世界を変える準備【小説】
晴れた日に布団を干したいから、仕事は辞めた。
それからは納期や顧客対応、日曜日の憂鬱、iPhoneのスヌーズ音からは解放された。でも、天気予報と、定期的に訪れる“暮れない一日”が、僕の新たな悩みの種となった。
生きている限り、全ての悩みから解放されるのは難しいらしい。
・・・
最寄駅から徒歩15分、アパートの2階にある僕の自宅を訪れるのは、サハラという友人くらいだ。
彼は鉄道会社に勤めていて、海沿いにある観光地の最寄駅で係員をしている。
彼が交代制の仕事をしているおかげで、24時間昼夜を問わない来訪に僕は見舞われるのだ。
「おい、もう3時だぞ。布団をさっさと取り込め」。部屋に入って早々、サハラは顔をしかめて言う。
「今取り込むところだったんだよ」
「ちゃんと裏表返して、日に当てたのか?」
「当てたよ」
「ならいい。布団の叩きすぎにも注意しろ」
サハラは冷蔵庫から牛乳瓶を取り出し、封を開けながら言った。
12月。窓にさす西日に目を細めながら、鬱陶しそうに前髪をはらうサハラ。
「今日は明けか?」僕は尋ねる。
「ああ。今日も今日とて、乗客を大量に乗せた列車を定刻通り、見届けてやったぞ」と誇らしげにサハラは言った。
彼は横浜きっての観光地・みなとみらいの最寄駅のホームで、列車の運行整理や乗客案内をしているのだ。
「ここ最近、晴れた日に布団は干せているか?」サハラはニヤリと笑って話す。
「そうだな。快適に干せてる」僕は布団を取り込みながら答える。
「毎日同じことの繰り返しで飽きないのか?」
「飽きないよ。それに働いていた時だって同じようなものだったさ」
僕はサーバーからコーヒーを注いで答える。
「一日仕事を終えたら、また次の仕事が始まる。納期の日付が変わるだけだよ。雨の日に出勤すれば必ず人を刺し殺すように傘の柄を振り回しながら歩く奴がいるし、退勤中電車でよく会うおじさんはいつもズボンのチャックが開いている。僕が何をしていたって、世界は変わらない」
そう言って、僕はコーヒーをすする。サハラは野菜室からりんごを出し、皮をむき始めた。
「チャックが開いているのは、言ってやれよ」
ぶっきらぼうに言う彼を見ながら、僕は最近自分を悩ませる現象について話そうか迷っていた。
・・・
異変に気づいたのは、よく晴れた日の夕方ごろだった。その日は本を読むのに一日夢中になっていて、気付くと時計の針は夜の6時を指していた。急いで布団を取り込んでいるときに、ふと外が明るいと思った。
その頃は10月に入る直前で、いつもであればもう日が落ちて辺りが暗くなっている時間だ。夕日は雲に隠れつつ、落ちそうで落ちない高さを保っている。
まあ多少のずれはあるものか。しばらくはそんなふうに考えて夕食の支度や風呂の準備を進めていたのだけど、時計の針が8時を回っても辺りがまだオレンジ色に染まっている状況に、とうとう違和感を無視できなくなった。
ネットニュースにも報道はなく、SNSにも僕と同じ違和感を持っている人はいない。気味が悪くなって街に出てみたけど、誰も暮れない一日に困惑などしていなかったのだ。
血の気が引いていくのを感じた。足元が揺らぐ感覚。この世界はどうしてしまったのだ?
しかし成す術もない僕は、家に戻っても気が動転していて、とにかくなんでもいいから気を紛らわせるために、夕食準備で出た家庭ごみの分別を始めた。
燃えるごみとプラスチック。普段は面倒さが勝ってきっちりとはやらない仕分けを丁寧に行い、汚れもしっかりすすいで顔を上げると、すっかり日が暮れていた。
・・・
その日以来、定期的に“暮れない一日”が訪れて、僕を悩ませた。しかし、何度か経験を重ねるうちに、僕はある法則を見出すことに成功したのだ。
気になっていたことを改善する。
そうすることで、僕は新しい日を迎えることができるのだった。
ある時はコンロを磨き、またある時は風呂上がりに髪を丹念に乾かした。
なぜそうして時が進むのか?何がきっかけでその日が始まるのか?こんな小さな変化が世界の何に影響しているのか?
この不思議な現象が一体なんなのかわからないまま、対症療法だけを得て、その場をやり過ごしていた。
・・・
「おい、どうした?」サハラの言葉ではっと我に返る。
いつの間にかりんごの皮をむき終わり、彼は目の前に腰掛けりんごを口に運んでいた。
「お前最近ちょっと変だぞ」
僕は黙ってりんごを手に取りかじる。
サハラは目にかかる前髪の奥からしばらくこちらを見ていたけれど、「まあいいや」とマグカップに注いだコーヒーをあおった。
「とにかくお前は晴れた日は布団をきちんと干せ。じゃないとこっちも気が気じゃないんだ」
「なあ、サハラ」すっかり彼のもののようになったマグカップを見つめ、僕は言った。
「布団は貸さないからな?」
・・・
その日は快晴で、僕はいつも通り布団を干して取り込んだ。
異変を感じ始めたのは5時を回った頃……日が落ちない。
またか。だけど僕は“暮れない一日”にどこか心づもりのようなものが出来始めていて、自分の身の回りで気になることを探し始めた。アイロンがけや買った野菜の下処理、本棚の整理、風呂場の掃除、溜まっていた新聞も片っ端から読んだ。
しかし、何をしても日は暮れなかった。次第にできることも尽きてきた頃には時計が一周していて、本当は朝日を浴びる時間なのに、世界は夕日に包まれたままだった。
頭がぐらぐらする。僕はカーキ色のジャンパーを羽織って外に飛び出す。スーツに身を包んだサラリーマンは、忙しそうに通話しながらすれ違い、駅前ではティッシュ配りの青年により、生命保険の広告が撒かれている。
改札を抜ける。後ろから誰かに呼び止められた気がして、足を止める。
「お客さま、切符を通すか、ICカードをタッチしてください!」
駅員と思しき女性が甲高い声で叫ぶように迫る。
切符?ICカード?太陽が沈まないこの世界で、そんなものになんの意味があると言うのだ?
