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女性視点、男性視点、そしてたくさんの異なる視点

 私はもちろん、自分の視点で文章を書く。先日は『つばさ』というタイトルで、女だからと性別だけで決めつけられることに不満を抱いていた、少女時代のことを書いた。それを読んだ九十歳の父が、ふと、話し始めた。

 「戦時中は、男子はみんな軍隊に入ったんだ。徴兵検査を受けて、多くの若者、学生も、戦地へ赴き死んでいった。自分たち子どもだって、もうすぐみんな兵隊になる、男はそれが当たり前だったんだ」父はただ、そう言った。

 もちろんそれは、知識として理解しているつもりだったが、父の口から語られたことで、より鮮明なものとなった。そして、その現実がたとえ理不尽なものだとしても、子どもだった父が『当たり前だ』と自分に言い聞かせることで振り切った、口にできない感情を垣間見た気がした。同時に、未だに時折り現れる、父の中に色濃く残る戦争を、目の当たりにしたのだ。

 しかしなぜ、この時、父が戦時中の話をしたのか、直ぐにはその真意が掴めなかった。時間が経っても、そのことが私の頭から離れず、引っかかっていた。数日後、小さな明かりがふわっと灯るように、私の中に一つの答えらしきものが現れた。私はこう解釈した。

 『軍に入隊する、国のために戦う。それも否応なしに、「男」として生まれたものの宿命として。そしてそれは、銃後に位置する「女」たち、母、妻、姉妹たちを守る盾となるためでもあった。それは、仕方がないのだ。何故なら、自分たち男がやらなかったら、いったい誰がやるんだ』

 当時「当たり前」と腹を括った、男性たちの感情や視点を持ってすれば、時代は違えど、私の考えは女性視点に偏りすぎていたと言わざるを得ない。

 父はこの話をすることで、異なる視点の存在を、私に気づかせたい、伝えたい、そう思ったのではないだろうか。

 私たちは元来、みな、違う誰かとして生まれ、その向かうベクトルは千差万別、視点が違うのは当然だ。しかし、違うから相容れない、ではなくて、先ず違いがあることを知ろうとする、その努力を怠らずに継続する。それは、生活の中で何かを考える時、あるいは何かを書こうとする時に、保つべき姿勢なのだと再認識した。

 日本には『お互い様』という言葉がある。それは、相手の状況を理解し、その立場に立ってみようとする気持ちの表れだ。そうした感覚を持つことは、悪くない。そして、人の話を聞き、考え、それを積み重ねていく。言い古されたことかも知れないが、つまるところ、互いの違いを知る近道は、相手の話を聞く、これに尽きるのではないだろうか。今回私が父の話を聞いて、思うところがあったように。

 今後も私は、自分の視点で考え、何かを書くだろう。しかしその時々に、思い出そうと思う。たくさんの異なる視点があることを。

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