雲仙普賢岳と島原半島。火山旅行の夢。〜エイヤフィヤトラのルーツを求めて〜
注意:この記事の大部分は旅行記であり、ゲームに関する情報は殆ど含んでいません。僕が旅行するきっかけになったのはゲーム内の推しのお陰ですが、2章以降の旅行記ではアークナイツに関連した情報は殆ど出て来ない点をご留意ください。
1.少し長い前置き。ゲームを越えて火山の旅へ
初めましての方は初めまして。藍繕なつきと言います。
普段ゲームの記事ばかり書いている僕ですが、今回は旅行記を書こうと思います。
齢30を過ぎた僕ですが、一人旅というものは片手で数える程度しかした事がありません。僕は根っからのゲーマーでインドアであり、旅行をするのに積極的な人間ではありませんでした。
しかしそんな僕が、今回初めて飛行機に一人で乗り、レンタカーを二日間運転し続け、長崎県の島原半島を一周するに至りました。
どうしてそんな旅行をしようと思ったのか。どうして引きこもり気味の男に、旅行をしようと思うバイタリティが生まれたのか。
きっかけは、一人の火山学者の女の子にありました。
アークナイツというゲームに、エイヤフィヤトラというキャラクターがいます。それはもうとてもとてもとてもとても可愛い子です。
僕は二次創作の字書きをしている身であり、エイヤフィヤトラの作品も書いていたのですが、この秋に上梓する新刊の執筆に当たって彼女に関する資料を漁っていたところ、エイヤフィヤトラの両親であるナウマン夫妻に現実のモデルが存在する事実に突き当りました。
モーリス・クラフト、カティア・クラフト夫妻。
実在する火山学者の夫婦です。1991年に日本の雲仙普賢岳の火砕流に巻き込まれて亡くなりました。
アークナイツwikiの説明文を引用しましたが、文章は僕が書いたものです。もし何か間違いがありましたら教えてください。
クラフト夫妻の事を調べれば調べるほど、このお二人がエイヤちゃんのご両親のモデルになっているという確信を抱きました。クラフト夫妻とエイヤちゃんに共通するエピソードを挙げてみましょう。
* 酸性湖でボートを漕ぎ、同僚に怒られた。
* 政府に噴火の警告をするも聞き入れられず、火山の啓発を目的としたドキュメンタリー映像を制作する。
* 溶岩の上を普通のブーツで歩く。溶岩で目玉焼きを焼いた事がある。いつか溶岩にボートを浮かべて溶岩下りをするのが夢。
どれもなかなかに強烈なエピソードですが、上に挙げたものはクラフト夫妻の実際に行った(あるいは発言した)事であり、エイヤちゃんのプロファイルにも出てくるエピソード群です。(ちなみに酸性湖でボートに乗ったのは夫のモーリスのみであり、妻のカティアは彼の無鉄砲さに怒っていました)
更にはそもそも〝火山学者の夫婦〟という存在自体が世界的にも珍しい(クラフト夫妻が「私達の他に知らない」と発言していました)のですから、エイヤちゃんのご両親のモデルはクラフト夫妻であると考えて良いでしょう。
さて、どうして今回僕が旅行をしようと思ったのか、もう分かっている方は多いと思います。そうです、エイヤちゃんのご両親(のモデル)に所縁ある地がこの日本にあったのです。少し頑張れば行ける範囲ですから、これは行かなくてはならないでしょう。
それに、僕が雲仙普賢岳に行かなくてはならないと思った理由は、エイヤちゃんのバックグラウンドをより深く知りたいというだけではありません。エイヤちゃんのご両親のモデルであるクラフト夫妻の物語も知るうちに、お二人の人生そのものにも惹かれるようになったからです。
ファイアーオブラブという映画があります。クラフト夫妻が実際に撮影した映像を使用した、ドキュメンタリー映画です。2023年の第95回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー部門の作品賞にノミネートされました。
未鑑賞の方はぜひ観てください。色鮮やかに噴火する火山のように激しく生きたクラフト夫妻の人生は、心を激しく揺さぶりました。
映像に収められている美しく噴火する火山たちは、きっとエイヤちゃんも見ている光景であった事でしょう。エイヤちゃん推しの方も観るべき映像だと僕は思います。エイヤちゃんがなぜ火山に惹かれたのか、彼女の気持ちがまた少し分かるようになった気がします。