しかし、必死の様子で後を追ってくる女性の顔を見て、世界の外に出てしまったのは僕の方なのだと悟った。
詫びたうえで乗車料を払い、ホームに入ってきた電車に僕は乗り込んだ。周りを見渡すと、乗客のほとんどがスマートフォンの画面を熱心に覗き込んでいる。
いつもと何も変わらない。
しかしそれがおそろしいのだ。
僕が感じている違和感は、僕しか感じていないのではないか?世界の在り方に対して自分一人が何を感じているからと言って、それがどれほどのことだと言うのか。それこそ切符やICカード以上に些末なことだ。
僕は座席に腰を下ろし、まぶたを閉じた。
・・・
気付くと僕はホーム上に立っていた。狭いホームに人がごった返している。電車の車体に引かれた青いラインが僕の目の端を滑りながら走り去り、乗客は階段へとあらかた吸い込まれていく。
「ようワタナベ。いつまでやってんだ、早くしろ」
目の前には制服姿のサハラが立っていた。
「サハラ」
「ずっと夕方だと仕事にも身が入らんぞ。眠いったらありゃしないじゃないか」
「え?」僕は顔を上げる。
「だから、早く元に戻せと言っているんだよ」
「サハラは気づいていたのか?ほかの誰も気づいている様子はなかったから、僕はてっきり自分だけの身に起きていることだと……」
サハラは階段を降りていく群衆に目をやる。
「そりゃ気にならない奴もいるだろ」
顔をしかめながら、こともなげに言う彼に、浮かぶクエスチョンマークをぶつけようと、僕は口を開く。しかし先に言葉を突いたのはサハラだった。
「でも、お前は違和感に気づいちゃったんだろ?」
「そうだよ!!でもどれだけ自分を変えても、今回はどうにもならないんだよ!!」
僕はたかぶった気持ちを抑えられず、強い口調でサハラに言葉をぶつけた。
サハラは何も言わずに前髪の奥からこちらを見ている。
僕は思わず語尾を震わせながらつぶやいた。
「僕が何をしても、世界は変えられないんだよ」
「でも、お前自身は変わっただろ」
風が吹く。僕は自分が履いている赤いスニーカーのつま先を見つめる。
「ごみの分別容器も買ってたしな」
「いや、だからなんなんだよ!?」
「準備していたんじゃないのか?」
「だからなんの!?」
「世界を変える準備だよ」
ホームに滑り込んできた電車に気を取られたサハラは、つま先を見つめたまま目を丸くする僕の顔をきっと見ていなかったはずだ。
降りてくる乗客を見届けたサハラは、運転手に出発進行の合図を送る。目線は電車の最後尾を見送りながら、彼は言った。
「自分のことを変えるだけじゃ息詰まるなら、もうお前は次のステージに進んだってことなんじゃないか?」
「……?僕はどうすればいいんだよ」
彼は僕に向き直って、
「人を助けるんだよ」
そう言って腕時計に目をやった。
「そうだな。まずは教えに行ってやれよ。ちょうどいい時間だろ?」
時刻はいつの間にか午後6時を回っていた。僕は働いていた頃、よくこのくらいの時間に退社していた。
意味は全くわからなかった。わからなかったけれど、サハラが言った言葉の意図には心当たりが一つあった。
・・・
横浜から出る私鉄の一つ、いつもの号車に乗ると、彼は優先席近くの手すりにつかまり立っていた。
僕はゆっくり近づく。彼の周りには不思議なほど人がいなかった。
近づいてくる僕に気づいたのか、怪訝な顔をして彼は目線を僕に向ける。僕は言う。
「チャック、開いてますよ」
彼は恥ずかしそうにズボンに手をやりながら、教えてくれてありがとうと、僕に言う。彼の言葉を聞きながら窓の外に目をやると、すっかり日が暮れていた。
・・・
サハラは今日も仕事明けにうちを訪れ、マグカップにコーヒーを注ぐ。
「なあ」僕はスマートフォンを眺めるサハラに聞く。
「ん?」彼は画面から目を離し、鬱陶しそうに前髪をはらってこちらを見る。
「あれ以来、暮れない一日は訪れていないよ」
「ああ。ちゃんと干してんだな」サハラはベランダに干された布団に目をやってから、スマートフォンの画面に目線を戻す。
僕は間髪入れずに言う。
「なんであの現象が起こるか、わかるのか!?」
サハラは目を丸くしてこちらを見る。彼とつるむようになって、それなりの月日が経つが、サハラがこういう表情を見せるのは珍しい。
「え?そこから?」
「いやいやいや、お前はなんでわかるんだ!?」
サハラはその問いには答えなかった。代わりに問いを返す。
「お前、この間布団を裏表返して日に当てたか?」
僕は頭が沸騰するくらい、前回の“暮れない一日”のことを思い返した。
「返してないわ」
「ばかやろう。だからきちんと干せって言っただろ」サハラは笑って言った。
「自分が良いと思ったことはきちんとやれ。じゃないとまた迷うことになるぞ」
それ以来、暮れない一日は訪れなくなった。そして僕は、在宅でできる仕事を始めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?