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記録から何かを読み取る(文学は心を扱う⑨)

最近では、日記というより、日誌のようなものをつけている。
ひとつに、いちいち文学的な表現を用いて長いまとまった文章を書く暇がないということ。
ふたつに、実は時間はあるが、言語化するという行為がめんどくさく、記号的に、ただただ記録だけになってしまっているということ。

別に、いちいち文章化して、存在を認めて、励まして立ち上げて、ほめてやらずとも、日常はそこに「ある」のではないか、と思う向きもあった。

長く生きるとマンネリ化してしまう(マンネリズムについては「なぜ働いていると本が読めなくなるのか3(文学は心を扱う⑥)|ちゃりほんつりー|文学的でありたい。」に書いた。)

あらゆる記録は、のちの人からすればすべて貴重な歴史的資料であろう。
書簡、メモ、通知文、領収書、通話記録、寄稿文、新聞記事、吊り革広告、掲示板に貼られていたもの。

自分の行動のログから、何かを読み取ることも可能だ。
自分の行動の記録に現れた、自分自身の考え、感情、方向性。
そこには何らかの意図がある。
それを読み解いていくのは、推理モノみたいでスリリングだ。

けれど、どんどん言葉は痩せ細っていったようにも思う。

すぐれた文学は、すばらしく時代を切り取る。
それは、脚色とか、誇張とか、言われるかも知れない。
文学って、何かと「過剰」なのではないかしらん?
編集された記録。
味付けされた表現。

このnoteを書いている時、自分はちょっと言葉に対して過剰だ。
刺し身を食べる時に醤油につけるように。
サラダを食べる時にドレッシングをかけるように。
ご飯を食べる時にふりかけをかけるように。

でもそれで、心が渇きを癒すなら。
心が動くのなら。
日常のきらめきに気付けるのなら。

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