ファイアーオブラブはディズニー+に入会すれば観れます。ひと月当たり1000円以内なので、映画一本観るより安く観れますよ。
クラフト夫妻はエイヤちゃんのご両親のモデルであるというだけでなく、そもそもお二人の生き様に惹かれるようになった僕にとって、クラフト夫妻がどうして日本で亡くなったのかという事にも非常に関心を持つようになっていました。
お二人の命を奪った雲仙普賢岳の噴火はどのようなものだったのか。火山の脅威について僕は無知でした。本やネットでの情報や知識はあっても、体験としての実感は持ち合わせていませんでした。ですから、少しでも手触りのある情報に触れたいと思ったのです。
そんなこんなで僕は島原行きを決めました。前置きが長くなりましたが、旅行の話をそろそろ始めようと思います。
先に結論をお伝えしておきますと、クラフト夫妻に関する情報はあまり得る事が出来ませんでした。しかし、収穫が無かったわけでは勿論なく、寧ろ実り多い旅行をすることが出来ました。
推しに狂い、推しの背景を少しでも知りたくて長崎まで飛んだ男。我ながら滑稽だと思います。推しは現実に存在している訳でもないし、完全な自己満の旅です。ですが、旅行を終えた僕は大きな満足感と充実感を覚えました。推しに狂う事が出来るのって、とても幸せな事ですから。推しの事をもっと知りたい。推しをもっと身近に感じたいと思う気持ちは、推しのいる方なら分かってくださる感情でしょう。
そして、今回の記事を通して、この旅行で気づく事の出来た島原地方の魅力、そして火山の魅力もお伝え出来ればと思っています。
旅行を通して改めて実感したことがあります。火山を知る事は、同時にエイヤちゃんを知る事でした。火山学者の彼女がなぜ火山を研究しているのか。火山のどこに惹かれているのか。それをより理解する事が出来たように思います。
彼女の抱いている火山旅行の夢に共感できるようになった時。僕たちの世界もまた、少し広がるのではないでしょうか。
2.火山の麓、島原の地へ
旅行1日目。長崎空港に着いた時から話を始めましょう。7月27日(土)午前10時頃、乗っていたSNA便が長崎空港に到着しました。
久しぶりに飛行機に乗ったからかちょっと緊張しましたね。というか、僕が一人で飛行機に乗ったのが初めてだったからというのもあるかもしれません。飛行機事故があったらどうなるんだろうな~とか、人と乗っていたら考えなさそうな事をぼんやり考えていました。小心者。
長崎の上空から見える半島の数々、そして海。日本地図を頭の中で思い浮かべてみると、長崎と熊本の辺りは入り組んだ面白い地形をしています。それを実際に目の当たりにすると感慨が沸き起こってきます。
長崎空港のレンタカーの待合室に移動し、そこからニッポンレンタカーの事業所への送迎バスに乗ります。長崎空港は大村湾の海上に造られているようで、事業所まで移動するのに長い橋を渡りました。
レンタカーを借りた後、早速島原方面へ向かいます。道中の信号待ちの時間を利用しながら車の説明書を読んだりします。大村市から諫早辺りまでの道中はさながら地方都市と言った感じの趣きで、起伏の多い道が多かったように思います。
車内の音楽は、iPadを使って今回の目的に沿った曲を流す事にしました。
自前のプレイリストです。もし気に入ったら使ってやってください。公式様の動画のみで構成しています。
未だに夏のシエスタに心を囚われている僕は、エイヤフィヤトライベントのテーマ曲を定期的に聴いています。重症ですね。でも良い曲ばかりです。
So Long,Adeleは夏のイベントでしたし、夏らしい曲が多くてこの時期のドライブにぴったりでした。旅行中にひたすらリピートしていたお陰で、このプレイリストを流すと今でもこの島原旅行を思い出します。
車を走らせて1時間程。諫早市から島原半島に入ると一気に景観が変わりました。遠くには海が見えます。
ドライブするなら海が見たいと思ったので海沿いの国道を選んで走ります。国道沿いの建物もまばらになり、田畑が多く見られるようになりました。
不思議な光景でした。国道の右を見れば田畑があり、雲仙普賢岳の立派な姿が拝めます。その威容に僕は息を呑みました。
山だけを見ると、その姿は例えば中部地方の日本アルプスの山中に行くことでやっと見れそうなくらいに立派なものです。しかし、その山の手前に目を向ければ、そこには人の生活圏があるのでした。
