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文学が扱う、心の闇のようなもの(文学を人生のBGMに④)

文学が扱う、心の奥底の、見にくい(醜い)部分。
露悪的に、秘密を開示するように、直視するのはつらい部分を、文学的なものは扱う。
それは、普段は摂取することが禁じられている、毒である。
あるいは、それを摂取することで、後には戻れなくなる禁断の果実である。一休さんに出てくる和尚さんの水飴。

エロ、グロは、社会が見なくていいようにしている。
それは、そのほうが、目を背けているほうが、ラクだからでもあるんじゃないか。
文学的であるためには、苦しいほうの道を選ばなければならない。
(でもそのような荊棘の道認識では、自分は文学的を選べなかったのだし、他の人も文学的であれないだろうし、じゃあどうするのか問題。)

「露悪的に、秘密を開示するように」。
カポーティ(※1)は、フィッツジェラルド(※2)は、社交界での出来事を、赤裸々に、ジャーナリスティックに、しかし文学的に、あらわしてきた。
(※1『叶えられた祈り』未Kindle化)(※2例えば『グレート・ギャッツビー』村上春樹訳、未Kindle化)
村上春樹さんは、そういう文学にも興味をもたれて、影響を受けたり、翻訳をし直したりされてきた。
このあたりのことについて、そこまで深くは読み込んでこなかったので、文学的であるために、このあたりにも、分け入って分け入っていくべき青い山(種田山頭火)がある。

佐々木俊尚さんは毎日新聞の新聞記者だった時期があるそうだ。
wikipediaではジャーナリスト、評論家、ということになっている。
マルチな表現者である。
しかし、その表現は、決して、ジャーナリスティックなだけではない。

以前、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を引いて、「情報」と「知識」について触れた。
ジャーナリストは「情報」が重要だが、我々には「知識」が重要だ。
「文学的な情報」は、しかし、「知識」よりもっと、何か、違うものだと思うのだが、ここでは言い当てられない。

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