見出し画像

面白くありたい【小説】

目の前に懐かしい人が立っていた。

「え?あ、お久し振りです」

私はシムラ先輩に頭を下げた。「お久し振りです」背の高い先輩の声が頭の上から聞こえる。

私は顔を上げて先輩を見た。昔と変わらない。

先輩の背後には長いエスカレーターがのび、仕事を終えた人たちが次々と出てくる。この港町のシンボルタワーの玄関口だ。

三日月の光のような、やさしい黄色のあかりに照らされて、タワーも、先輩の姿も、なんだか私をひどく感傷的にさせた。

「あの」私は口を開く。

「今、時間ありますか?」

「少しだけなら」

「ではそこのベンチに座って話しませんか?」

私はエスカレーターの影に隠れるようにたたずむベンチを指さした。

そうしましょう、先輩はそう言った。人の流れに逆らうように、私たちは歩いて、ベンチに腰かけた。

体格のいい先輩には、このベンチはいささか小さいようだ。

私たちはしばらく黙って、まちを行き交う人を眺めていた。冬の冷たい海風が、時折容赦なく私たちに吹きつける。

「こうやって二人で話すのなんて、初めてじゃないですか?」

私は思わずおどける。

「そうでしたっけ?」

先輩はほがらかに笑って、こちらを見ていた。風が強く吹いているはずなのに、先輩の髪も、服も、まるで時が止まったように動かなかった。

「いや、初めてじゃないです」

私はそう言って口をつぐみ、自分のばかげた軽口を呪った。

だってたくさん話したじゃないか。この人に仕事を教えてもらった。

先輩はおそろしく仕事ができる人で、それでいてその仕事をとても大切にしているように私には映った。そんな人から語られる仕事の知識は、朝露のように生き生きとしていた。

先輩は私の4つ上のはずだ。大人っぽかったからすでに重鎮のようなオーラがあったけど、あの時27歳?今思うと信じられない。

「ササキさんは、軽口が減ったんじゃないんですか?ナカガワさんとかカナリさんに、よく話してましたよねえ」

急にしょぼくれた私に、先輩はけしかける。

「えー、もう10年も前じゃないですか。色々世の中知って、そりゃあ口も重くなりますって」

私は恥ずかしさをごまかしながら答えた。

「ササキさんはジョブホッパーでしたからねえ。聞くたびに違うことしてましたもんねえ」

先輩は川の向こうにある大観覧車を見つめながら言った。

私は新卒で入った会社を2年で辞めた。ここではないどこかで、何者かになりたかった。

私はうふふと力なく笑う。大観覧車へと視線を移した。そして私は、気づくと口にしていた。

「一年前、先輩が事故で亡くなったという報せを受け取った時は、信じられませんでした」

先輩はこの時どんな表情をしていたのだろう?どうしても思い出せない。ただ、先輩は何も言わなかった。

「めっちゃ泣きました」

「私たち、そんな仲良かったでしたっけ?」

先輩はここで吹き出して返す。先輩のやわらかい声が夜に溶けた。

私はちょっぴり傷つきながら、同意した。

「ほんと、数年に一度、元職場のメンバーの集まりで顔を合わすくらいだったのに、なんでこんな悲しいのか、自分でも理不尽に思いました」

「なんか急に失礼ですね……」

「ジョブホッパーなんで」

私は軽口を叩いて自分を鼓舞しなければ、話を続けられなかった。

だって、思い出があふれてくる。夜まで仕事に明け暮れた。客の文句を言い合った。対応に困った時先輩の姿を見つけると安心した。仕事終わりにみんなでごはんを食べに行く解放感は最高だった。先輩が好きだと言った麻婆豆腐を私も好きになった。業務を語る先輩の楽しそうな横顔。

お互い職場が変わっても、先輩は変わらない態度で接してくれるのが心地よかった。

「先輩、前言ってくれたじゃないですか。ササキさんは聞くたび違うことしてる。だから面白いんだって」

「言いましたっけ?」

「忘れないでください」

「すみません」

「私はもっと、あなたを面白がらせたかった」

私は芸人みたいなことを言いながら、泣いていた。

先輩は何も言わずに、前を見つめていた。こんなに悲しいのに、先輩の視線の先に広がる港町の夜景は、ただただ美しかった。

「すみません、この状況が十分面白いってことで、今回はお互い手を打ちましょう」

私は鼻声で提案した。

「お互いって、私も勘弁してもらわなきゃいけないんですか?」

先輩は呆れながら立ち上がった。私もそれに続く。

私たちは握手した。私は先輩の手を握り言った。

「尊敬してました。今日はわざわざありがとうございました」

先輩は、笑ってくれたのだろうか?最後に先輩の表情を確かめることはできなかった。なぜなら、先輩の姿はなんの前触れもなく消えていたから。

納得できるわけがない。先輩がこの世界から突然失われてしまったことを。

悔しかった。理不尽だった。

寂しかった。

でも、どうしようもなく自分に自信が持てなかった私に、面白いと言ってくれた、やさしい存在が間違いなくいたのだ。この世界に。

涙が止まらなくても、私は駅へと歩き始めた。悔しさと寂しさを抱えて。先輩の言葉をお守りに、私はこの世界を生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?