オリジナル小説 ◇ (月下美人]
ピピピピピー!
けたたましく鳴り響くスマートホンのアラームを恨めしく思いながらむくりと身を起こす。
時刻は六時半。いつもの時間だ。
(まだ水曜か……)
週半ばで疲れも最高潮、眠気は全開。
しかし眠いからと言って仕事を休むことができるほどの適当さは持ち合わせていない。
重い体を引きずるようにベッドから這い出すと、寝室を後にする。
リビングのカーテンを思い切りあげると、燦々と降り注ぐ陽の光で目を瞬いた。
からりと窓を開けパジャマのままベランダに出る。
(今夜だね)
ほんの少し微笑んですっと蕾を指先で撫でると、ジョウロに水を汲みたっぷりの水を鉢に注いだ。
慌ただしく1日がすぎていく。しかし今日だけは定時で帰宅しなければならない。頼まれた仕事を限界まで引き受け、それ以上は心を鬼にして断った。
(今日はごめん!)
内心で謝りながら黙々と仕事をこなす。
十七時。時計を確認すると猛ダッシュでデスクを片付けタイムカード片手に席を立つ。
「すみません、お先に失礼します!」
有無を言わさぬはっきりとした退勤宣告に誰も意を唱えるものは居ない。
会社から家まで一時間弱。とにかく急いで家に直行する。電車もバスもスムーズに乗り継ぎができた。
玄関の前に立つと、時計は十八時前。間に合った。鍵を開けるのももどかしく、靴を脱ぎ捨ててリビングへと向かう。
バッグはソファへ放り投げ、スマートフォンだけを手にベランダの窓を開けた。ふわりと芳しい香りが鼻腔を擽る。
スリッパを引っ掛けながらベランダの隅に置いてある植木鉢の前でかがみ込む。大きく青々と茂った葉から力強く伸びた茎。そのさきにはぷっくりと膨らんだ純白の大きな蕾が天へ向かって首をもたげていた。
蕾の先はほつれ、開花途中であることが見て取れる。今年に入って初の開花に自然と口角が上がると同時にじわりと目頭が熱くなった。
十年前に交際していた彼はもう隣にはいない。手の届かぬ場所へ旅立ってしまった。別れは突然に訪れた。
知らされるまで彼が病を抱えていたことに気づくこともなかった。唯一無二の存在だった。知らせの電話を受けた時の記憶はほとんどない。ただ、取り乱し溺れるほど涙を流し、冷たくなった彼と対面した時には、涙の一滴も流れなかった。
今でこそこうして記憶を遡ることもできるが、こうなるまでには長い時間がかかった。
「私、植物育てられないんだよね」
とある日の他愛ない会話。
「小学校のチューリップも、夏休みの課題の朝顔も、畑の野菜も、サボテンも無理だった。。水やりしなくてもいいサボテンもなんでかわかんないけど枯れちゃうんだよね」
「そりゃ水のやりすぎだろ」
呆れ返った彼の表情を思い出すと笑みが溢れる。
「違う、それは真っ先に疑ったから本買って周りにも聞きまくって言われた通りにきちんとしたけど無理だった……、なんかわかんないけど枯れちゃう」
それでも彼は、私の世話の仕方が悪いのだと言い張った。
「でもさ、月下美人が咲いてるのをみてみたいんだよね。世話が難しいらしいけど」
ぼそっと呟いてその話は終わった。そして数日後、我が家に大きな荷物が届いた。
悪戯かと思って差出人を確認するとなんと彼の名前だ。何も聞いていない。問題ないかと引き取って恐る恐る開封するとそれはなんと月下美人の鉢植えだった。
(覚えててくれたんだ)
すぐさま彼に電話した。
「ありがとう」
だが同時に不安がむくむくと胸の中に広がってきていた。
「でも私、絶対からしちゃう……」
「大丈夫、毎日俺がレクチャーするから、写真を毎朝と夕方送ること」
二つ返事で頷いてその日から月下美人との生活が始まった。
朝と晩にはたっぷりの水。少しの肥料と観察。彼がプレゼントしてくれたのはGW明けだった。ちょうど開花時期に差し掛かった頃だ。運が良ければ蕾がつくかもしれない、そう言われて心を込めて毎日世話をした。
彼との会話の半分はっ月下美人の成長と世話のしじ、そし報告になった。まるで子供を育てているような感覚だった。とてもとても楽しかった。
