イスパニア日記③ グラナダ
美しきイスラムの都、アルハンブラの思い出
5日目はAVE(高速鉄道)でグラナダへ。マドリードからは4時間ほど。アンダルシア地方まではなかなかの長旅。
車窓からの景色は、荒涼とした原野が地平線の向こうまで続く。乾燥した気候で、日本とはだいぶ違う雰囲気。
ただ、楽しく外を見てるのはせいぜい2時間ほどで、途中はずっと友達とお喋りしていた。
そうこうしてるうちにグラナダに到着。
グラナダはあいにくの雨。
そんな中ホテルまで10分ほど歩く。
スペインに来てからはマドリードやバルセロナといった都会しか見てこなかったので、スペインの田舎町は初めて。と言っても、グラナダは田舎の中ではそれなりに大きな街だが。
街中は石畳で整備されていて、街全体の雰囲気も良い感じ。
ヨーロッパ然とした表通りとは逆に、裏道に入ると、アラブ料理やアラブ雑貨の店が並んでいたりして、一気にイスラム文化圏みたいな雰囲気に。
今回泊まったホテルは少し古いホテルだった。
まだコロナ禍直後だったこともあり、フロントには感染予防のためのプラスチック製衝立が置かれていたが、それがすごく不便。ただでさえ英語やスペイン語はわからないのに、全然聞き取れなかった…
怪訝な顔をされながらもなんとかチェックイン。
意思疎通がしにくいとかなり精神力を使う。だが、なんか途中からフレンドリーな対応になったので、よくわからないスタッフだった。
翌朝、グラナダ観光の目玉アルハンブラへ。
スペインを代表する観光地と言っても良いアルハンブラ。「グラナダを見たことがない者は何も見ていないのと同じだ」という諺があるらしい。大袈裟な表現大好きなスペイン人らしいし、実は言葉遊びでもある。
“Quien no ha visto Granada, no ha visto nada” という、Granada とnada(何も〜ない)をかけた言葉遊びだ。英語に訳すと”Who has not seen Granada, no has not seen nothing”だ。
あとこの手の表現をスペインの色んなところで聞いたので、割とたくさん使われてる感すらある。
それくらいスペインの観光地ではとりわけ美しく重要でな場所だというエピソードかもしれない。
あと、このアルハンブラは事前予約が必要なので注意。
朝、時間がギリギリになってしまい、タクシーを使うもまさかの運転手が何度も道に迷い、かえって更に時間を圧迫することに。Uberで先払いだったので、時間は損したがお金は損はせず済んだ。こう言う時、先払いのUberはとても助かる。メーターだったら恐ろしい結末が待っていたことだろう。
一般車両は旧市街に入れず遠回りするしかないようだったので、急いでいるならバスが良かったかもしれない。
目的地にはギリギリに着くも、入り口は既に長蛇の列。慌てていたら、後から来た白人の観光客の人が、「あなたは何時ですか?」と列の人に聞きながら列にどんどん割り込んでいく姿が。同じ時間の人みたいだったので、ちゃっかりついて行った。
こんな行動、日本ではまず許されない(海外でも普通は許されない?)ような行動でしたが救われた。
後の時間の予約で並んでいる観光客の人たちも気前よく譲ってくれたので、時間がギリギリの人がいたら譲ってしまうというのは、意外と普通なのかもしれない。そこで最後に譲ってくれたのはまさかの日本人観光客の方。スペインに行ってから初めて日本人に会った。日本人は優しい。
そういうことがありながらも、なんとか無事にアルハンブラに入城。
ここからはアルハンブラを解説していこう。
まずは概要から。
アルハンブラとは、中世のイスラーム王朝時代に建設された史跡。グラナダを見下すよう高台に建てられた優美な歴史的建造物群。一言でアルハンブラと言っても、宮殿と城砦、離宮がある複合的な施設。イスラーム様式の至宝とされ、スペインでも屈指の美しさを誇る世界遺産。
まずは歴史に軽く触れておこう。
スペイン史におけるイスラーム王朝は大きく三つの時代に分けられるが、それがウマイヤ朝、後ウマイヤ朝、ナスル朝である。
中東を起源としてアフリカ経由で侵入してきたのが最初のウマイヤ朝。当時イベリア半島を治めていた西ゴート王国の内紛に乗じてこれを滅ぼしつつ一気に制圧。結果としてイベリア半島の西部や北部のキリスト教勢力を除き、トレド以南のイベリア半島南部を支配するに至る。その頃のウマイヤ朝の都は転々としつつ、後ウマイヤ朝になると最終的に都をコルドバに置く。そして農民反乱対策として今のアルハンブラの場所には城砦が作られる。それがアルカサバだ。
しかし時代が下ると、イベリア半島北部からキリスト教勢力の反攻が激化。レコンキスタ(再征服運動)が進展する。イスラーム勢力はトレドやセビリアなど多くの領土を失う。
