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アナログ派の楽しみ/スペシャル◎後藤田正晴の「カミソリ」

わたしが出版社で仕事をしていたころ、心に刻まれたエピソードをお伝えしたいと思います。もちろん、記憶にあるとおりに書くつもりですが、文章責任はすべて当方が負うものとご承知ください。また、敬称略とさせていただきます。

かつて日本政治の中枢である永田町界隈では新聞・テレビの記者クラブ制度が幅を利かせて、ときの総理大臣への出版社のインタビュー取材は許されていなかったから、いきおい内閣を代表しての発言は内閣官房長官が役割を担っていた。そこで、1980年代の中曽根康弘政権にあって「カミソリ後藤田」の異名をとっていた内閣官房長官・後藤田正晴のもとへ、駆け出し編集者のわたしも足を運ぶことになった。

最初の機会は、手練れの政治評論家との対談企画だったので、こちらはカバン持ちのような気楽な立場だった。そのとき、前後の流れは忘れてしまったけれど、後藤田が警察庁長官として指揮をとった「あさま山荘」事件に話題が行った。1972年2月に新左翼・連合赤軍の残党メンバーが銃を手に軽井沢の会社保養所へ押し入り、管理人の妻を人質に取って9日間立てこもったこの事件では、日本じゅうがテレビ中継を見守るなかで、警察機動隊の突入によって人質を無事確保して解決に至ったわけだが、後藤田はふいに顔を天井に向けてうめいた。

「しかし、機動隊員2名が命を落としておるんだよ。わしにはその責任がある」

そして、鼈甲縁のメガネをかけた両眼からボロボロと涙をこぼした。わたしは父親が当時警察官の職にあっただけに、最高責任者のこうした言葉に接して、不覚にも政治評論家のかたわらでもらい泣きしてしまったほどだ。

それからしばらくして、防衛費の対GNP比「1%枠」撤廃が国民的な論議を呼んでいるさなかに、内閣としての見解を質すため、わたしはふたたび後藤田の議員会館事務所を訪れた。ところが、どのような成り行きだったか、このときも話題が「あさま山荘」事件におよんで、後藤田は天井を睨んで「しかし、機動隊員2名が命を落として……」と涙をこぼしはじめたのだ。かくして、この一幕はどうやらみずからの政治家としてのあり方を示す「芸」であったらしいと気づいて、もはやもらい泣きすることなく鼻白む思いを味わった。

わたしはいささか拍子抜けして、キレモノの内閣官房長官へのインタビューに余裕を感じていたかもしれない。だが、それはとんでもない間違いだった。ひととおりの質疑応答が済むと、後藤田は「取材は終わったんだね?」と念を押してから、上半身を寄せてきて耳元でこんなふうに囁いたのだ。

「きみらには頑張ってもらわねばならん。防衛費の『1%枠』よりもことはもっと重大だ。わしたちは戦争を知っているから大丈夫だが、それを知らない連中がこれから力を持ってくると何を仕出かすかわかったものじゃない。つい最近も自衛隊のなかにクーデターの動きがあってわしがつぶしたところだ。若いジャーナリストのきみらはしっかりと監視しなけりゃいかんぞ」

激励であったろう。しかし、そのときわたしの背中に当てられた掌の冷たい感触は、確かに「カミソリ」のものだった――。


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