。歌ですから、メロディについて高低や強弱をつけていくわけです。同じように基本ということであれば、スケール練習となります。
簡単にいうと、ドレミレドです。これをレガートでスムーズに移動させるわけです。
ここでは音感、ピッチや音程をとる力が必要となります。
異なる音を同じ音質で処理するということです。歌のなかで音の高さによって、声質が変わると思いますが、基本的なことでは、できる限り、同じ音質にそろえることです。そのほうが有利であるということです。その点を徹底しているのが、声楽です。
ドレミレド、一音に対して4秒ずつ、とっていくと合計で、20秒となります。
1オクターブ半で歌うのであれば、1オクターブ半のどこでも、この条件を満たさなければなりませんが、プロの歌手でも、そんな人は、ほとんどいません。
最も楽に声が出せるところで、20秒できれば、かなり優秀だということになります。ということで、実際の練習は、2秒ずつの合計10秒で行うことが多いです。
もちろん、ヴォイストレーニングでは、高いところも低いところも少し背伸びさせようとしますから、2オクターブ以上練習している人たちも少なくありません。ただ、そういう人たちの場合は、音色はバラバラ、このスケールのなかでもきちんと揃ってない。それどころか5つの音さえ、全く統一されていないようなことが、ほとんどです。
一概にはいえませんが、たとえわずか1オクターブでも、10秒のスケールを完全にするのに、3年くらいで、できたら、かなり優秀なレベルだといえます。
レガートが出てきたら、スタッカートは、どうだというようなことになります。お腹を使うようなことで、先にスタッカートを行わせるところも多いようです。
ただ、今の私は、さほど重視していません。
ドッグブレスのような、短く息を切って、繰り返す、お腹の感覚や筋力をつける段取りをすることは、とてもよいことだと思います。
いわゆる身体から声を出すために、身体から力を出して使わなくてはなりません。腹式呼吸といわれていますが、全身できちんと出せる声を支えるトレーニングは、基礎的なトレーニングの中心に位置します。
ただし、それだけで上達することはないので、やはり声として出してみて確認しながら進めていく方がよいでしょう。
〇基礎と応用
役者や声優、最近は、アナウンサーでも、必修のトレーニングとなっているのが、「外郎売り」というせりふのトレーニングです。5分間くらいで、ういろうが売れるようにメリハリをつけた口上をまくし立てるのです。
ほとんどの人が、2か月ほどで丸暗記をして、噛まずにスムーズにいえるまでに、1年くらいかかります。2年ぐらい続けると、滑舌も自然となり、早口言葉としては合格するようになります。
ただし、ベテランの役者がそれを読むのに比べたら、表現力はほとんど伴ってないのです。本当の練習は、そこからです。
ヴォイストレーニングでも似たようなことがあります。音程やリズムがとれるようになり、歌詞も明瞭に発音できるようになっても、表現力がほとんど伴っていない、不自然な感じになりがちです。
せりふの場合は、それほど、声域をさほど使わず、声の高さを指定されないので、自分の最も声の出るところで行うだけまだマシです。練習しているうちに、声が以前よりは、しっかりと深くなってくることが多いからです。
ところが歌の場合は、多くの人が、出しにくい高音、自分が楽にとれる声域より高い声のほうに、集中してトレーニングします。高く出せることが、上達の目安のように思ってしまうからです。高い声だから、わかりやすいからです。出たらよいわけでなく、無理な出し方が、声の可能性を狭めることが多いのです。
特に今は、声量やパワーというのをあまり重視しませんから、なおさら、その傾向が強く、まったくの基礎もできないうちから、裏声、ファルセット、その喚声区を決めたり、ミックスヴォイスとかというのを半端な声で決めつけて、練習したりします。
声というのは、決めつけて練習すると、それなりに早く扱えるようにはなるものです。音程やリズムと同じで、その点だと思って、それに当てるようにすると、外れなくはなります。しかも自信をもつだけで説得力が増します。
