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11.感じて、思って、そして時々考える

ここ数年、夏の暑さと冬の寒さをしのぐのは大仕事だなあと感じるようになりました。

もちろん地球規模で気候が変わりつつあるのが最大の問題と承知していますけれど、それにしても、夏ってこんなふうに身構えて迎え撃つような季節ではなかったはずなのに、やっぱり年のせいだよね…という自覚がわいてきます。

まあそれでも、体がついていかなくなるのは、自然の摂理と思って納得するしかなく、ささやかなアンチエイジングなども試したりしながら、ゆるゆると受け入れています。

一方で心の方はと言うと、体のように自然に任せていれば年齢相応に成長・成熟してゆるやかに衰えると決まっているわけではない、かなり面倒な代物。
育てるためには恐ろしく手間がかかるのに傷つきやすく病みやすくて、癒すのも鍛えるのも簡単にはできません。

実際私も今までに、心の制御が上手くできずやらかしてしまったり、他人の行動や言葉に押し潰されそうになったこと(思い込みも含めて)が数知れずありました。
若い頃は、今の私の年齢になれば酸いも甘いも噛み分けて、何があっても動じない大人になっているはずだと想像していたのに、現実は大違い。
傍目にはどう見えていたかは別として、これまで何とか自分を大きく壊さず、他人を巻き込まずにこられたのは、幸運以外の何ものでもないと思っています。

なので今日のnoteには、失敗談そのものではなく、いろいろあってこんなふうに工夫してみたら凸凹メンタルがちょっぴり扱いやすくなりました、という経験を書かせてもらおうと思います😊


と長い前置きをしたわりに、私が今実践しているのはいたってシンプルなことです。

心の働きを、感じる・思う・考えるの3つに分けて対応する

は、何じゃそりゃ? でしょうか💧
具体的に言うと、例えば事件や事故のニュースを見たら、まず心の中にいろいろな感情が起こってきますよね。
恐い、信じられない、何故?、被害を受けた人が気の毒、犯人許せない、…等々

そして私の場合、たいていちょっと口には出しにくい気持ちも同時に浮かんできます。
辛い目にあっている側の人を非難してしまったり、関わりを持ちたくない、知らん知らんと切り捨てたり。

どちらにしてもその場で出てくる感情は、快不快、好き嫌い、喜怒哀楽というような反応ですから、私の意思で選んだり止めたりすることができません。
もやっと浮かんできたり、爆発的に吹き出してきたり、じんわりとわき上がってくるのは、まだ言葉にならない、生の気持ちのかたまりみたいなもの。

ここで大事なのが、

① どんな感情も全部OKにする

ということだと思います。
常識的共感的な感情だけでなく、たとえどれほど辛辣で、非情で、自分勝手で、狡くて、ダークであろうと、自分がそう感じたことは非難せず、打ち消そうとせず、とりあえず全部そのまま置いておく。

ネガティブな感情が出てくるとすぐに消してしまいたくなりますが、ここでなかったことにしてしまうと、結局どこかに残って後で毒を持つので。
そして、決してこれをそのまま放置するわけではないんです。

② 感情を表す言葉(思い)はととのえる

生の感情は形を持とうとします。
つまりは感じたことが言葉になっていく過程。私はそれを勝手に「感情が思いに変わる」と呼んでいます。

文字入力するイメージで、できれば瞬時に一括変換してしまう方が気持ちがいいですけれど、私はやっぱりここで少し時間をかけて言葉を選びたいです。

置き所のなかった負の感情も、削除するか外に出すかはここで決める。
外に出すなら、凶器にならない形を探す。

思えば子どもを叱る時、連れ合いとケンカになった時、生の感情をガンガン出して何度痛い目を見たことでしょう。(身内の方が行くところまで行っちゃったりするので)

相手が誰であれ、言葉を吟味してしっかり感情をのせれば、相手に受け取ってもらえる確率がぐんと上がり、手応えがあるというのが、身を以て学んだ実感です。

また、辛さや悲しさのような感情も、「私は今◯◯を辛いと感じているんだ」と言葉にしておくと、まずは自分自身がわかってくれる人第一号になるので意外にしのぎやすくなったり、対応の方法を見つけやすかったりしました。

ノリとスピード優先のやりとりは元々苦手ですし、もう潔く諦めて、今は概ねゆっくり変換に徹しています。

③ 考えることを省かない、厭わない

これも私が勝手に区別しているだけですが、「思う」の次のステップが「考える」。

例えば「お腹が減った、カップ麺食べよ」と思った時、「でも待てよ。最近いい加減な食事が多くて栄養片寄ってるな。ちょっとスーパー行って果物とか買ってこようかな」となるような感じでしょうか。
お腹をすかせてスーパーに行ったら、結局ジャンクフードを大量に買い込んでしまった、みたいに考えた結果が逆効果という場合もあるので一概に言えませんが、考えることが大事になる局面も、やはりあります。


もっとも、私の普段の生活の中では、たいていのことが長年の繰り返しで習慣化している上に、家族の人数も減り日々淡々と過ぎていくので、さあどうしよう!?と考える場面がずいぶん少なくなりました。


感情が波立たず思ったことがスムーズにいくのは、楽で有難いこと。
でも、それは歳を重ねて成熟したからと言うより、惰性でやってるだけかも…と最近ちょっと気になります。

今までさんざん感情に振り回されたり、思い悩んだりを繰り返して学んできたはずなのに、ここまで来て考えることを放棄して逃げ切りを図るのは、違うんじゃないの?


私が目下もやもやしている感情を言葉にできるのは、せいぜいまだこの程度。
それでも、人生の時間配分を否応なく意識してしまう今だからこそ、たとえスローペースでも、ちゃんと感じて、思いをととのえて、考える手間を省かずに、小さくてもいいのでその先の何かに繋げることを大事にしたい……時折そんなふうに心の中でつぶやいていたりします。



実はnoteを書くと、このプロセスをそのままたどることになるんです。
だから私のnoteは、きっとこれからも頼もしい相棒になってくれるはず。
そして、noterの皆さんの記事は、きっかけとヒント満載なのも嬉しいです。

感謝を込めて、これからもどうぞよろしくお願いいたします。


お読みいただきありがとうございました🐪














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