7月に入り、毎朝の習慣で起床とともにベランダに向かうと、葉の先から小さな目が出ていた。月下美人は茎から伸びる大きな歯が茂る。そこから少し細い茎が伸び、蕾をつける独特の形をしている。見つけた瞬間「あ!」と声が出た。即座に部屋に戻り、スマートフォンで写真を撮る。
彼に見せると、「おめでとう」と返事が来た。
蕾をつけたのだ。なぜかわからないが植物との相性が悪く花も咲かせられなかったのについに蕾をつけることが出来てこの月下美人にさらに愛情が湧いた。
風邪や雨に打たれて蕾が落ちてしまうのではないかと心配したり、少しずつ大きく育つ蕾を毎日観察するのはとても心が躍った。仕事で疲れて帰ってきても月下美人に話しかけながら彼と通話するのが日課だった。
「佐久日はうちに来られる?」
蕾も大きくなり開花までもう数日、彼に問いかけてみた。
「たぶんな」
珍しく歯切れの悪い返事だったが彼も立派な社会人。忙しいのはわかっている。
」楽しみにしてる」
と伝えると、「華、咲かせられそうじゃないか。難しくなかっただろ?」と少し掠れた声で笑われた。
「難しかったよ、一人なら」
「そうか、でもこれで毎年花が咲かせられるだろ?」
「そうだね、夏嫌いだけど好きになるっかも」
そんな会話が今では遠い昔だ。
それから1週間後、仕事から帰り、ベランダを除く。からりと窓を開けた瞬間ふわりと甘い香りがした。慌てて覗き込むと10糎ほどの蕾がグッと空へ向けて首を持ち上げ、蕾の先がほつれていた。たくさんの雄蕊がふわふわと先をのぞかせている。
初めての開花の瞬間だった。
パシャパシャと写真を撮り、一度部屋へと戻る。慌てて部屋着に着替え、飲み物を手にベランダへと戻ると、先ほどよりも蕾は綻んでいた。
月下美人はその名の通り、一晩だけ大輪の花を咲かせ、世が明ける頃には萎んでしまう。そしてもうその蕾は2度と開くことはない。限られた一夜のみその姿を月下に現す幻想的な花だ。花言葉は「艶やかな美人」「はかない美」「はかない恋」「ただ一度会いたくて」。小学生の時に読んだ漫画に登場したキャラクターが好きだと言っていたのがきっかけで、私はこの花が好きになった。
時刻は十九時半。少しずつ少しずつ蕾が開いていく。
写真に収めながら彼へ連絡する。
「咲くよ!」
だが既読はつかなかった。
「もし間に合ったら来て」
やはり既読はつかない。忙しいのだろうと思っていた。
時が進むにつれ、だんだんと外側の花弁が開き始める。ゆっくりとゆっくりと、ゆっくりと……。
時はあっという間に過ぎていった。二十一時を回る頃、とうとう完全に開花した。
大きな純白の花がどこか儚げに暗闇の中咲き誇る。
明るいライトを当てると、あさが来たと勘違いして萎んでしまうため、灯りは点けない。もちろんフラッシュも厳禁だ。そよ風にふわふわと揺れる姿はまさに月下の美人そのものだ。
甘く艶やかな香りがベランダ中に広がり、包み込まれるような感覚に酔いしれた。
満開の月下美人を写真に収めて彼へとおくる。やはり既読はついていなかった。
(一緒に見たかった)
少し寂しく思いながらも飽きることなく一夜の生命の息吹を目一杯味わった。不思議なことに眠気は訪れなかった。
未明を過ぎると先ほどまで凛としていた花弁が少しずつ力をなくし、花弁の先から力がなくなってきた。月を臨むようにもたげていた茎も重力に逆らえず下へ下へと下がっていく。
花はその息吹を失いつつあった。
まるで大切な人を看取るような、なんとも言えない切なさと哀愁で胸がいっぱいになる。
甘い香りも僅かずつその存在感が薄らいでいた。
結局彼と一緒に花を愛でることは出来なかった。
明け方が近づくと蕾は完全に閉じ、蕾拍たりと地面に垂れ下がってしまった。本当に一夜しか咲くことが出来ないのだ。
少しの仮眠をとり、訪れた朝のアラームとともにまた新しい1日が始まった。
(懐かしいね)
内心で呟きながら私は目の前で力強く開いていく大きな花に話しかける。
「結局一緒に見られなかったね。貴女と彼と私の3人が揃うことはなかった。」
ふわり、甘い香りに包まれる。
「結局あの日の朝、会社に着いたら電話が鳴って、あの人が旅立ったことを知らされた。あんまり覚えてないけどね。」
目頭が熱くなり鼻の奥がツンとする。
