アナログ派の愉しみ/本◎ヴェルヌ著『地底旅行』
個体発生は系統発生を繰り返す――
その洞窟はわたしの棲みかに他ならない
ジュール・ヴェルヌの膨大なSF小説群のなかでも、読み手の年齢にかかわりなくワクワクさせられることでは、この『地底旅行』(1864年)が随一ではないだろうか。実際、わたしも少年のころ、青年のころについで、この歳になって改めて読み返したところ、からだの芯から戦慄が込み上げてくるのを覚えた。どうしてだろう? 考えてみると不思議だ。同じ作者の『月世界旅行』や『海底二万里』などに較べて著しく科学的合理性に欠け、ほとんど荒唐無稽と言っていいくらいの内容なのに。
鉱物学のリーデンブロック教授は、古文書の解読によって、アイスランドの死火山の火口から地球の中心へと向かう秘密のルートがあることを知り、甥の青年アクセルをつれて実地調査に出かける。そして、危難につぐ危難を乗り越えて、ようやく終着点の大洞窟に到達すると、意外にも見渡すかぎりの大海が広がっていた。その光景は、アクセルの目をとおしてこのように描かれる。
「そんなに遠くまで、この海の上を見わたせたのは、《特殊な》光線が、こまかくすみずみまで照らしてくれたからだ。(略)この光の強い輝き、そのゆらめくようなひろがり、すんでいるがうるおいのないその白さ、低いその温度、月の光よりはるかに明るいそのきらめき、そんなものから考えると、どうやらこれは電気現象のようだ。言ってみれば、オーロラみたいなもので、大海をすっぽり入れる巨大な洞窟にみなぎる、持続的な一種の宇宙現象なのだ」(川村克己訳)
リーデンブロック教授とアクセルが眼前にしているものが、わたしの目にもありありと浮かんでくるようだ。あたりは見上げるばかりのキノコの森が繁茂し、とうに絶滅したはずの古代生物たちがウヨウヨ生息し、やがて海中から巨大爬虫類の恐竜たちが姿を現して取っ組み合いをはじめる。そんな現実離れしたありさまにも、どこかしら懐かしい感情を掻き立てられるのはわたしだけだろうか。
解剖学者の三木成夫は著書『胎児の世界』(1983年)のなかで、中絶手術によって得られた胎児の標本を観察した記録を紹介している。それによると、受胎後32日目の胎児の顔は頚部の両側に整然とエラが並ぶ魚類のものであり、34日目には中央の鼻が隆起して両生類の特徴を帯びてくる。その後に、こう続くのだ。「三六日の顔がこちらに向いたとき、しかし、わたくしの心臓は一瞬とまった。爬虫類の顔がそこにある。あの古代爬虫類『ハッテリア』の顔ではないか」。実際、本文中に添えられたそのスケッチからも、太古の息吹が生々しく伝わってくる。やがて、胎児がようやく人間らしい外見になってくるのは60日目以降のことで、頭部の大脳半球がふくらむ一方、次第に面長となって、両目を完全に閉じた表情は、あたかも深い眠りのなかで夢を見ているかのようと報告されている。
個体発生は系統発生を繰り返す――。わたしたちはひとりひとり、母親の子宮のなかに受精卵として発祥したのち、細胞分裂を重ねながら、生命の40億年にわたる進化史を一気に再現していくのだ。
すなわち、地球の中心の洞窟とはかつてのわたしの棲みかであり、《特殊な》光線に包まれてうごめく古代の魚類や爬虫類とは羊水に浮かぶ自分自身の姿に他ならない。だからこそ、わたしたちにとってヴェルヌが語りかける冒険譚はいつまでも陳腐化しないばかりか、むしろ年齢を重ねて生命にまつわる地層が厚くなったぶん、それはよりスリリングな興奮をともなって立ち現れてくるのではないだろうか。
さらには、みずからの内に一匹の恐竜が存在することを確かめるごとに、疲弊した現代人は原初のエネルギーをよみがえらせるのかもしれない。地底旅行から帰還したアクセルを迎えて、フィアンセのマルタは思わず感嘆の声を挙げるのだ。「いまこそりっぱな英雄におなりですわ」と。
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