アナログ派の愉しみ/映画◎デ・サンティス監督『にがい米』
わたしがひと粒も
ごはんを食べ残せない事情
昨今、白いごはんの旗色がはなはだ悪いようだ。
日常の食生活における糖質制限の必要性が叫ばれるなか、真っ先に槍玉にあげられて、わたしもそれなりに心がけているつもりだけれど、外食で出されたごはんの量が多めのときは食べ残せ、というアドバイスだけは実行できないでいる。幼いころ父母から、ごはんはすべて食べるよう躾けられて以来、すっかり習い性と化して、目の前の器にひと粒でもごはんがついていたら箸を擱けない。しかも自分のみならず、食卓をともにした相手が平然と食べ残しても気持ち悪くなり、どれだけ立派な身なりの紳士や見目麗しい淑女でも色褪せて、その人格を疑ってしまうのだ。
こうした精神構造は一体、なんだろう? 敗戦後の食糧難の時代を生きた父母の「銀しゃり」への執念が、わたしのDNAにまで刻み込まれているとすると、つくづく食欲のしぶとさというものに思いを致さないではいられない。そんな自問自答をしていたところ、ジュゼッペ・デ・サンティス監督の映画『にがい米』(1949年)を観て、どうやらそこにはもっと根の深い事情がありそうなことに気づいた。
ときは第二次世界大戦の終結から数年後、ところはやはり敗戦国となったイタリアの北部。このあたりでは日本と同じく水田による米作が行われ、ただしずっと大規模なやり方で、毎年5月初旬の田植えから草取りまでのふた月ほどの繁忙期には女性労働者を集めて作業させていた。ときあたかも食糧事情の厳しい時期だけに、1日あたり1キロの報酬の白米を目当てに各地から老若の女性たちが殺到するなか、常連のシルヴァーナ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、新顔のフランチェスカ(ドリス・ダウリング)と親しくなる。実は、彼女は泥棒の常習犯ワルター(ヴィットリオ・ガスマン)の情婦で、警察の追跡を逃れるために農村に身を隠したのだが、こともあろうに、あとからワルターも仲間とともにやってきたばかりか、やがてフランチェスカを裏切って、若くてグラマラスなシルヴァーナを言葉巧みに口説きだし……。
と、ストーリーを追うのはこのへんで十分だろう。わたしがショックを受けたのは、ワルターと仲間の悪党一味が連れ立って、女性労働者たちへの報酬がストックしてある倉庫を訪れた場面だ。その膨大な米をトラックで盗みだす算段をはじめるのだが、それはまあいいとしよう。思わず目を剥いたのは、かれらがずかずかと靴を履いたままで山をなす米のなかへ分け入ったことだ。土足で米を踏みつける光景が、これほどわたしに鋭い痛みをもたらすことを初めて知った。新しい愛人シルヴァーナから米を盗む理由を問われて、ワルターが口にした答えもおよそ日本人には考えつかないものだろう。
「米を売って高級ホテルで暮らすんだ」
かくて、計画とも呼べぬほど行き当たりばったりの米泥棒と、男女の虚実ないまぜの三角関係をめぐる愛憎模様と、女性労働者たちの放埓なエネルギーがぶつかりあって、阿鼻叫喚のカタストロフィーに立ち至る。あたり一面を泥濘と流血が被い尽くすありさまもまた、日本の農村からかけ離れた光景だったに違いない。ひっきょう、この映画が描くイタリアの人々にとって、米という作物はジャガイモやトウモロコシとなんら変わらないことを示しているのだろう。
日本ではたとえどんな悪党であっても、いや、むしろ悪党であったればこそ決して、米を土足で踏みつけたり流血で汚したりしないのではないか。そう思い当たって、わたしはようやく覚った。われわれにとって米は食欲の対象であるばかりでなく、信仰の対象と見なすべき抽象的な概念でもあるのだ、と――。『古事記』や『日本書紀』がこの国を豊葦原之瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)と記述してから連綿と受け継がれてきたものが、いくばくかではあれ、わたしの血液のなかにも流れているらしい。だとすれば、今日、白いごはんを諸悪の根源のごとく扱う向きは豊葦原之瑞穂国の住人ではないはずだ。
いや、冗談を言っているのではない。近い将来ふたたび食糧難を迎えると警鐘が打ち鳴らされているなかで(最近の食品の著しい値上がりはその前兆かもしれない)、じゃあ、米とこれからどのような関係を結べばいいのか、われわれは深刻に問われていると思う。
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