人の住む町からあんな近くに火山があるなんて。この島原半島に住んでいる限り、ここでの生活はあの火山と切っても切り離せないものになるのだろうと、この時点でも直感しました。
僕は東京生まれ東京育ちです。その僕からしてみれば、右手に山、左手には海が見えるという光景はとても新鮮でした。自然が人々のすぐ傍にある。そんな実感がここにはありました。
逆に言うと、僕はずいぶんと自然から切り離された生活をしていたということです。自然を感じられない、あるいは公園のような人の手に飼い慣らされた自然しか身近に無かったのだという事を改めて実感させられました。
こんな光景も僕にとっては珍しいものですね。趣のある風情に一両編成の島原鉄道。良い眺めを見つけては車を降りて写真を撮るという事を繰り返していました。
ただし、旅慣れていない関係もあって停車できる場所を探すのに苦労しました。旅先でアドリブを利かせて予定外の事をするのに憧れはありましたが、そうするには経験も必要かもしれないなぁ。
寄り道も程々にして、最初の目的地に向かいます。もっと寄り道をしてもいいのにとは思うのですが、僕の性格上、この旅一番の目的をまずは果たさないとどうにも落ち着かないのでした。ちょっと神経質。
最初の目的地とは。がまだすドームです。
3.灰燼は生命を攫い、生命を育み、新葉を芽吹かせる(がまだすドーム)
別名は雲仙岳災害記念館。1990年から1996年まで続いた雲仙普賢岳の噴火の後に建てられたものです。
島原地方における火山災害による教訓を語り継ぐと共に、火山災害への減災の取り組みや火山資源による自然の恵みを紹介しています。火山に纏わる様々な事象について学ぶことの出来る体験型火山ミュージアム。それががまだすドーム。
がまだすというのは島原地方の方言で「がんばる」という意味だそうです。そして記念館は、噴火による土石流で埋め立てられた土地の上に建てられています。
噴火による土石流はなんと海まで届いていたとの事。火山からは大分離れているはずなのに、今自分のいる足元まで土石流が届いていたのかと思うと背筋が凍る想いでした。
火山の脅威とはそこまでのものなのか。眼前に見える雲仙普賢岳への見え方が大きく変わる想いでした。ドライブ中に眺めていた山からは神々しさすら感じていたというか、信仰の対象として不思議ではないくらいに威厳を感じていたというのに。活火山の秘めた恐ろしさを、ここに来て僕は初めて知ったのでした。
自然と生活を切り離す事は出来ない。そもそもそういう考えは都会住まいの僕にとって縁遠い考え方でした。だから、がまだすドームの火山災害の展示を見ていて、〝自然と生活環境が密接に繋がっているんだ〟と感銘を受けました。
これは冷静に考えて変な話です。生活と自然に関係があるなんて、当たり前の筈ですから。
ですが、僕からこの感想が出てきたのは〝自然との繋がりを普段感じていない自分がいる〟からであって。そんな自然と切り離されていた僕がいる事に驚きました。ここに来るまでそんな事を意識した事が無かったのが、衝撃でした。
がまだすドームは体験型ミュージアムであり、火山の脅威を感じられるように工夫がされた展示が多くあります。
* 火砕流の速度を実演する展示。足元のガラス張りの展示ケースの中を、目にもとまらぬ速度で赤い光が走ります。本当に一瞬のことで、何度見ても肉眼で捉える事は出来ませんでした。
* 身近な製品(たとえばけん玉)が熱によってどのように変性していくかを実演した映像。
* 火砕流の被害のあった場所から発見された実物の展示。
上記の展示も一例に過ぎません。これ以外にも多くの展示を通じて、噴火がもたらした被害がいかに甚大なものだったかという事を思い知らされました。
個人的に一番衝撃を受けたのは、当時の報道映像をまとめて見る事の出来るアーカイブです。知識として知っている噴火現象よりも、現実の映像が一番雄弁であったように感じました。灰に覆われた町は、現代の日本のものであるとは思えないくらいに終末感がありました。
そして、とうとう僕の旅行の目当てであるものを見つけました。噴火の犠牲者に関する情報です。ずっとこれを探していたのでした。
たった一行。「火山研究者 3人」の言葉がありました。それ以上の情報は探しても見つかりませんでした。
