アナログ派の愉しみ/映画◎黒澤 明 監督『七人の侍』

それは「談合」の呪いを
解くための戦いだった


もう20回目ぐらいになるだろうか。久しぶりに『七人の侍』を鑑賞して、またぞろ新しい発見と出くわしたのに驚いた。野武士の来襲を迎え撃つために街道筋へ侍のリクルートにやってきた村人たちが、いつまでも条件の合う人材を見つけられないことに業を煮やす。こうなってはもはや「野伏せりと談合するほか手はねえ」と万造(藤原釜足)が言い出したのに、利吉(土屋嘉男)が「今度は何を出して談合するだ、お前んとこの娘出すつもりか」と食ってかかる。その「談合」という表現に、目からウロコの落ちる思いがして唸ってしまったのだ。

 
冒頭のシーンで、野武士の集団が馬を駆って眼下の村を襲おうとすると、頭目(高木新平)が制止して、ここは去年の秋にコメをかっさらったばかりで何もあるまい、あのムギが実ってからにしよう、と告げる。それを物陰で聞いた村人の通報で慌ただしく集会が開かれるわけだが、ここに至った経緯を要約すれば以下のようになるだろう。この山間の村では春から秋にかけてコメ、秋から春にかけてはムギの二毛作を行っていて、去年の秋に野武士がやってきたときには収穫したばかりのコメを奪われただけでなく、あとで明らかになるとおり利吉の妻を差し出すことで「談合」が成り立ち、かろうじて平穏を維持したのだ。

 
しかし、食糧と女性とはすなわち生存と生殖の源であり、それらを失うのは村の存続にかかわるという以上に、当事者たちにとって最大の屈辱以外のなにものでもなかったろう。そうした「談合」からまだ半年も経過しないうちに、ふたたび同じ事態が出来しようとしていることに対して、長老の儀作(高堂国典)は断固として戦いの方針を示し、復讐心にはやる武闘派の利吉だけでなく、穏忍自重派の万造たちも結局は呑み込まれていったわけだ。かくして、ざっと50人におよぶ野武士集団と対決するために、プロの戦闘要員である侍を農民が雇うという身分の上下を逆転させたドラマが動きだす。

 
ここで留意しておくべきは、リクルートされた7人の侍との交流と並行して、儀作や万造、利吉たちは半年前の「談合」を通じて野武士の連中をよく知り、心ならずも不埒な交渉で結ばれた抜き差しならない間柄にあったわけで、かれらはみずからが組み込まれた関係を完全に払拭するには相手をひとり残らず殲滅する必要があった。実際、村ではこれまで落武者狩りを盛んに行ってきた過去がある以上、そうした生命のやりとりの意思は一時の気の迷いなどではなく、いざとなったら女子どもを含めた村人すべての死も覚悟しての決断だったはずだ。

 
これを野武士のサイドから眺めると、かなり事情は異なっていたろう。連中は助太刀の侍たちには容赦しなかったものの、村人には食欲と性欲の対象を依存している以上、はなから皆殺しの意図はなかった。それが証拠に、戦いの火蓋が切って落とされるやいなや、離れの3軒の家屋と水車小屋は焼き払いながら、以降は繰り返し村内を侵しても放火の挙に出ることはなかった。もし本気でやっつけるつもりなら火を使うのは定石だし、そうなったら村は文字どおり灰燼に帰していたろう。それを行わなかったのは、連中が侍を倒したのちにまた村人との「談合」を目論んでいたからで、こうした姿勢が自滅を招いたのである。

 
その戦いは村人が「談合」の呪いを解くためのものだったとするならば、7人の侍はしょせん主役ではなかった。おそらく、かれらのなかで状況を理解していたのはただひとり、百姓出身の菊千代(三船敏郎)だけだったろう。だからこそ、かれは最後にわが身を捨て、野武士の頭目の前に立ちはだかってもろともに死を遂げたのだ。侍のリーダー、勘兵衛(志村喬)が戦闘を生きのびて、村人が総出で田植えにいそしむ光景を眺めながら「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」とつぶやく有名なラストシーンのセリフも、そうした内実を表していたのに違いない。

 
『七人の侍』が完成したのは、太平洋戦争が日本の無条件降伏によって終結した9年後のことだ。荒廃した焦土にはダグラス・マッカーサー元帥をトップとするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれ、いわば戦勝国アメリカと敗戦国日本との「談合」にもとづく占領政策が実施され、そこでは映画も厳しい検閲の対象となって、侍が刀を振りまわすチャンバラは軍国主義的として全面禁止された。そして、1951年にサンフランシスコ講和条約が成立して主権を取り戻すなり、黒澤明監督が満を持して取り組んだのが史上最大規模のチャンバラ映画の企画だった。

 
この作品自体、新たな時代に向けて日本人が「談合」の呪いから解き放たれるためのものだったのである。いまだに日本映画のベストワンにランキングされるゆえんだろう。
 
 


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