アナログ派の愉しみ/音楽◎窪田 聡 作詞・作曲『かあさんの歌』
小学生のわたしを
号泣させた歌の真実
小学2年生のときだった。わたしが通っていた東京・小平市の第七小学校では、朝礼のときに歌をうたう習わしがあり、その日、校庭に並んだ全校生徒で『かあさんの歌』を合唱した。
かあさんが夜なべをして
手袋編んでくれた
“木枯し吹いちゃ冷たかろうて
せっせと編んだだよ”
ふるさとの便りは届く
いろりの匂いがした
わたしも声を張り上げたとたん、涙腺がゆるんで号泣してしまったのはどうしたわけだろう? いまだに不可解な記憶となって残っている。しかも、ずっとのちに至って、いっそう不可解の念を募らせたのは、同世代の女性にそんな思い出話をしたところ、あの歌は大キライ、あの歌を好きなオンナはいない、と切り口上の言葉が返ってきたことだ。
読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』には、この歌が誕生した経緯についてこんなふうに記されている。1950年代前半、東京・墨田区の小さな建具店に育った窪田聡は、名門進学校の開成高校に通いながら太宰治に心酔してデカダンな生活に憧れ、酒・タバコや不埒な遊興に耽る日々のなか、母親から繰り返し叱責されて、早稲田大学の夜間部に合格するとさっさと家出してしまう。やがて製油会社に就職したのち日本共産党に入って、当時流行していた「うたごえ運動」にのめり込み、「働くものの音楽」というジャンルで作詞・作曲活動を行い、1956年に発表したのが『かあさんの歌』だった。
いわばシンガーソングライターの草分けとなったのはあっぱれだとしても、わたしが腑に落ちないのは、作者が反抗心から母親を「かあさん」と呼んだことがないうえ、そこに描写された情景も自分の家ではなく、戦時下に縁故疎開した信州の叔父宅をモデルとしていることだ。であるなら、ここでうたわれた母親とは一体、何者なのだろう?
その疑問にヒントを与えてくれそうな映画がある。ちょうど窪田が母親とのあいだで葛藤を重ねていたころ、成瀬巳喜男監督の手になった『おかあさん』(1952年)だ。これは「全国児童綴方集」の子どもの作文にもとづき、東京の下町のクリーニング店を舞台として、田中絹代が演じる小柄な母親と父親、4人きょうだいをめぐるドラマだ。一家はつましく暮らしていたが、戦争中の無理がたたって長男と父親が相次いで病没してしまい、母親は残された3人の子どもばかりでなく、戦争未亡人の妹の幼い息子も預かって、ときにぶつかりあいながらも懸命に笑顔を浮かべて明日の希望へと立ち向かっていく……。
約15年の長きにおよんだ昭和の戦争のあいだ、オトコが不在となった家庭を守るために細腕で切り盛りしてきた母親。そして、ようやく平和がよみがえったいま、ぼろぼろになって家庭に戻ったオトコを支えて再出発しようとする母親。このモノクロームの映画が描いたのはそうした母親の姿であり、不肖の息子による『かあさんの歌』もまた、母親という存在がひときわ輝いた時代の記念碑であった。だからこそ、ひ弱なマザコン少年だったわたしは感極まって号泣し、自立をめざす少女たちはステレオタイプの役まわりに反発したのではなかったか。窪田がしたためた歌詞はつぎのように結ばれる。
かあさんのあかぎれ痛い
生みそをすりこむ
“根雪もとけりゃもうすぐ春だで
畑が待ってるよ”
小川のせせらぎが聞こえる
懐かしさがしみとおる
もはや日本社会から完全に消え去った母親像に他ならない。そのことを、われわれは幸いと受け止めるべきなのだろう。
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