しかし、それは、固定する、癖で固めていることが多く、もっと可能性のある声や身体の使い方を覚えることをなおざりにしてしまうのです。つまり、自分のさらなる可能性を制限し、場合によってはつぶしているということになりかねません。
巷の歌のヴォイストレーニングやレッスンでは、2、3年は、伸びるのに、その後に全く伸びなくなったり、場合によっては、そこで声が出たり出なかったりを繰り返すようになることが多いのです。何年、続けていても、声の変わらない人が大半です。
最初に行うべき基礎を固めず、応用ばかり行っていたからです。スポーツや武道で考えると、練習試合ばかりやっていたということです。
確かに、普通の人に比べたら、練習試合もやらない人よりは強くなります。しかし、その間に基礎をきちんと固めた人には、全く通じない、そういうことなのです。
ですから、言葉のレッスンに比べて、歌では、気をつけなくてはならないのです。最初の2、3年の試行錯誤というのが、ともかくもプラスに働くのが、言葉という、表現できた、表現できていないというのが、素人にもわかりやすい分野です。それゆえに、それなりに、心身を使って行えるようになるのです。
歌唱は、そういう分野とは、少し違います。基礎と応用にかなりの距離があり、両立しがたいのです。声楽の発声というのは、自分独自に勉強すると、ほとんど間違えるといわれるのは、そのためです。どうしても、その日のその時の感覚で判断してしまうからです。
自分自身の具体的な目的、目標が明確に定まらないから、ギャップもわからず、それを乗り越える方法も、適切に使えません。これで上達する方がおかしいわけです。
〇感覚の覚醒と共鳴
言葉での練習のキャリアがあるのであれば、それを踏まえて練習していくのが、かなり有利な方法といえるでしょう。
楽器のプレーヤーであれば、自分が楽器を習得したプロセスを考えてみましょう。本当に上達した人であれば、どこかで大きく感覚を変えたのではないでしょうか。
もっとわかりやすいのは、武道やスポーツといった身体に身につけていくもののプロセスです。最初は、一見、今の状況で最も動かしにくいようなトレーニングを基礎として行ったのではないでしょうか。それは不足しているものを補うための、部分的な強化トレーニングであり、ある段階ある段階、階段のように進歩する、それまでの間は、全体のバランスを失い、うまくコントロールできなかったのではないでしょうか。
そもそもコントロールできているのであれば、そんな問題は生じないわけですから、コントロールできてないところで、新たな力をつけるのに、コントロールを失うことに踏み込まないのであれば、たいした変化はない、つまり、飛躍的な上達はしないということは、誰でもわかるでしょう。
自己流で泳いでいる人が、いつまでたっても、スクールで習ったフォームを取得したような人たちに勝てないのと同じなのです。だからこそ、基礎といわれ、フォームといわれ、トレーニングといわれるのです。
私が、役者や声優の希望者に、歌、特に共鳴を含めた声楽の基礎を、課題としているのは、そういった意味があるのです。言葉のプロだけに、言葉の意味内容にとらわれがちですが、言葉は音声ですから、音楽としてのリズムやメロディといったものも伴っているわけです。
「せりふを歌うように、歌をせりふをいうように語る」
この区別をしている限り、言葉も歌も本当の意味で極めたことにならないと思うのです。
〇歌の魅力
歌の魅力について、どのようにしたらわかるかということを、役者や声優に、よく聞かれます。というのは、せりふの魅力、伝わり具合は、ある程度やっていくと、そこに対しては、自分の実感としてわかるようになります。
それは決して発声や共鳴や言葉ということではなく、気持ちがきちっと出たか、伝わったかという判断です。日常にもあるので、実体験などを踏まえても、それはわかりやすく、また学びやすいものだからです。ましてや、他人とのなかで切磋琢磨していき、相手や演出家がいるのですから、よくならないわけがないわけです。
これは、優れた役者から学ぶというよりは、自分よりもできない人、あるいは自分と同等の人から学ぶことも多いでしょう。というのも、自分より優れた人の行う判断というのは、なかなかできないのです。優れているとわかっても、どこがどのように優れ、それをどうやれば身につくかということは、わからないのです。わかっていたら、きっとそうして、優れるようになっているはずだからです。
