幸せに対する罪悪感と希死念慮

今がどんなに楽しくても、未来への幸せの期待がないと死んでしまうタイプの人間で生きづらさを感じる。

今が楽しくても、未来への確証的な幸せの段階がないから死にたくなる。

もともと、死にたくなったのは、将来の大きな挫折感にあったと思う。
将来なりたい夢の像が決まってて、ある程度その進路にも行けていた。
程よく順風満帆な人生だった。
でも、人間関係で辞めた。
結局本当の自分のしたい事ができる仕事なんてこの世に無いじゃ無いかと思う。
評価するのも人、機会をくれるのも人、全ては人において形成されている。
人と相性が悪い人は結局はどこに行っても、生きずらい。

なんだかんだコネ的な要素はかなり重要になってしまう。
人が評価して、人が買う、この形式がある限り
人に評価されるというものには逃れられない。

人に評価されるのが極端に苦手で、
いい評価をされ続けても、自分なんかより努力してる人がいて、苦しい人がいるのに、自分がこのままこの評価を受けていいのか?
他人の苦痛の上にある幸せならいっそ自分は死んだ方がいいのでは?と思ってしまう。

幸せって、誰かの犠牲の元成り立つものが多い
仕事も恋愛も誰かに比べられて、ある程度自分が合格点に到達できているから、ゴールできる。

この時きっと、比べられて泣いている人がいると思うともう人生について考えたく無い。
結局は、何かの犠牲の下でしか無いから。

それなのに自分が幸せになるのは、どう考えても失礼に当たるのでは無いかと思う。
一生幸せになりたいのに、この考えのせいで罪悪感を感じで辞める。

仕事も恋愛でも選ばれないと悲しいのに、どこか安心してしまう。
でも、きちんと選ばれなかったことに対する悲しさはちゃんとある。

この考えを生み出したのは、自分なはずだけど、どこからそう思ったかわからない
なぜ幸せを感じるのを罪悪感を感じてしまうのか?

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