文学はシステムを語る(文学を人生のBGMに⑥)
村上春樹さんの、羊三部作。
その後の、高度資本主義社会のシステムの中で、いかに個人が踊るかを描いた、『ダンス・ダンス・ダンス』。
実を言うと、私は『1Q84』あたりから、村上春樹氏の小説から離れていってしまったのだが、この「システム」という巨大なものについて考えることが苦手な、矮小な視点が、問題だったのではないか。
初期の村上春樹氏は私小説のような、「僕」という一人称の視点からはじまった。それは、この世界の中でいかに生きるかという、個人の闘いようにも映り、魅力的だった。その思考様式を真似て、社会に出る時の武装のひとつにしたところもある。
やがて村上春樹氏は全体小説(総合小説と同義だと思われる)を目指し、『ねじまき鳥クロニクル』では、戦時中の日本の軍国システムまで引き受けた。
『海辺のカフカ』ではおいおい泣いて、そこまではついていっていたのだが、その後、途中で読みやめてしまったのは、歴史や宗教や文明などといったものを考慮した複雑な社会システムという、より大きな視点を、私が獲得できなかったためではないか。
社会に出て、心を硬くして、自分の箱庭だけでスキルを上げて、武装して、家庭を築いて、守ることだけに必死だった。
しかしそれでは。
それだけでは。
(そういえば『海辺のカフカ』が出たのが学生の頃で、読みやめてしまったのは、結局、社会に出てからの新作だ。それでも、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、真剣に読んだ。社会に出た後の男が主人公で、境遇が似ていたからか。この作品も、地方都市や、駅という輸送システムのくだりが出てくる。)
システムを見つめるような、新しい視座を欲している。
「文学的でありたい」とは、「青春」を、「あの頃」を懐かしむ、ナイーヴでセンチメンタルな小さな視点のことだけを指さない。
あるいは、箱庭の幸せな日々の「記録」、過ぎ去ってしまう毎日への抗い、という小さな視点だけを指さない。
社会全体を見つめる、大きな視座のことも指す。
フィッツジェラルドが『グレート・ギャッツビー』で描いた、あの看板の大きな目のような視座を。
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