それに対して、自分の後輩や初心者のように、どう考えても棒読みとか伝わっていないものはわかりやすいでしょう。それを自分自身に当てはめるとよいわけです。
そのようにして、せりふ、言い回し、さらに発声そのものも伸びていきます。伝えることについても、感受性が鋭く、また現場における体験によって、いろいろフィードバックをし、何度もやり直すなかで、せりふで伝えられるプロになっていくわけです。
朗読になると、問われることが違う場合がありますが、かなり応用できます。少なくとも素人が行うよりもよほどうまいわけです。アナウンサーやナレーションとは、ちょっと違う世界です。
日本のアナウンスやナレーションというのが、かなり形式ばった形で整えられているために、かえって、そこにギャップを感じます。
アナウンサーでも、雑談トークに優れていて、砕けている人たちの方が、バラエティーなどでは通用しやすいでしょう。そういう経験を積んで、日本のアナウンスやナレーションとは違う、伝える力を磨いていく人もいます。
〇歌の判断
で、問題は、歌に対する判断だと思います。せりふの感覚で伝えるということと、歌の感覚で伝えることは、かなり異なってきます。
先にも述べた通り、相手が役者でなく、音楽ということが最も大きいのですが、その他にもいろんな違いがあります。
それを、私は、役者や声優のショー、ライブ、舞台での歌や打ち上げのカラオケなどで、かなり感じてきました。
アウトプットの方からいうと、ステージングに関しては、さすがに、舞台で鍛えられているだけあって、表情やパフォーマンスに関しては、プロなのです。
雰囲気だけでも、プロは、表情や目の力というのを持っています。自分がどのように見えるかというような見せ方については、歌い手などよりもよっぽど、慣れているわけです。MC、トークに関しても同じです。
日本の歌い手は、自分の歌をフレーズごとに聞き返したりするようなことをあまりしませんが、役者の場合は、どんな短いフレーズもこだわらざるをえません。演出家がいるのですから。いろんな役でいろんな表現が求められます。聞き返して、やり直したりして磨いていくことで鍛えられます。私がレッスンで行うのは、歌に関して、まさにそのことなのです。
歌の場合は、リズムやメロディや歌詞という、いろんなものが混じっています。しかし、それは幾何学的というか数学的に、かなりきちんとした枠に収まっているわけです。
つまり、コードの進行のように、音楽に詳しい人たちには、あたりまえのような枠組みがあり、そのなかで進んでいくわけです。
そして、日本の歌い手の場合は、その枠組みのなかで収めることが多いのですが、ほんとに優れた歌というのは、そこからどのくらい大きくはみ出るか、そして、戻せるかで、セッションしていくわけです。
この辺に関する、考え方は2つに分かれます。
役者で、音楽性のない人の方が、その枠をはみ出して、魅力的な歌唱のステージを行える人が多いのです。お笑い芸人も同じ、クリエイティブな引き出しが多いし、他人と同じことでは、芸にならないからです。
合唱団出身とか音楽をしていたりする人ほど、カラオケに慣れている上級者のような、つまらない歌い方をすることが多いのです。
ただ、役者、声優の場合、せりふの延長上で歌っているのが、目につきます。心地よくはないことが多いのです。
また、最近の若い人の場合は、カラオケの練習によって出た成果で、素人の上級者のように歌っている人が多いです。心地よいようで心に響きません。
時折、音楽性に優れた、音楽が聞こえてくるというような、役者がいると、それは、学生時代にバンドをやったり、楽器をやったり、キャリアのある人だということがわかります。つまり、入っていないものは出てこないということです。
歌は、自分が感じた通りに表現して歌うというふうに思って間違いはありません。しかし、その自分の歌というのが、難しいわけです。最終的に問われるのは、アーティストのものまねではなく、オリジナリティーです。
