アナログ派の愉しみ/音楽◎グレープ歌唱『精霊流し』

青春の甘酸っぱい感傷が
いっぺんによみがえってきて


思い込みとはコワイ。さだまさし(本名・佐田雅志)が2020年に読売新聞紙上で「現代の吟遊詩人」と題した回想録を連載したときのことだ。そこで明かされたグレープ時代の『精霊流し』をめぐるエピソードを読んでいて、頬をはたかれたようにのけぞってしまった。

 
実は『精霊流し』こそ、わたしがこれまでカラオケのマイクを握る機会に最も取り上げてきた持ち歌なのだ。現在はともかく、かつてなら伸びのあるテノールの声でこの死者に手向けられた美しい曲に臨み、とりわけ二番の歌詞「あのころあなたが爪弾いた ギターを私が弾いてみました いつの間にさびついた糸で」のあとに続く「薬指を切りました」の個所で歌唱を伴奏とわずかにずらして、こらえてきた悲しみがそっとこぼれ落ちる気配を表したりしたものだ。

 
ところが、である。この歌はてっきり不治の病で逝った初恋の女性への思いをうたったものと理解していたのが、記事によればまったく見当外れだったらしい。なんと、さだの親しかった従兄が恋人と海でボート遊びをしているときに、オールを落とし、泳いで取ってきて恋人に手渡したとたん海へ沈んでしまったという出来事があり、その従兄を彼女の側から追憶したという設定とのこと。つまり、わたしはマヌケにも男女の立場をずっと取り違えてうたってきたのだった……。

 
長崎出身のさだまさしが吉田政美とグレープを結成してデビューしたのは1973年秋、21歳のときだった。旧友の吉田が楽譜の余白にブドウの絵を描くクセがあったので、それをグループ名にしたというのも今回初めて知ったエピソードだ。最初のシングル『雪の朝』は不発に終わったものの、翌年つぎの『精霊流し』が50万枚を超える大ヒットを記録する。当時、高校生だったわたしもあちらこちらで耳にするたび(うたわれているのは少女の死と信じながら)胸を震わせて、自分とさして年齢の違わない男たちがこんなストライクゾーンどまんなかの名曲を生みだしたことに驚嘆した。

 
しかし、さだ本人の受け止め方はずいぶん異なったようだ。グレープが一躍人気の急坂を駆け上がり、新人ながらレコード大賞作詩賞を受け、全国行く先々には大勢のファンが待ちかまえるという事態に、「俺、どうなっちゃうんだろう?」と不安に襲われたという。やがてTVドラマの主題歌としてつくった『無縁坂』がふたたび大ヒットしたことで、「しかし、皮肉なことにそれによって僕はグレープの限界を感じてしまったのです。『無縁坂』は暗いと言われた『精霊流し』と同じ路線の曲。結局これじゃなければダメなのかと」、そう結論づけたと述懐している。

 
こうしてグレープが解散したのは、1976年春のこと。実質的な活動期間はわずか2年半に過ぎなかった。さだは半年ほど静養してからソロで再起を果たし、『雨やどり』『関白宣言』……などのヒット作を続々と世に送りだしながら、音楽の分野にとどまらずタレントや小説家としても旺盛な活動を繰り広げて、70歳を過ぎた今日に至っていることは周知のとおり。ただし、わたし自身は吉田とのデュオ解消後のさだにもはや関心を向けることはなかった。それは、男ふたりの友情のたたずまいに思い入れがあったせいかもしれないし、また、作風が暗いとの批判に対してことさら明朗でユーモラスな路線へ転じたことへの違和感からだったかもしれない。

 
グレープは、その流れ星のような光芒のなかで『わすれもの』『せせらぎ』『コミュニケーション』という3枚のアルバムを残した。わたしが大学に入った春に、メモリアル企画としてそれらが水色の箱に収めて発売されたのを生協で買い求めた。そのボックスセットはずいぶんあとまでLPの棚の一等地を占めて、折に触れて『精霊流し』からはじまる36の曲を繰り返しプレーヤーにかけたものだから、わたしのなかでグレープの活動期間は実際よりもかなり引き延ばされて記憶に刻まれている。

 
先日思い立って、これら3枚のアルバムのCDをまとめてアマゾンで購入して、久しぶりにかけてみた。そのとたん、青春の甘酸っぱい感傷がいっぺんによみがえってきてうろたえてしまった。
 


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