アナログ派の愉しみ/音楽◎ロック・オペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』
相次ぐ災厄に翻弄される
われわれ自身の姿がそこに
イエス・キリストをテーマにした音楽劇といったら、『マタイ受難曲』と『ジーザス・クライスト・スーパースター』が双璧だろう。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲の『マタイ受難曲』(1727年)は、ドイツのルター派による宗教改革のうねりのなかで生まれた。イギリスのティム・ライス作詞/アンドリュー・ロイド・ウェバー作曲という20代のコンビの『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1971年)は、世界的な若者の反乱から生まれた。イエスは近代以降も、人間社会の変革のアイコンとして繰り返し復活を遂げてきたのだ。
ロック・オペラと銘打たれた『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、イエスの最後の7日間を描くにあたり、ホモセクシャルな愛憎をぶつける反逆者イスカリオテのユダと、ヘテロセクシャルな情念で包み込む娼婦マグダラのマリアを両軸として展開させていくため、初演当時、キリスト教原理主義の猛烈な反発を招いて脅迫や爆弾テロのたぐいも出来したという。しかし、二度の世界大戦を経たのちの信仰の意義の問いかけはあくまで真剣で、エレキギターの轟きに導かれる歌とダンスの奔流は今日でもまったく古びていないと思う。
このシリアスなドラマでひとり異彩を放っているのがヘロデ王だ。イエスはゲッセマネの園で捕縛されると、ユダヤ人はユダヤ人が裁くべしとのローマ総督ピラトの指示で、ガリラヤ地方を治めていたヘロデ王のもとへ送られる。イエスを初めて目の当たりにしたヘロデ王はラグタイム風のピアノにのってうたいはじめ、たいていは自堕落を強調した演出とあいまってユーモラスな雰囲気が発散される。ノーマン・ジュイソン監督の映画版(1973年)では、アフロヘアにサングラスをかけ半裸姿で太鼓腹を揺すりながら踊っていた。わたしが実見した劇団四季のステージでも、いちばん喝采を浴びていたのはヘロデ王の役者だった。
だが、そんなスーパースターならぬトリックスターの役回りも、イエスをはさんでユダとマリアが織りなす実存的な思想劇の構図で眺めるせいだろう。ヘロデ王の側から見ると、まるで様相が異なってくるはずだ。
周知のとおり、ヘロデ王にはことここに至る以前の物語がある。新約聖書の記述をもとにオスカー・ワイルドが戯曲にして、のちにリヒャルト・シュトラウスが曲をつけてオペラに仕立てた『サロメ』のエピソードだ。そこでのヘロデ王は、地下牢につないだ預言者ヨカナーンが神の子の来臨を告げる言葉に畏怖していたところ、義理の娘サロメとの契約によりヨカナーンの首を斬り落とす羽目になってしまう。こうした前段を踏まえると、ピラトの指示でイエスがやってきたのは、かつておのれが殺害した男の予言どおりに神の子が出現したわけで、ヘロデ王にとっては途方もない災厄が訪れたことを意味するだけに、さぞや恐怖に駆られたに違いない。その心中を踏まえて「ヘロデ王の歌」を検証してみよう。
まず、ヘロデ王は「ジーザス、きみに会えるとは嬉しいかぎりだよ」と挨拶を送り、「ずいぶん名を挙げたな、そこらじゅうで評判になっているぞ、奇跡の男だと」とおだてる。ついで「偉大なジーザスよ、わしにもその奇跡を見せてほしい。この水をブドウ酒に変えてみろ、このパンを増やしてみんなに分けてみろ、このプールの水の上を歩いてみろ。そうしたらお前を神と信じてやるぞ」と持ちかける。だが、イエスが沈黙を守っていると、すぐさまキレて「ふざけるな、神なものか、ペテン師だ。消えろ、消えろ、二度とわしの前に姿を見せるな!」と怒鳴り散らしながら地団太を踏む……。
これを整頓すれば、ついに眼前に現れた災厄の主に対して、事態が把握できていない段階ではとりあえず下手に出る。→そこで相手がおとなしくしていると、おだてながら次第に見くびる。→なおも歯向かってくる気配がないと見て取ると、いっそう挑発する。→そうこうするうち、最後にはわれを失ってパニックに陥ってしまう。つまり、相手はとうに水をブドウ酒に変えたのに、自分のほうがそれを受け止められずにいるとは気づかない。災厄の主のまったき沈黙こそ恐ろしい奇跡であることからひたすら目をそむけようとするのだ。
愚かなヘロデ王の葛藤のありさまはユーモラスどころか、あまりにもの悲しい。と同時に、それはまた、パンデミックや未曾有の異常気象……と相次ぐ災厄に翻弄される現下のわれわれ自身の姿なのかもしれない。