火山研究者、3人。この3人というのが、クラフト夫妻とその友人であったはずです。フランスからやって来た世界的に有名な火山学者の夫婦の二人。それがこの一行に込められていました。
不思議と僕は納得していました。いくら火山学者の中では有名な二人であっても、この二人に焦点を当てるのはこのミュージアムの展示の趣旨からは外れるのでしょう。ここでは犠牲者の多さを伝えているのです。噴火で何が失われたのか。それは人命だということです。44人という人の命は公平に扱われるべきです。大事なのはその肩書ではありません。
でも、そう納得する一方で耐えがたい悲しみを覚えました。なぜならその二人の映画を見た後だったからです。二人の人生がどのようなものだったか、二人がどんな人柄だったのか。それをよく知っていたからこそ、かけがえのない人生が失われてしまった事が実感できたのです。何が失われたのか、それを想ってとても悲しくなりました。
そして、僕が悲しむ事が出来るのは、そのたったの二人分だけだったという事も重要でした。残りの42人については僕は何も知らないのです。知らない人の人生については、漠然とした感慨しか湧き起こりませんでした。実感が湧かないのです。
その直前に、噴火当時の再現ドラマを見ており、地元の消防隊員や記者、地元の学生が亡くなった事は分かりましたが、それでも亡くなった人の人生がどんなものだったのか実感は無いのです。何が失われたのか、42人分については分からないのでした。
人命が失われる事件が起きた時、犠牲者の数が報道されます。しかし、その数に込められた本当の意味は分かるのでしょうか? 何が失われたのか、その重みを感じる事は出来るのでしょうか? 想像する事しか出来ません。
人命が失われる事件が起きた時に、実際に何が失われたのか。今回たまたま二人の火山学者のドキュメンタリー映画を見ていたお陰で、その重みを感じる事が出来ました。こういった重みを大切にするにはどうすればいいのでしょうか。
2024年夏の現在、ガザ地区の犠牲者数の報道が連日続いています。数だけが大きく膨れ上がり、次第に人命の失われる感覚がマヒしていきます。僕の想像力もあまり役に立ちません。
クラフト夫妻が教えてくれたこと。ドキュメンタリー映画を通して、その人をよく知る事で、何が失われたのかを初めて知る事が出来る。そんな学びを得る事が出来たように思います。
かけがえのない人生は、数字の奥に隠されている。数字を実感として感じるためにも、人の事をよく知らないといけない。そんな事を思いました。
さて、ちょっと真面目な話ばかりで肩の凝る内容になってしまっているかと思います。すみません。でも今回の旅行はかなり真面目な動機で始めたので、堅苦しい話にどうしてもなってしまいます。
火山は時に、人々の生活を根こそぎ奪ってしまう。でもその一方で火山による恵みもあり、火山は人々の生活を豊かなものにしています。
雲仙普賢岳は信仰の対象でもあり、そして90年代の噴火を契機にジオパークとして世界的に有名な土地になりました。火山は恐ろしいだけのものではなく、人々の生活を支えてもいる。切っても切り離せない関係にあるのですね。
今回、雲仙普賢岳の噴火という〝災害〟を知る為にここまで来たのですが、火山は人々の生活を支える存在でもあったのです。
そして、火山の噴火は人々の思惑を超えた自然現象であり、地球の造成活動の一部という、壮大な物語の一部でしかないのです。
地球の壮大なドラマを知ると、人間がちっぽけな存在に感じられます。火山活動は、地球が生きて今も変化を続けていることを教えてくれるものでもありました。そして島原地方は、そんな火山がすぐ傍に感じられる場所でした。
この辺りで旅行記を一旦区切りたいと思います。旅程は二日間で、この後に見てきた島原の自然など書きたい事はまだまだありますが、一先ず今回の旅行で一番書きたかった事は書けました。思った以上に長くなって疲れました……。
それに、旅行記自体初めて書いたので、しかも結構堅苦しい内容が多かったと思うので、読んでくれる方の反応がちょっと怖いですね。楽しんでくださる方がいると良いのですが。もし少しでも良いなと思ってくださる方がいましたら、スキなどで応援してやってください。
10月のイベントに向けた原稿も進めなくてはならないので、今回はここまで。またの機会に続きも書けたらと思います。
藍繕なつき