14.あの日、あの教室で
Yちゃんがクラスにやってきたのは、中学三年生になって間もなくのこと。
すらりとして手足が長く、くせっ毛のショートヘアにクリンとした瞳。
初めて見た時、外国のお人形みたいだなぁと思いました。
どういう事情で中三になってから転校してきたのか、クラスの情報網に加わっていなかった私には全くわかりませんでしたが、数日たつと、周りのどの子もYちゃんから少し離れて様子を窺うような雰囲気が生まれているのに気づきました。
昭和50年代の教室は、たいていどこも定員いっぱいで、余分なスペースはほとんどなかったはずなのに、なぜか休み時間になると、Yちゃんの周囲だけ空いている感じがします。
あの子、変
時々そんな言葉も聞こえてきました。
歩くのも走るのもどこか動きがぎこちなくて、自分の体を扱いかねているように見えること。
「~です」「~ます」調に、時々「~なのよ」といった都会の言葉が混じる独特の話し方。
授業中でもいつでも、意識に浮かんだことはパッと口に出す一方で、話の受け答えはあまりスムーズでないこと。
英語が得意。たくさんの単語を発音記号まで覚えていて、先生にほめられるととても嬉しそうだったこと。
今思い返してみれば、Yちゃんは発達の凸凹がやや大きくて、人に合わせるのが苦手な子どもだったのだとわかります。
でも当時、自分達がとらわれている違和感の理由が何なのかわかっている者は、クラスに一人もいなかったでしょう。
もちろん私もそうでした。
担任だった40代の男性の先生が、なにかと気を配ってYちゃんに声をかけていたこともあり、皆あからさまに爪弾きにしたりするようなことはないものの、微妙に緊張した雰囲気のまま何日かが過ぎていきました。
その日は担任の先生が不在でした。
美術だったか書道だったかの教室移動があり、たまたまその時間の担当の先生も休みで、自習になりました。
課題をやっていると、後ろの方から大きな声が聞こえてきました。
あーまた男子が騒いでると、うんざりしながら振り向いた私の目に飛び込んできたのは、席を離れて立ったままべそをかいているYちゃんの姿でした。
何がきっかけだったのか、正確にはわかりません。どうやらYちゃんが近くにいた一人の子に話しかけるか触れるかした時、相手がそれを避けて席を立ったらしいのです。
露骨な反応に驚いたYちゃんが別の子に向かうと、その子もまた同じように飛び退いて、そのまた次も。
そこから先はまるで、火花が飛んであちこち発火して燃え広がるのを見るようでした。
いつの間にかクラスの大多数が、泣きながら追いかけるYちゃんから逃げ回り、大混乱になっていました。
騒ぎを聞きつけた別の先生がやってきて、Yちゃんをその場から連れ出し、私たちを一喝して、ようやく静まったところでチャイムが鳴りました。
その次の日、Yちゃんは休みでした。
担任の先生にこっぴどく叱られることを覚悟していたのに、いつまでたっても先生が話を始める気配はありません。
まさかこのまま終わるはずはないと様子を見ていると、案の定その日の担任の授業で、明日までに自由なテーマで作文を書いてくること、という宿題が出たのです。
あ、そういうことか…
敢えてあのことについては触れずに、それぞれに作文を書かせて、気づきや反省の度合いを見た上で、個別か全体かで指導があるんだな、と思いました。
その作文の最初に、
「先生が、なぜこの作文の宿題を出されたのかわかるような気がします」
と書いたことは覚えています。
そのあとをどう続けたのかは全く記憶にないのですが、あの日巻き込まれたくない一心で、教室の隅で半ば隠れるようにして見ているだけだったことに胸がチクチクしていましたから、そういう気持ちを書いたのだろうと思います。
そして、それを書くことで、暗に自分は逃げ回って騒いでいた生徒達とは違うのだと示したい思いも確かにありました。
そんな打算を混ぜ込んだ作文を提出して、いくらかほっとしていた私に、報いはちゃんとやってきました。
提出した翌日には、担任が私の書いた作文を印刷してクラス全員に配り、それを読ませるという形で指導がありました。
一応事前に職員室に呼ばれ、作文を配ると知らされはしましたが、その場で絶対止めてほしいと拒否する勇気もなく、「わかりました」と答えるしかできませんでした。
その指導があった時点から先は、私に中学校生活の記憶はありません。
作文を読んだクラスメートの反応も、
Yちゃんはその後どうなったのかも、
自分がそれからクラスでどう過ごしていたのかも、
それどころか、中学校最後の文化祭も運動会も、高校入試も、卒業式も、
何一つ覚えていないのです。
おそらく、学校生活が続けられないほどに大きく破綻はしなかったけれど、それなりにダメージを受けて居づらくなった末に、その日その日の出来事は無意識に流して忘れてしまうという方法で、日々をやり過ごすようになっていたのでしょう。
大袈裟かもしれませんが、私はたぶん、そういうやり方で学校にしがみついて、生き延びることを選んだのだと思います。
そしてそれは、以後何年間か続いた高校・大学生活にも、おのずと影響することになりました。
でも、あの日からの一連の出来事を振り返って、誰かを責めたり自分を悔やんだりすることは、もうとうに止めています。
それは、いたずらに心が波立ち疼くばかりで不毛なことだから。
ただ、その後のYちゃんに目を向ける余裕を失くしてしまった自分が、彼女の泣き顔しか覚えていないのがとても残念です。
だから、あの日のあの教室、あの場面のことだけは忘れないでいよう。
Yちゃんを泣かせず、その後で自分も壊さないようにするにはどうすればよかったのか、考え続けていこう。
長い時を経た今も、そう心に決めて過ごしています。
読んでいただきありがとうございました🐪