他の人とどう違うように歌い、しかもそれが独りよがりでなく、納得できるもの、説得できるもの、伝わるものになるかということです。その分、個性の強い役者さんの場合は、かなりアドバンテージがあると思います。
特にプロの場合は、自分の強いところをよく知っていますから、それを全面的に押し出します。それが音楽的に向いているのかどうかは、別の判断ですが、少なくともステージとしては、人を魅了することができます。
私の立場としては、それにごまかされないように、しっかりと音楽や発声のところで見て、アドバイスするようにしています。つまり、そこに関しては、歌唱という音楽の耳と、それからヴォイストレーニングでおける声の改良をどう補っていくかということが、レッスンの要となるわけです。
〇当初の方針と声楽の基礎
もともと私の、当初の方針は、日本の声楽家より日本の役者の方が声が強いから、まず日本の役者としての強い声をつけてから、歌いだせば、問題の半分が解決するだろうということでした。言い換えるなら、後で限界を感じる問題を避けられるということです。
その後、歌い手のなかでも、発声や共鳴ということに関する理解や音楽的な基礎が欠けているというようなことで、声楽を取り入れました。呼吸法や発声、共鳴に関しては、確実に、あるところまで、必要な息と声ができるという本来のヴォイストレーニングのベースが成り立つようになりました。
今のJ-POPや日本のミュージックであれば、本当の声楽の基礎を行えば充分なので、そこはベテランの声楽家に任せるようなことが多くなったというわけです。本当とつけたのは、声楽にもいろいろとあるからです。
となると私が行うことは、歌におけるその人のオリジナリティー発掘と、声の根本的基礎、声楽を学んでいる人たちの、さらに、その基礎ということです。
一流の声楽家が徹底して行っているようなことを徹底して行うわけです。ですから巷のヴォイストレーニングと、一致するようなことは、あまりありません。
なぜなら、それは大体がカラオケレベルでうまくなるようなことに焦点が当てられているからです。受講者がそれを望むなら、それでよいことです。
薄く広く何でも器用にできるようにするという方向と、自分本来が持つ声をしっかりと鍛え、その上で使って、音楽、歌唱にもオリジナリティーを求めるという方向は、対極にあるからです。
つまり、本人がどういうふうに歌いたいのかというのを、はっきりさせるということ、これが至難のことなのです。
こういうふうに歌いたいのに、うまく歌えないという場合に、そこに方法を入れてテクニカルに歌わせるのは、難しくありません。カラオケの点数をあげるようなことです。
本人も気づかない、もって生まれた資質、喉、身体を使いきる方向で、それを補う材料を与え、それを徹底して真摯に身につけ、どういう世界が出てくるのかを発見していく、声の発見以上に難しいのですが、本人さえ最初にはイメージできない何かができあがるプロセスを私はみてきたのです。
この方法と材料という考え、これが違うわけです。つまり、ノウハウやハウツーなどというものでは、結局のところ、早く、それでこなして、問題が解決したというような誤解が生まれるだけなのです。実際に、器用にうまくなった人の歌などは、間違ってないだけで、伝わるものではありません。
ですから、最終的には、ヴォーカリスト本人の考えを尊重します。
歌唱において無理があったとしても、その人がそれしかないというところまで突き詰めたものであれば、それに対する声の出し方やそれをしたときの限界、メリットやデメリットということを、できるだけ細かく説明します。
その結果、方針を変えることもあれば、そのまま、元のように歌おうとする場合もあるでしょう。もちろん、やっていかなければわからないのです。実際に声や歌唱法が変わっていって、その人の可能性が大きくなっていくことも、その逆もあるからです。
何よりも、本人がどのようにしたいかということが、一声、1フレーズ、ワンコーラスで私たちを説得できるくらいに、高度なレベルになっていくことが大切です。
創造するのはアーティストで、それを支えるのがトレーナーの役割であるからです。
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