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先祖返りしたヅカオタの決意表明

先日、一時帰国して実家に立ち寄った際に、
母から亡父の納骨について相談された。
父は、2020年2月に急性脳出血で亡くなった。
正月に会ったときは、何の兆候もなかったので驚いた。
父は常々「好きなものを好きに食べてピンピンコロリで眠るように死にたい」
と言っていたので、離別の悲しみもさることながら
「初志貫徹えらいやん」という気持ちもあった。
医療の発達した現代、なかなかピンピンコロリは達成できない。

母によると、母の地元の菩提寺に納骨したいとのこと。父の親族は皆それぞれの墓に入っているので、特に問題ないのだという。
「だから納骨は、あなたが帰ってきてからにしようと思うのよ。なかなか行ける場所じゃないから、
一緒に行こうと思って」
「そうだねぇ」

母の実家は、九州の山奥・最寄駅から車で小一時間
(それは最寄り駅とは言わない)の秘境と呼ばれる場所にあった。
母方の実家は、代々温泉旅館を営んでいた(今は廃業してしまったが)ので、
顔を合わせた機会は少なく、
祖母のひととなりを私はあまり知らない。

最近、姉と電話で話した際に、不意に姉がこう言った。
「おばあちゃん、宝塚好きだったもんねぇ」
「え”っっっっ」
「おじさん夫婦に代替わりしてから、
たまーに、関西に出てきたときあったでしょ?
その時は欠かさず行ってたよ宝塚」
「え”っっっ、え”っっっ」
祖母の死後10年以上が経過しての新事実発覚に驚きが禁じ得ない。
「おばあちゃんヅカオタだったんだ……」
「まぁほら、うちは父さんが好きじゃなかったから。母さんが付き添いで観劇に行くのも、
あんまりいい顔してなかったし」
「あー…………」
記憶はおぼろげだが、なんとなくわかる。

私が子どものころは、宝塚の舞台の中継(録画?)が地上波で流れる機会が今より多かったと思う
(普通に民法で流れていた)。
私は子どものころからミュージカルは嫌いではなかったので見たいとせがむが、
だいたいチャンネル争いに負けていた。
(令和に伝わるかなこの表現)
『あんなん、お嬢様の学芸会や』
新聞を広げながら、テレビのチャンネルまで独占して吐き捨てる父の姿が思い出される。
実父について、あまり悪印象はないのだが、
どうも「人が一生懸命やっている様」を茶化そうとする傾向があった。
でもそれは父だけに限ったことではなく、
一昔前は宝塚に対して、『お嬢様の学芸会』と
『それにネツをあげる主婦達』と冷笑する風潮があった。
韓流ブーム以降、推し活はずいぶん市民権を得たが、少し前まで、家庭を持った女性が自分の趣味で家を空けることが、あまり良しとされてこなかった時代は確かにあった。

そういう意味で、宝塚が果たしてきた役割はとても大きいと思う。
応援するのはあくまで『女性が演じる男役・娘役』であり、
時にそれは知人のお嬢さんであったり、
自分がお世話になった恩師の教室の生徒さんであったり、
あるいはお友達に誘われてどうしても。
いろんな理由をつけて、
渋る夫をどうにかなだめて、
精一杯のお洒落をして観劇に臨んでこられた方も
多かったのではないだろうか。
辛いこと、冴えないことも多い日常からふわっと遊離させてくれる3時間。
ただの少女に戻って、
好きなものを同好の士と語れる時間。

テレビと温泉以外に娯楽のないあの山奥で、
祖母もきっと、数年に1回の関西行脚を楽しみにしていたんだろう。
(もしかしたら全ツも見ていたのかも?)

そして「お嬢様の学芸会」といういわれのない誹りを跳ね返すべく、個々の技芸を高め、
一糸乱れぬラインダンスを追究し、
いろんな作品とのコラボを実現してきたジェンヌやスタッフの方々の努力は、
外からは窺い知れないが相当なものだと思う。
近年は舞台芸術の第一線として、
ライトファン層も取り入れて拡大を遂げていた。

——そんな中での、昨年の出来事。
バブルは必ずひずみを生むし、いつか弾ける。
コロナ禍という、世界的にも歴史的にも前代未聞の
大きな出来事を挟んで、
演者・スタッフ・観客それぞれに
パラダイムシフトが起きていたのは間違いない。
複合的な要因の重なった結果の悲しい出来事が、
このような幕引きになろうとしていることに
私はまだ怒りを鎮められないでいる。

これからまた、
宝塚は冬の時代に入るのかもしれない。
エンタメ産業の裾野は広がり、
いまはわざわざ規律の厳しいタカラジェンヌを選ばなくても、ショウビズの世界で活躍できるチャンスはいくらでもある。
それでも私は、あえてこの時代に、
タカラジェンヌという道を選んで、
色んなものを犠牲にしながらあの舞台に立ってくれる彼女たちを応援したいと、そう思う。

ばっちゃんの名に賭けて。



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