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その毒を欲している(文学は心を扱う⑱)

心をなくしたくない。
無感動は嫌だ。
でもそれは、熱狂や喧騒ばかりを求めるもの、ドラマチック思考とかの、常に感動体質、頭の中お花畑、とか、そういうことではなく。

やさしいまなざしでいたいということ。
他者の存在(=ノイズ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)を忘れない、ということ。

でも、そんなに簡単なことではない。
他人の人生(情報という観点で言えばノイズ)が干渉してくる。
ふりほどけ、鎖。
ふりはらえ、柵|《しがらみ》。
それは、時に私たちの足を引っ張るものだ。

人間の暗部とか、心の「ざわめき」とかもいらない。重い。
うつになってしまう…。

それではやっていけない、と思っていた。
だからなるべく耳を塞いで、小さく囲った箱庭の中で起こることだけに集中した。
小さく囲った箱庭だったが、それでもそれなりに揺れた。

でも今は逆に、その毒を欲している。

古谷実さんの漫画に、『シガテラ』という漫画がある。
「シガテラ毒」という毒が、タイトルの由来だ。(Wiki:シガテラ
バイク好きの少年が、人間の暗い部分(毒)に触れながら青春期を送り、社会人になっていく話だ。
彼はちゃんと大人になれた、と思う。
読み終えた当時、そのことに安心しながら、自分もしっかりしなきゃ、と思ったものだ。

私は私なりに青春の毒を摂取し、それなりの抗体を得て、大人になった。
抗体を作らなければならない「あの頃」特有の、文学の楽しみ方があったのだと思う。
では私は、抗体を作り終えて、文学を「卒業」したのだろうか?

あるいは心を硬くして、社会に出ていくために武装する、そのための「ファスト教養」みたいな、「ファスト文学教養」みたいなものは、得られたのだと思う。
そういう意味で、早々に、最低限の卒業証書だけは作ってもらった形だ。
でも、まだまだ追求すべきところは多く、探究すべき洞窟は広がっているだろう。
年を重ねるにつれて、見識や経験や、社会的地位の階段を昇った先から見える景色もまた違うだろう・・・。

***

ところで、漫画は文学だろうか?
文学の分類については、そのうち考えてみたい。
漫画は文学ではないかもしれないが、心をなくしたくない、と思った時に摂取する「心の栄養分」は、文学だけに限らない。
このnoteでは「文学的」について追求しているから、漫画が文学ではなくても、「文学的である」と私が思うのなら、それは文学的である。
文学的、を追求していきたい。

文学とは何か。
そういえば、「文学」という名前を冠した音楽アーティストもいる。(羊文学。)

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