好きな海なら、たぶん泳ぐのは楽しい
前回のnoteで、水泳と読書について書きました↓😊
いきなり話の続きです。
泳ぐことが、全く別の行動に見える読書に相通じるとすれば、本質的に共通しているものは何なのでしょうか?
そこで試しに「水泳」=「読書」の水泳を、他のスポーツに置き換えてみました。
競技、趣味どちらにしても基本一人で取り組むもので、陸上、スキー、スケート、武道の演武、弓道にボルダリング…といろいろあてはめてみたものの、(あくまで主観では)どれも読書のイメージと重なる感じがしません。
やはり水泳ほど日常的で、なおかつ「やるべき圧」がかるものは、他にないんじゃなかろうか、という結論になりました。
泳ぐことの何が特別なんだろう? と考えて浮かんだ答は、
「言葉」は「水」だから
でした。
水を掻き分けて進む時、言葉をたどりながら読む時の、あのなんとももどかしく、決して楽ではないのに、不思議に心地好い抵抗感は確かに似ています。
誰もがよく知っているように、水は私たちが直接体に取り込んで生命を維持するだけでなく、暮らしのあらゆる場面でなくてはならないもの。
同様に言葉も、ヒトという動物が、伝達し、記録し、思索し、創造し…と、人間として生きるために必須の道具。それが溢れている私たちの世界を、「言葉の海」と例えることもありますね。
けれど水も、言葉も、何を混ぜるかによって毒にも薬にもなり、使い方次第で武器にも凶器にもなり得る。
そして、ひとたび怒涛となって押し寄せれば、命にかかわるダメージをもたらす大きな破壊力も秘めています。
だから、使い方・つきあい方を学ぶのがとても大事。
泳ぐということは、水の恵みと怖さを身を以て感じながら、できるだけ遠く、速く、深く進む自由を得ていく行為、と言えるかもしれません。
そして言葉もまた、意識的に読む・書くという、言わば普段何気なく使うレベルより少し負荷の高いトレーニングを続けることで、より的確に受け取る・発信するスキルが上がっていく。
…とここまで書いて、これって屁理屈を弄んでいるだけかもしれないなぁと手が止まりました。
結局、無理して泳がなくても、読まなくてもちゃんと生きてはいけますから。
ただ、ひとつ実感していることがあります。
今から3週間前、意を決してnoteの海の端っこにチャプンと飛び込こんで以来、私はこの海が予想よりはるかに広くて深く、その上アスリートさながらの意欲満々なnoterさんがものすごく沢山いらっしゃるのに、正直かなり怖じ気づきました。
これまでずっと、必要以上にSNSと名の付くものには近づくまいと思ってきて免疫がないので、noteの環境が初心者向けに配慮されていてとても有難いのはわかるのですが、やっぱり怖い。
でも同時になんだか楽しくて、ついぞないほどにワクワクしている自分も確かにいるのです。
これから先、得るものよりは失うものの方が増えていくだろうけれど、こんなふうに新しく始められることもあるんだ、わーい🙌、という感じ。
これは、たまたまそういうタイミングだったからなのでしょうが、出来るやり方で付かず離れず言葉に向かう習慣があったからこそ、noteに参加する勇気が出たのかなとも思います。
(実際には、読むことも書くこともほとんどできない時期が10数年あって、ずっと続けていたわけではないです。その辺のささやかな紆余曲折は、またいつか書かせてもらえたらと思っています)
もしも私が今、スイミングスクールの成人初心者クラスからの帰り道、あー今日も進まなかったと肩を落として商店街を歩いている40年前の自分を見かけたら、あの中華屋さんに誘って餃子定食を一緒に食べて、ついでに胡麻団子と杏仁豆腐も奢って、軽ーく言ってあげたいです。
「きっと好きな海がいくつも見つかるから、プールを泳がなくたって人生全然大丈夫!」