アナログ派の愉しみ/バレエ◎アダン作曲『ジゼル』

あの日、森下洋子は
薄幸の幽霊とひとつになって


森下洋子主演のバレエ『ジゼル』の舞台に感動した記憶がある。もう40年近く前のことで、当時30代なかばだった森下はプリマバレリーナとして油が乗り切り、とくにジゼル役では世界最高の声望を誇っていた。もっとも、わたしはそうした事情は一切知らず、たまたまの行きがかりで松山バレエ団の東京文化会館での公演に足を運んだのに過ぎなかったのだけれど。

 
ところが、第1幕でジゼルとアルブレヒトがおずおずと手を触れあわせる場面で早くも目が釘づけになり、ジゼルが死んだのちに、第2幕でジゼルの幽霊とアルブレヒトがグラン・パ・ド・ドゥを踊るクライマックスにはとめどなく涙をこぼしたのだった。ふと気がつけば、わたしの席のまわりにはバレエ学校の生徒とおぼしい女の子たちが群がり、「このおじちゃん、泣いてる」と覗き込んできて……。

 
しかし、落ち着いて考えてみると、このバレエの筋立てはずいぶんと不公平ではないだろうか。ドイツの山間の村。純情な娘ジゼルには親しい森番ヒラリオンがいたが、最近住みついた青年に思いを寄せる。実は、かれはアルブレヒトという貴族がたわむれに変装したもので、そのフィアンセの姫君が到来するにおよんで正体がばれ、ショックのあまりジゼルは死んでしまう。彼女が葬られた墓地では、思いを遂げずに死んだ乙女の幽霊たちが若い男をかどわかして復讐を遂げていたところ、そこへ墓参りにやってきたヒラリオンはあっさり殺されて、そのあとにアルブレヒトが訪れると、ジゼルは幽霊となったいまも恋心やみがたく懸命に命乞いをして願いが叶えられるのだった。

 
そりゃないでしょう、と文句をつけたくなるのはわたしだけではないはずだ。どう考えたって、いちばんの悪人はアルブレヒトじゃないか。れっきとしたフィアンセがありながらジゼルをもてあそんで破滅させたあげく、悲嘆の顔つきで墓参りをするなど偽善でしかないうえ、そのジゼルの幽霊によって当然の報いの死から救ってもらうとは恥知らずにもほどがある。一方の実直なヒラリオンといえば、たちの悪い貴族から恋人を守ろうとするのを足蹴にされたばかりか、なんら罪科がないにもかかわらず乙女の幽霊たちに処断されてしまうとはどうしたわけか。と、つい義憤に駆られて熱くなったけれど、おそらくこうした言い分はモテない男の理屈であって、白馬に乗った王子さまに憧れる女性たちからすれば至極納得のいく成り行きなのに違いない。

 
そうなのだ。フランスの作曲家アドルフ・アダンの手になる『ジゼル』が、1841年にパリ・オペラ座で初演されて以来、今日に至るまで人気を博してきたのは、そんなふうに世間一般の分別のある男女関係を引っ繰り返したからだろう。この世で出会った奇跡の恋人のためなら、たとえみずからの命を失おうとも永遠の愛を貫きとおす、そうした女性の見果てぬ夢を舞台のうえでバレエという肉体表現によって現出させる。あの日、第2幕のまるで能舞台を思わせる幽玄の気配のもと、純白のコスチュームをまとった森下は、たゆたうようないつ果てるとも知れない旋律に乗って薄幸の幽霊とひとつになり、わたしの心を揺さぶったのである。

 
森下は著書『バレリーナの情熱』(1984年)のなかで「心を創る」と題し、みずからの舞台上での心構えについて、少々不穏な比喩を用いて持論を展開している。医師とこんな会話を交わしたそうだ。「ガンはどうしておこるのですか」「それはガン細胞によっておこるのです」「ではどうしてガン細胞はできるのですか」「それは今の医学では解明されていないのです。それがわかればノーベル賞ものですよ」――。森下はこの答えに納得しない。そこで、ガンは風邪と同じで空気感染するのではないか、と考えて、そのビールスは人間のからだのなかに入ると体内の弱い部分に住みつき、肉体のほうが強ければガンビールスは抵抗にあってガン細胞にならずに死んでしまう、としてこう続ける。

 
「しかし人間の体内に弱い部分はたくさんあります。そこに住みついたガンビールスに抵抗するのは『心』の強さだと思います。『心』は、肉体が死亡したのち骨となっても人々の心に語りかけることができるのです。〔中略〕バレエにはこの何ものにも負けない強い『心』が必要になってくるのです。一瞬のうちに消えてしまうバレエ、その消える前に人々の心の中に永遠に刻みこむことができるかどうかが、芸術となるかならないかの境目なのです」

 
わたしの目に映った森下のもはや正気とも狂気とも分かちがたい凄絶な演技を、この言葉ほど雄弁に解き明かしてくれるものはない。いまでも『ジゼル』の音楽に接すると、あのときの記憶がよみがえってきて目頭が熱くなるのである。


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