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ノイズを受け入れる(文学は心を扱う⑯)

三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に、読書におけるノイズについてのくだりがある。
2000年代、「文脈も歴史の教養も知らなくていい、ノイズのない情報(p203)」ばかりがあふれている時代。
「階級を無効化する」点では画期的な時代かも知れないが・・・。

読書して得る知識にはノイズ──偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(p205)

三宅氏はファストな「情報」と、ノイズを含む「知識」とに分けて考えている。
[ノイズを含む情報=知識]を摂取する余裕を。
そんな半身社会を。

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。
仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。
仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(p232)

そしてこの「ノイズ」は、私にとって、「他者そのもの」とも読み取れる。
この世界には、当然、自分以外の他者が70億も生活していて。
それぞれに、この自分のように、悩んだり笑ったりして生きている、それぞれが小宇宙。
そのすべては読めなくとも、他者について思いを馳せることは忘れたくはない。
それは、心をなくさない、ということと同じことだと思う。
思いやりを持つとは、想像力を持つとは、他者を、ノイズを、排除しないということだ。

日本文学史的には、「私」に対する興味を追求していく「私小説」という分野がある。
一方、多様な他者が三人称で活躍する、「全体小説」という分野がある。

井戸を掘るように、自分の足もとを追求するのも大事だし、他者とのつながりを、他者になりかわる想像力を駆使するのも大事だ。

個人と、孤独。
他者と、そこに反射する私。

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