アナログ派の愉しみ/映画◎キューブリック監督『2001年宇宙の旅』
でも、どうして
進化しなきゃいけないの?
映画『2001年宇宙の旅』について大学生たちと意見交換するという、はなはだ貴重な機会を得た。各自事前にビデオを観てもらったあとで、オンライン会議システムによりセミナーを行ったのである。
スタンリー・キューブリック監督が作家アーサー・C・クラークと協力して、このSF映画の金字塔をつくりあげたのは1968年のことで、当時から42年後の次世紀の初年を舞台に人類のオデッセイ(原題=長大な冒険旅行)を描いている。いまの大学生はその時代設定のあとに生まれ育ったわけで、いわば「ポスト2001年」世代のかれらの目にこの作品がどのように映るのか、わたしは大いに興味があった。まあ、前振りはこのぐらいにして、さっそくおもだった意見を紹介しよう。なお、かれらの大半がこの映画のあることを知らず、当然ながら初めて実見したという。
「古臭い映画だと思った。あんまりテンポがのろいから早送りで観たのだけれど、それでも退屈して途中で寝てしまった」(男子)
「シンプルで難しい」(女子)
「冒頭のタイトル音楽は『ツァラトゥストラ』という曲だと知って、そのもとになったニーチェの本を手に取ってみた。すると、扉に『だれでも読めるが、だれにも読めない書物』とあり、続いて、人間はサルにもなれるし超人にもなれると書かれていた。それが映画のテーマだと思った」(男子)
「この世界に生まれて、はじめは何もわからないサルみたいだったのが、大きくなるにつれてだんだん知恵がついて活動範囲が広がり、最後は老人になってふたたび赤ん坊の状態に返っていく。そんな人間精神の経過を辿ったフロイト的な作品である」(男子)
「意味不明なのでネットで調べたところ、ウィキペディアにはわけのわからないことがずらずら書いてあり、他のサイトではウィキペディアは間違いだらけだと書かれていて、ますますわけがわからなくなった」(男子)
「恐怖がテーマだと思う。祖母、母、高校生の弟といっしょに観たのだが(父は単身赴任中)、はじめのサルのところで弟が怖いと逃げ、月面基地へ黒い板の探検に行くところで母が脱落し、さらに頑張った祖母も木星で異次元空間に入ったところで降参し、私はラストシーンの宇宙に浮かぶ巨大な胎児が本当に怖かった」(女子)
「ボーマン船長とコンピュータHAL900の関係が崩れていくのが怖かった。それは人類と科学技術の関係、ぼくとスマホの関係を表しているのかもしれない」(男子)
確かに、この映画はかねて難解なことで知られているものの、かれらのただならぬ当惑ぶりには従来とは異なる事情もありそうな気がした。キューブリック監督は前作の『博士の異常な愛情』(1964年)で米ソ両超大国の行き違いから全面核戦争が勃発する悪夢を描いたとおり、この『2001年宇宙の旅』でも人類同士の愚かな不信に対する諦観が根底に横たわっていて、それをわれわれは一種の常識と受け入れていた。ところが、ソ連という国家もすでに歴史の一ページと化したかれらには理解不能で、これまで経験のない恐怖を呼び起こされることにもつながったのではないか。いや、待てよ。ギャップはもっと深いのかもしれない。と言うのは、男子・女子の別なくつぎの見解が表明されたからだ。
「人間の進化が主題とはわかる。でも、どうして進化しなきゃいけないの?」
前世紀に幼少期を送った世代はたいてい、人類は遠くない未来に絶滅するというペシミズムが心中に巣食っているだろう。全面核戦争か、環境破壊か、食糧危機か……、人為的なカタストロフィによってひとり残らず地球上から姿を消す。そんな予感を物心ついたころからインストールされてきたはずだ。したがって、人類が危機を乗り越えて生きのびるためには、いまより高等な存在へと進化を遂げる必要がある。『2001年宇宙の旅』もまた、そこから発想されていることは言うまでもない。ところが、どうやら「ポスト2001年」世代にとってこの手のペシミズムは無縁のものらしいのだ。
人類はこのままで未来永劫存続していく。だから、もはや生物学的進化をする必要はない。もし本当にこうした世界観のもとで過ごしているとすれば、それはかれらにとって幸福なのかどうか――。あのセミナー以来、わたしはずっと考えあぐねている。