美は客観的であるが、しかし美人は主観的である(文学とは何か②)
加藤周一氏が、若い頃(31歳)に著した、『文学とは何か』。
Kindle Unlimited読み放題で読めるのがすごいのだが、この解説で、池澤夏樹氏が加藤氏から聞いたという、「美は客観的であるが、しかし美人は主観的である」という言葉がある。
手塚治虫氏と同じく、医者畑で科学的あった加藤氏は、「文学とは何か」という問いに、まずは客観的手法から入っていくが、文学とはそもそも主観的なものであるので、やがて主観的なものごとについて、考えていくようになる。
加藤氏は、一杯のコーヒーがおいしくて、それがどのような成分で、どのように作用したかを具体的に、数値的に、科学的作用として描写した、客観的なものは、文学ではない、と言っている。
そうではなくて、どのような背景、どのような心理状態、どのような状況、どのような心持ちで飲んだコーヒーが、どのようにうまかったのか。
そのように主観的に描くのが、文学的であると。
客観的、というのは、誰にとっても、ということである。
加藤氏の『文学とは何か』は、戦後すぐの、暗黒の時代に書かれたそうだ。
日本国民総火の玉、共同体(村上龍)、世間体(阿部謹也)、空気(山本七平)、人類補完計画(エヴァンゲリオン)。
何か大きなものに、付き従い、隷属する(谷崎潤一郎)、そういう時代から、
個人主義(こころ)、個人的体験(大江)、孤独(諸富祥彦)、多様性、そういったひとりひとりの時代に、なっていった。
私が幼少期の頃、家庭のルール、受験戦争、社会にいかに出るか、そういうことは、私自身の個人的な問題であった。
現代は、デジタルツールの進歩もあって、むしろ人々は分断されており、だからこそ、大きな何かに焦れたりもしているようだ。
このあたりの私自身の戦いについて。
あるいは、大きな何かに焦がれてしまったりすることについて(『アンダーグラウンド』『1Q84』)。
また、加藤版『文学とは何か』の他に、この問題について考えた、石川淳氏『文学大概』、吉田健一氏『文学の楽しみ』、丸谷才一『文学のレッスン』、テリー・イーグルトン『文学とは何か』などの本については、読んだのだったか、読んでいなかったのか、そのあたりも再び紐解いていかなければならない。