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なぜ働いていると本が読めなくなるのか3(文学は心を扱う⑥)
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、2024)の第四章では、商業娯楽(パチンコ、映画、ダンス、酒等)の誕生について触れている。
私が望む、「文学的である」状態とは、とりあえず今のところ、心を殺さず、心が動いている状態のことをいうらしい。
心は簡単に硬くなってしまうものなので、常に動かさなければならない。
しかし、心が動くとは難しいもので、物理的に心を掴んで動かすことは不可能だ。
何かきっかけがあって「感動(心動)」するわけなのだが、
固定された人間関係で同じような衝突、同じような嫌悪感、同じような応答で心が動かなくなったり、
同じパターンの変わらない景色、仕事で心が動かなくなったり、
商業娯楽(漫画や映画や小説や)を味わおうとして、マンネリズムと感じると、心が動かなくなったり、する。
しかしマンネリズムは難しい問題で、時間的、金銭的、精神的余裕があれば、心はささいな、ありきたりなものに感動したりもする。
マンネリズム、と断じたくなるような物語にも感動したりする。
道端の草に、夕暮れに、季節変化の植生に、誰かの一言に、感動したりもする。
あれこれごてごてしなくとも、そういうささやかな幸せに気付くことこそ重要なことなのかもしれない。
人が生まれ、人が生き、人が死ぬ、そのことに感動できる状態こそ、文学的な状態かもしれない。
ところで文学とは、長編小説のことだけを指さない。
詩だって、俳句だって、文学だ。
上記「あれこれごてごてしなくとも」から、小説文学のように言葉を並べなくとも、ということについて考えた。
私は詩や俳句よりも、小説文学のほうが好きだ。
物語があって、登場人物(キャラクター)が立っていて、余分な豆知識的情報とか、空気感、風景など、立ち上がってくるものが違うからだ。
映画も好きだが、小説のほうが、言葉で内面からえぐってくる感じがして、これは何ものにも変えがたい。
「生きる。」
その一言で感動できるなら、前を向けるなら、文学はいらない。
あれこれごてごてしなくてはならないような、複雑に作られたこの社会や脳みそや感受性のために、文学はある。
この世界に飽きないために、文学はあるのではないか。