アナログ派の愉しみ/音楽◎コンヴィチュニー演出『ローエングリン』
白馬に乗った王子さまが
教室にやってきた
オペラの上演で意表をついた演出に出くわすようになってすでに久しい。とくにリヒャルト・ワーグナーの作品においてその傾向が顕著なのは、神話や伝説を題材にもとづく現実離れしたストーリーが壮大な音楽によって描かれるという、はなはだ誇大妄想的な世界を特徴としているせいだろう。半世紀ほど前にバイロイト音楽祭でパトリス・シェローが『ニーベルングの指環』を産業革命期の階級闘争として描いてセンセーションを巻き起こして以降、あれこれと奇抜なアイディアが開陳されてきた。
そうしたなかでもひときわワグネリアンの度肝を抜いたのは、ドイツの演出家ペーター・コンヴィチュニーが手がけた『ローエングリン』だろう。わたしが視聴したのは、2006年にバルセロナ・リセウ大劇場(セバスチャン・ヴァイグレ指揮)で行われた公演のライヴ映像だが、その途轍もないステージに目が釘付けとなり、約4時間の長丁場があっという間に過ぎ去ってしまった。
物語はこんなふうにはじまる。中世ヨーロッパの小さな公国をドイツ国王が訪れると、そこは内紛のまっただなかで、先代領主の姫君が無実の罪を負ってあわや処刑されそうになったとき、白馬の王子さまならぬ、白鳥に曳かれた小舟に乗った白銀の騎士がどこからともなく現れて……。したがって通常の上演なら、国王や貴族、軍人たちが見守るなかで、美貌のヒロインと光り輝くヒーローが危機を乗り越えて愛しあうという、タカラヅカさながらのきらびやかな舞台が繰り広げられがちだ。
ところが、コンヴィチュニーの演出はまったく異なる。幕が開くと、そこはなんとギムナジウムの教室らしい。生徒たちが紙飛行機を飛ばして無秩序状態にあるのは、いまの日本でいう学級崩壊と似たり寄ったりだろう。そこに紙の冠をかぶってハインリヒ王を名乗る男の子が登場すると、悪ガキの男の子テルラムントと女の子オルトルートが立ち上がり、同級生のエルザが弟のゴットフリートを殺したと告発し、そのエルザを救うために地下から白いコートをまとった騎士が立ち現れる、といった具合。まるで学芸会のようなつくりにわたしも失笑しかけたのだが、ふと考えてみると、現実の教育現場を蝕んでいるいじめだって、外部のわれわれから眺めれば茶番に見えても、内部の子どもたちにとっては生死にかかわる重大事なのだ……。
第2幕は、いっそう深刻さを増してくる。騎士はエルザに対して自分の身元や名前を決して問わないことを条件に結婚を約束したのだが、そんなへんてこな人物のせいでクラスの総スカンを食らったオルトルートは深夜の教室で復讐の策謀をめぐらし、エルザの耳に騎士への疑惑を吹き込んで正体を突き止めるように促す。いまだ無知に閉ざされた教室を「エデンの園」に見立て、ふたりを蛇とイヴの関係に譬えるならば、たとえオルトルートの教唆がなくともエルザが結婚相手の氏素性を知ろうとしたことは、おそらく蛇の存在にかかわりなくどのみち禁断の知恵の実を口にしたはずのイヴと同断だろう。
第3幕では、知と無知がせめぎあい、狭量と不信が渦巻く教室は、もはや人間世界そのものの縮図と見えてくる。あまりにも有名な結婚行進曲が鳴り渡って騎士とエルザが結ばれたのち、初夜の床がのべられると凄まじいいさかいが勃発する。うろたえた男の抗弁に耳を貸さず、女は執拗に問い詰めるのだ。
何も安らぎを与えてくれない、
どうしても妄想から逃れられないの。
たとえ命を失っても、
貴方がどんな方なのか知りたい!
(井形ちづる訳)
ついに騎士は説得を諦め、ハインリヒ王はじめ一同を呼び集めて、エルザが禁を破ったことを公表したうえで、自分は聖杯(十字架上のキリストの血を受けた杯)を守護する騎士のひとり、ローエングリンだと名乗り、聖なる身分を明かした以上は決別しなければならないと告げて、宿敵テルラムントを一撃で殺してから、ふたたび地下へと去っていく。そして、代わりに死んだとされていたエルザの弟ゴットフリートが帰ってくるのだが、教室の床の穴から出現した男の子は鉄兜をかぶり自動小銃をかまえていた。そう、まさしく現在、ウクライナ危機の最前線に立つ若い兵士のように――。