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古いノートを開いたら、1989年夏のエッセイが残っていた

 Made in Englandのオレンジ色のノート。私がイギリスにいた1989年の半年ほどの間に、様々な予定や旅の計画、日々の出納まで、雑多なことを書き込むために愛用したノートだ。

 先日、片付けの最中、久しぶりに見つけて開いてみると、そこには、バックパッカーの旅を始めた日に書いた、日記ともエッセイともつかぬ文章が、とんでもなく雑な文字で記されていた。

 こんな文章を残していたことなど、すっかり忘れていた。懐かしいので、そのままここに載せてみようと思う。


『8/28(月)
私の旅が始まった。真白なノートにルートを書き込んだのは、ほんの昨日のことだ。旅は自由だ。ダメになったらやり直しはいくらでもきく。気ままな旅だ。

バックパックに詰めた荷物は、思いのほか肩にずしりとくる。不安な気持ちのまま、ロンドンはビクトリア駅へ。ここが今回の旅の起点である。
ビクトリア駅はもう何度目かだった。8月も末だから、はじめてこの駅に降り立った時の混雑ぶりはもうない。この駅では南西サウスウエスト方面の列車の発着がされている。私はイギリスとフランスを隔てたドーバー海峡を渡るべく、一路港町ドーバーへ。

最初から旅というものはそう飛ばしてはいけない。今日の宿はここドーバー。B & Bも田舎だと格段に安い。親切な男の人が経営するこじんまりとした家で私は初日の疲れを癒すことになる。旅はまだこれから。不安がちょっぴりつのった日だった。

8/29(火)
本格的な旅は今日からだ。B & Bのおいしい朝食をすませて出発。
ドーバーの町にはドーバー・キャッスルと呼ばれているお城がある。丘の上から街を見おろしている。レンガ色がかなり落ち着いた色にかわっている。ヨーロッパ特有の要さい型の城だ。港まで歩くと城がとても綺麗だった。

港には何艘もの船が停泊している。独特の雰囲気だ。しかし私の船はその中のどれでもなかった。たった35分でドーバーを渡らせてくれるスピード船は、小さなホバークラフト。小さいといっても100人や200人は乗れるのだろうが、すごく不思議な乗り物だ。陸で船底のゴムにいっぱい空気をおくりこんで、そのまま走り出す。気がつけば水上の人とというわけだ。船旅の情緒などかけらも感じない。あっけない渡仏、そして入国だった。

直筆ノート

さて私はブローニュ(ブローニュ=シュル=メール)に渡ったのだが、まず1時間、時間を損することになる。と言っても、時差があるから。

ブローニュからはパリ行きの直行列車だった。隣に座ったアメリカ人らしきご夫婦と話した。ご主人はヨーロッパ旅行を、しかもたった一人で怖くないか?と尋ねてくる。全然怖くないと答えると、「彼女は僕の英語を理解していないね」と夫人に言って、もう一度ゆっくり繰り返し、強盗の真似をしてみせた。
「怖くない」と言うと、不思議そうな顔をした。

パリには夕方の5時到着、パリ北駅に降り立つ。隣の夫人はなんと私の名前を一度に覚えたらしく、”バイバイ ミミコ “と言ったので、驚いた。日本人の名前はストレンジらしくて、今までこんなにちゃんと覚えた人がいなかったからだ。

さて今日はパリ発の夜行寝台にのる。夜11:30発だから、それまでシャンゼリゼ通、凱旋門、コンコルド広場あたりを観光。夕日にはえるガイセン門はすてきだった。』

(それにしても雑な字‥)



 文章はここでプツンと終わっていた。後にも先にもこれだけ。

 そしてこの後、寝台に横になっていると、車掌がやって来てフランス語で捲し立てられた挙げ句、その寝台車には乗れなかったのだ。
 その直前の私がしたためた文章がこうして残っていた。勿論、この時は、この寝台列車に乗れないなんて微塵も思っていなかったはずだ。


 ノートの中には、旅の始まりに不安を吐露する私がいた。そんな自分を落ち着かせようと、足跡と体験を見たままに、思ったままに殴り書きしたのだろう。それはもう一人の、平静を保とうとする強気の自分。

 どちらも正真正銘25歳の私だ。

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