「泳ぐ」ってなんだろう? 泳がない私が思っていること
まだちょっと時期が早いかもしれませんが、今回は水の話をさせてください。
と言いながら、実のところ私は泳ぎが苦手です。
辛うじてカナヅチではないけれど、子どもの頃から海もプールも極力パスしたい方でした。
水に入るまでの準備と、水から上がった後のリカバーが面倒でしたし、そもそもなぜ水の中で、全身の筋肉を総動員して進まないといけないの?と思ってしまうのです。
それでも大学2回生の時、もしかしてバタ足以外の泳ぎ方を身につければ楽しくなるかも!と、一念発起してスイミングスクールに通いました。
ただ残念なことに、そのスクールはまず背泳ぎをマスターしてからでないと次に進めないシステムなっていたため、どれだけ必死に水をかいても上をむいたままブクブク沈んでしまう私は、結局2か月で諦めました。
2か月も頑張れたのは、毎回ご褒美として、スクールの帰りにある中華屋さんの餃子を食べる楽しみがあったから。
なのでマーメイドになれなかったことよりも、寄り道できなくなったのが残念でした。
それ以来、泳がない生活をずーっと続けてきて、正直困ることって特になかったなぁというのが実感です。
一応持っていた水着も、息子が大きくなり、家族とではなく友達と海に行くようになった頃に処分しました。
なのですが、数年前からちょっとした心境の変化が起きています。
それはある本に、
水泳と読書は似ている
とあるのを読んだのがきっかけ。
書名も内容もうろ覚えで、ここにきちんと紹介できなくてごめんなさい。(たしか、翻訳家として知られる元大学の先生の講演録でした)
水泳と読書(この場合は文字・文章メインの本)、確かに共通点があるようです。
どちらも、ある人にとってはすごく楽しい行為なのに、別のある人にとっては苦行でしかない。
どちらも心身にとって「良いこと」「やるべきこと」だとされている。
しかし実際には、やらないからといって生活に大きな支障は生じない。
人が成長する過程で、どちらに関しても「努力してやるべき」というかなり強い圧力がかかる。
学校教育をはじめとして、社会にはそのために様々なモノやサービスが提供されている。
と、こんな感じでいくつか思い浮かびました。
さらにここからイメージを広げれば、さしずめ、「本」は「プールもしくはビーチ」にたとえることができるでしょうか?
自分の好みの場所(ジャンル)を選んで、楽しみながら泳いで(読んで)いるうちに、いつの間にか深くて距離のある競泳用のプールだって、すいすい泳げるようになっている、みたいな。
もちろん誰しも好き嫌いや向き不向きがありますから、何をやるかを選ぶのはその人の自由です。
嫌いなことは無理をせず、好きなことを楽しく続けていくのが最善。
なのに、人生のある時点から積極的に水に入らない選択をし続けてきた私は、いまだにどこか後ろめたいような、もやもやした気持ちを感じています。
それは別に、挫折から目をそむけたいというようなネガティブなものではなく、何か別に理由があるのかもしれない。
テニスでもジョギングでもない、それが「水泳」だから?
そのあたりはもう少し整理して、また続きを書きたいと思います。
この頁に目をとめて読んでくださり、ありがとうございました🐪