ナスル朝の時代にはグラナダに遷都。
その時に作られたのが今のアルハンブラの宮殿。ただ急速に作られたのわけではなく、100年以上にも渡ってかなり年月をかけて少しずつ建設された。中の装飾を見れば分かるが、短い年月で作れるような代物ではないし、それ以上に、既に国力が落ちていたはずのナスル朝宮殿の豪華さには驚く。
結局1492年にキリスト教勢力がナスル朝の首都グラナダに侵攻し、アルハンブラは無血開城。スペイン史におけるイスラーム勢力最後の王朝ナスル朝はあえなく滅亡する。
その時にカトリック勢力の王は、アルハンブラの美しさに魅了されたという。イスラーム王朝滅亡後も、アルハンブラは大切に保存され、700年経った今もかなり良い保存状態で見ることができる。これはキリスト教徒だったスペインの人々すら、イスラーム文化の持つ優れた建築の価値を認め、保存のために力を尽くしてきたからだ。実際、ナスル朝滅亡後もイベリア半島内の王侯貴族は城や居館をアルカサル(スペイン語で王城、アラブ語で城砦)を、レコンキスタ後も残留したイスラム教徒ムデハルの技術を使って作らせている。
日本史でも共通したエピソードがある。源頼朝とその重臣たちは、奥州平泉を滅ぼした際、その美しさに魅了され、鎌倉時代を通じて平泉の毛越寺庭園などを模倣した庭園が全国の有力武士によって造営されたという。
戦争によって、滅亡した国の文化が他の地域に伝播するというのは、歴史の皮肉でもある。
話をスペインに戻そう。このようにスペイン国内にイスラーム文化が一定程度浸透したのには理由がある。キリスト教勢力がイスラーム王朝を滅ぼした後も、当初は一定条件の下にイスラーム教徒を保護したことによる。この政策はイスラーム王朝が行った宗教政策を模倣したとされ興味深い。しかしやはりその後、宗教対立の激化から結局は改宗しないイスラーム教徒の追放や迫害が行われることになる。スペイン国内におけるキリスト教勢力とイスラーム勢力の公式的な共存は、近代まで待たねばならない。しかし2004年3月11日にはマドリードで鉄道爆破テロ事件が起きたように、スペインにおける両宗教の融和と平和は、危ういバランスの上に成り立っていると指摘せざるを得ない。
話をアルハンブラに戻そう。ここからは宮殿と城砦、離宮を説明していく。
アルハンブラの目玉はやはり宮殿。
イスラムの様式の宮殿は、天井や柱に至るまでモザイクや複雑な彫刻がふんだんに用いられている。その恐ろしいほどに精緻で複雑な模様や彫刻が建物全体に溢れていて、細部にまでこだわったその美しさは、まさに息を呑むようである。
またパティオ(中庭)はスペイン南部のアンダルシア地方ではよく見られる建築様式で、ここではその典型を見ることができる。このパティオの歴史は古く、元々ローマ軍が持ち込んだ様式とも言われている。
夏場は40度を超えるほど暑いアンダルシア地方では、古くから暑さ対策の工夫が凝らされてきた。他にも建物が白く塗られているのは、ギリシャはじめ地中海の国々の建物と同じく、直射日光によって建物内が暑くなるのを防ぐためである。
建物以外にもスペインでは暑さ対策の文化が根付いている。スペイン人は夏場にコーヒー以外で温かい飲み物を嫌う人が多い。ガスパチョという冷製スープはその典型で、トマトやきゅうりなどの野菜にパンをミキサーにかけ、そこにオリーブオイルとビネガー、塩で味付けした料理だ。またビナグレタ(バナグレッチ)という料理は、ナスやきゅうり、トマトを刻みビネガーとオリーブオイルで簡単に味付けした料理で、食べた感想としては山形県の郷土料理「だし」とも共通点が多い。
これら、暑い夏を乗り切るためにイベリア半島の人々は食事や食べ物に工夫を凝らしてきたのだ。
再び話がそれた。次に訪れた城砦(アルカサバ)は、アルハンブラの建造物の中で最も古くからあるもので、今は街を見下ろせる展望台になっている。
石造りの建物はいかにもヨーロッパや中東の城砦といった雰囲気で、崖の上に立っていて難攻不落だ。
お城が好きな方なら、日本の城といろいろ比べてみると面白いかもしれない。
少し階段が急で狭いので、そこは注意。みんな互いに譲り合って昇り降りしている。
最後に訪れたのは離宮(ヘネラリフェ)だ。宮殿と城砦は隣り合っていたが、この離宮までは結構歩く。
この離宮、ナスル朝の王が使用した離宮で、とても美しく剪定された庭園が見どころ。噴水もまた豪華で、アルハンブラでもかなり人気のあるスポットでもある。
またアルハンブラ関連で私が書きたいのは、クラシックギターの名曲「アルハンブラの思い出(Recuerdo de Alhambra)」のこと。