そう、あの日月下美人が力強くその姿を見せてくれていた時、彼はこの世を旅立っていた。既読がつかないのも当たり前だ。夕方意識を失い、そのまま病院に搬送され、意識が戻ることなくそのまま眠るように亡くなったのだという。
「最後に……声が聞きたかった……」
ポツリと呟いた瞬間、一筋涙が頬を伝った。風に吹かれた涙の後が冷たい。
あれから十年以上時は経つのに、彼は夢枕にも立ってくれない。人生であんなに涙を流したのは初めてだと思う。人目も気にせず子供のように泣きじゃくっている私を両親も妹も優しく抱きしめてくれた。でも私が欲しかった温もりはもう手の届かぬ場所へと逝ってしまったのだと飲み込むまでにいく日を費やしただろう。
この月下美人の存在は家族以外には誰も知らせていない。友人にも誰にも。
しかしようやくこの花を見せられる時が来た。
時刻はニッ十一時をまわり、もう8分咲き。
「やっとね、笑って貴女を紹介できる時が来たんだよ。あの人も笑ってくれると思う?」
この十年間、彼はなんの言葉もメッセージも残してはくれなかった。ただ、この月下美人を除いては。
私が仕事で凹んでいる時、身体の調子が悪い時、彼に会いたくて涙を流す時、そんなタイミングで必ず大きな花をつけた。
そう、まるで月下美人を通して見守ってくれているかのように。
笑ってしまうほど性格に、求めた時に花をつけ励ましてくれる。
夢でもいいから会いたいと希っても叶わないのに、本当に辛い時には真っ白な花で力強く応援してくれていた。
人はただの偶然というのかもしれない。
しかし、そうではないと信じている。きっとこれは彼からのエール。
「あのね、大切な人が出来たの。一緒に貴女と過ごしたいと思える人がね、出来たんだよ。」
スマートフォンが小さく振動した。
通知を開くとメッセージが届いている。
「もうすぐ着く」
一度部屋へと戻り玄関の鍵を開けた。
グラスには麦茶を注ぎ、二つトレイに並べる。
洗面所で顔を洗った。メイクは取れるが涙のあとを見せたくはなかった。
ぴんぽーん、とインターホンが鳴る。パタパタと玄関へ向かい、そのひとを招き入れた。
「遅くなってごめん」
息を切らしながら彼は私の頭をそっと撫でた。
「大丈夫、今ちょうど満開だよ」
麦茶を乗せたトレイを持って二人でベランダへ向かう。
百均で見つけた小さなアウトドア用の椅子を二つベランダに並べ、鉢を少し動かした。月光がよく当たるように。
彼は黙って隣に腰を下ろすと、麦茶を一口飲んで」綺麗だな」そう呟いた。
私の可愛い月下美人を褒めてもらえて笑みが溢れる。
「綺麗でしょ」
そう口にした瞬間、理由もわからぬまま、涙腺が突然決壊した。ぼろぼろといく筋も涙が溢れて止まらない。
「あれ……」
わけもわからぬまま必死で涙を止めようとする私に隣から暖かな腕が伸ばされた。そっと頭を撫でた後、力強く抱きしめてくれる。
「一緒に見せてくれて、ありがとう」
もう涙の止め方なんてどうでもいい。背中を優しくさすりながら、彼はただ黙って私を抱きしめてくれていた。
少し落ち着きを取り戻すと、彼が黙って私の顔の向きを変える。
「せっかくの美人さんを見なきゃ勿体無いだろ」
きっと情けない顔をしていたのだろう。少し微笑んだ彼は和グラスを持って私の口元へ持ってきてくれた。そっと手を添えて一口、程よい冷たさが喉に心地いい。
「ありがとう」
呟いて再び大輪の花へと視線を戻す。
「この人が今の私の大切な人です。貴女に胸を張って紹介できる時が来ました。これからもよろしくお願いします……」
そして頭上の月を仰ぐ。
「もう泣かないから、ヤキモチ妬かないでね……」
永く苦しい冬は終わり、固く閉ざされた心を溶かす春を経て、ようやく感じられた次の季節を、これからの未来を思ってそっと瞼を下ろし両手を合わせた。
隣には彼がいる。
何も語らずただ優しく私を見守ってくれている。
(もう大丈夫)
天の彼へ呟いて、隣の方にそっと身を寄せた。
暖かな腕が優しく包み込んでくれる。
もう、大丈夫。
〜終〜
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