見出し画像

散漫力を活用して書く(文学は心を扱う⑤)

前回の記事で、以下のようなことを書いた。

「長時間労働=長時間拘束については、今後さらに改善されることを夢見るのみだが、私のあらがいとしては、「散漫力の活用」がある。「散漫力の活用」とは、佐々木俊尚氏の『読む力大全』に書かれていた言葉だ。このnoteへの投稿も、「毎日ちょっとずつの集中」を繰り返してやっているのだが、だいぶ様になってきた。
書いていなかった頃より、よっぽど文学的で、知的で、クリエイティブで、充実している。

「毎日ちょっとずつの集中」をくりかえす連続性。
この連続性、接続性は、文学的な時間だ。
このように毎日のちょっとずつを繰り返す中で、染み出てくるものを楽しんでいる。

村上春樹氏は昔、シェーバーを使わずに、時間をかけて泡を立て、まっすぐなカミソリで「ひげそり」をする、とおっしゃっていた。
そういう、インスタントなことではなく。
つぶさな、スローな、ていねいな振る舞い。

執筆期間○年、とか言われることがある。
時間をかけて熟成されているもの。
文学的=時間をかけている、ということもあるかもしれない。
少なくとも、頭のいい人なら、こんなまどろっこしいことはしない、と、春樹氏も言っていた。
時間がかかるが一度文章に書いてみるということ、このことが、文学的であることを支えている。

スタートアップは何年で会社を作り上げるだろうか。
そして何年で消えていくのか。

ファーストな教養が求められる。
だれも、ゆっくりひげなんて剃っていられない。
学びの高速道路が必要だ。
情報化社会、昨日の最新は、今日の時代遅れだ。


いいなと思ったら応援しよう!