柔らかくどこか物悲しいメロディのこの曲は、スペイン出身の作曲家でギター奏者のフランシスコ・タレガの代表曲。
ギターは元々スペインで生み出された楽器だ。その独特の優しい旋律は、スペインをモデルにした曲とよく合う。彼の曲だと、「ラグリマ」(涙の意)などもおすすめ。
興味がある方はぜひ聴いてみてほしい。YouTubeやApple Musicでも聴くことができる。
アルハンブラ見学を終えると、一気に山を降りる。
上り口は鬱蒼とした森に囲まれていて、街までは30分ほど。ハイキングにはピッタリ。もちろんバスでも市街まで降りられる。どんどん降りていくと、街からアルハンブラ宮殿に向かう最初の入り口、ザクロ門がある。
ザクロ門をくぐると山の風景が一気に旧市街の風景に変わる。
石畳の町に軒を連ねる古い店や家。外国に来たと改めて感動する場面である。しかし注意してほしい。ここは外国。一時も油断はならない。
ザクロ門を出ると、門の影から「ふろです!(空耳)」と言いながらバラを押し付けてくる老婆が現れる。(実際は”Flores”=花)
バイオハザード4で言うと油断してるところを影から襲ってくるタイプの敵である。
もし万が一受け取ってしまうと、(多分高額の)金をせびられる割と面倒臭いイベントが発生する可能性が極めて高いので、絶対に受け取らないように気をつけなければならない。
ビデオゲームのように常に周りには警戒しながら動く必要がある。ゾンビや狂った村人はいないが、悪質なスリや詐欺師が、無知な観光客を食い物にしようと笑顔で待ち伏せていることはスペイン旅行の時に常に頭に入れておこう。
さて旧市街に出ると、今度はグラナダ大聖堂。
こちらはもちろんキリスト教カトリックの建物。スペインルネサンス建築の傑作だそうで、かなり大きな建物。スペインでは二番目に大きな大聖堂とも。美しい教会。
ただ私が気になったのは、なぜこんなにも巨大な大聖堂をグラナダに建てたのかという点。
私見だが、やはりナスル朝滅亡後もイベリア半島に残留したイスラーム教徒(ムデハル)にキリスト教の威容を見せつける必要があったのではないかと思う。
また、アルハンブラ宮殿やコルドバのメスキータ(コルドバの回で後述します)など、複雑で精緻、また巨大で美しいイスラーム建築があり、それらに対抗する必要があったと思う。
実際に残留イスラム教徒(ムデハル)の中には、理由は様々であろうが、キリスト教に改宗した人たちもある程度いたとされる。
歴史は色々あるが、この美しさには一見の価値がある。
続いてはグラナダのグルメを。
ホテルの近所のイタリア家庭料理店やアラブ料理店の対応はすごく良かったし、美味しかった。
イタリア料理は、街の酒場といった感じの食堂。チキンスープとミックスピザを食べました。
チキンスープは優しい味。寒かったので、求めていた家庭料理の味。
ピザも美味しい上に十分な量だったので、満足でした。
お店を仕切っている老齢の女性は、サバサバしてるけど面倒見が良くて「田舎のお母さん」って感じの人。近所の人からも人気のよう。
酔っ払いが何人かいたが、ある者は店員のおばあさんに「ママ〜」と絡んだり、ある者はマイケル・ジャクソンのBGMに合わせて「アウ!!」と叫んでたり。酔っ払いはどこの国にもいて、愉快だが少々面倒くさそうだと、失笑しつつ店員さんに少し同情した。
アラブ料理は、最初に触れた裏道のところにあった。ひっそりとした佇まいだが、中もしっかりアラビックな雰囲気。出てきた料理は見たことのない料理。豆のコロッケみたいな料理とか、羊肉と米の料理とか。アラブ料理に詳しい人がいれば分かるのかもしれないが、名前を忘れてしまった。また人生で初めてアラビックコーヒーとアラビックティーを試した。
コーヒーもティーも割と甘めで、コーヒーは少しドロっとしたとろみがあった。上澄を飲んだあと、勿体無いと思い沈殿してる部分を飲んだら咽せた。沈殿物は飲むには適さないということがわかった。
ティーはスパイスを感じる甘さ。少しクセはあるものの意外に飲みやすかった。
全てが初めての経験だったが、意外にも口に合う料理が多く、機会があれば(平和な時代に)中東方面に行ってみたいものだと思った。あと店員さんがすごく優しかった。外国人に親切な人がいると安心できるし、好感が持てる。
グラナダは少し寒かったのと、お店が閉まっているところが多く、結局名物のスペインバルとタパスを試すことは叶いませんでした。残念。
結局、天気も悪くホテルもあまり良くなかったこともあって、グラナダ2泊の予定を変更し、次の日にはセビリアを目指すことに。
次はアンダルシアの州都セビリアへ。
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